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救世主ベン(アメリカ留学#3)

 大学について、関係者と諸々の挨拶を終えて、僕はエドワードにこれから二か月ほど住むことになる寮へと案内された。言い忘れていたが、これは六月の出来事で、大学は夏季休暇中だった。そのため学生を含むほとんどの人がいない。本来なら学期が始まる九月ごろに入学が一般的だが、僕は六月から八月にかけてサマースクール、いわゆる夏期講習を受けるために一般よりも早く大学に来ていた。理由は単純、僕の英語力が入学基準に達していないからだ。

 入学するにあたってIELTSという英検のような、というとあまりにざっくりとした紹介だが、とにかくそういう名前の英語能力を証明するためのテストで良い成績を残さなければならない。しかし十分な成績を残せなかったため、この大学に入学するためにこの夏期講習を受けなければならなかった。この夏期講習を受けさえすれば、必要な英語力が備わっていると認められ、晴れて一年生として正式に大学に入学することができるというわけだ。

 案内された寮の部屋は、キッチンとちょっとしたリビングに部屋が四つ、それに加えてそれぞれにユニットバスがつくというなかなかに豪華な部屋だった。既に二人ほど人が住んでいて、同じ部屋を共有すルームメイトではなく、その家全体を共有するシェアメイトというわけだった。

 部屋について自分の荷物を適当に置いた後、その二人の部屋のドアをノックする。引越しの挨拶だ。なるべくフレンドリーで接しようと笑顔を作り、つまらないように挨拶の文言を頭の中で組み立てておく。シェアメイトは一人がメキシコ系で、もう一人が中華系の人だった。笑顔で挨拶すると、向こうも笑顔で返してくれた。しかしそれ以降、彼らと話すことはなかった。彼らが僕の見立て通りメキシコ系と中華系なのかもわからずじまいだ。もしかしたらアメリカ人ではなく、僕と同じ留学生だったかもしれない。しかし、全ては謎のままだ。タイミングが悪いのか、最初の挨拶以降、僕が引越しをするまで彼らと会うことはなかった。もしかしたら彼らは時差ぼけが生み出した幻だったのかもしれない。

 自室は決して大きくなかったが、十分な広さがあった。二段ベッドに、クローゼット、そしてタンス。一人で暮らすのに何の不自由もない。ようやく住処にたどり着いた僕はアメリカに来た興奮と疲労と安堵の気持ちが混ざった独特な状態にあった。そこで、とある問題が浮上した。水がないのだ。実は寮に来る前にエドワードとスーパーによっていたが、ドライヤーやら洗剤やらを生活必需品を買うことを意識するあまり、水を買い忘れていた。

 ないと思うと、ますます喉が乾く。キッチンに行って冷蔵庫を開けてみるが、ほとんど何も入っていない。蛇口を捻って水道水に口をつけてみるが、めちゃくちゃまずかった。断っておくが僕は別にアルプス山脈からとれた雪解け水以外は口にできないみたいなセレブなわけではない。たとえのどが渇いていても、僕には飲めない味だったのだ。

 仕方なく、我慢して寝ることにした。時差ボケで疲労がたまっているはずなのに、うまく眠れない。それでも目を閉じてなんとか意識を薄めていく。存外、悪い気分じゃなかった。旅にハプニングはつきもの。小さなハプニングだけど、これはこれで非日常感があって面白い。

 翌朝、朝早くに目が覚めた。時差ぼけのせいだ。疲れていたはずなのに4時間くらいしか寝ていない。なのに頭はすっきりしている。不思議だ。僕は服を着替えると、キャンパスのバス停に向かった。昨日エドワードにどのバスに乗ればスーパーに行けるか聞いておいたのだ。エドワードはやはり頼りになる。チポトレじゃ助けてくれなかったけどな。

 バスはなんと大学から発行されたIDカードを使えばタダで乗れた。すばらしい。一応バスの運転手にこのバスはスーパーまでいくか聞くと、「Yes」と答えてくれた。一度聞き返されたが、チポトレの注文を乗り越えた僕にその程度なんてことない。適当な席に座って、バスがスーパーまでつくまで待つ。乗り物酔いが不安だったが杞憂だった。バス移動も悪くない。

 昨日ぶりにスーパーに到着。このスーパーは日本でいうところのスーパーとは規模感が違う。デパートとまでは言わないが、品ぞろえはかなり豊富だ。食品から家具まで売っている。とにかく喉が渇いていた僕は、まっすぐに飲料水売り場まで向かう。大きな冷蔵庫にズラッと並ぶ飲み物の数々。当然水もそこにあった。

 500ミリリットルの水を数本買おうと手を伸ばしたが、ふと周りを見てみると、500ミリリットルの水が24本パックになっているのを見かけた。「今後いちいち買いに来るのは面倒だな・・・」。そう思った僕はその24本パックを二つ重ねて持ち上げるとカートに入れた。これだけあればしばらく水には困るまい。すぐ飲む用にパックされてない500ミリリットルの水を買うのも忘れない。

「これだけのものを入れられる袋なんてないよ」

 そういわれたときの衝撃はすさまじいものだった。「これだけのもの」とは当然500ミリリットルの水の24本パック二つを指している。当たり前である。どこにそれだけの大きさのものを袋に入れて持ち運ぶやつがいるというのだろうか。基本的に車で買い物に来るのがアメリカ流だ。徒歩で来てこんなに買い込むやつなどいないのだ。袋さえあれば持ち運べる重量だと思っていたが計算が違った。

 考えればわかりそうなものだが、のどが渇き過ぎていると人間こんな行動に出るものだ。しかし後には引けないので、パックを重ねて両手で運ぶことにした。さながら引越し業者のごとく、のそのそとスーパーを後にする。スーパーからバス停まで歩き、キャンパスまで帰る。そこから寮までまた歩く。時間はかかるだろうが仕方がない。やるしかなかった。

 バス停付近で、僕はまたしゃがみ込む。雲行きが怪しかった。想像以上に水を運ぶのに体力を消費していた。自身の計画性のなさに辟易していると、一台の車が止まる。

「HEY!お前、<大学名>の生徒か?」

「Yes」

「乗ってけ!送ってってやる」

 救世主、ベン(仮名)の登場だった。ベンは偶然にも大学の電気系の修理をやっている人らしく、大きく分ければ大学の関係者だった。一瞬、このままどこかへ連れ去られたらどうしようかという考えがよぎったが、なるようになれと厚意に甘えて乗せてもらった。

「・・・お前さん中国人か?」

「いや、日本人だよ」

 アジア人は皆中国人だと思われるという海外あるあるに初めて遭遇した僕は、可笑しくて笑いながらそう答えた。ベンは気にせず話を続けて、時折助手席の彼の妻にも話をふる。いつ来たのか、とか適当な世間話をしているうちに、僕たちは寮の入り口についた。僕は、ベンにお礼を言って車から降りると、ベンも一緒に降りた。なんと水を一パック部屋まで運んでくれるという。彼の優しさに少し涙が出そうになった。

 大柄なベンは両手でパックを運ぶのではなく担いで運ぶ。逞しい男だ。何事もなくベンと僕は部屋までたどり着く。

「ここにおいていいか?」

「ええ。ありがとうございます。」

「ぅふぅー。問題ないよ。しかしどうしてこんなに水を買ったんだ?」

「・・・喉が渇いてたんだ。ものすごく」

「・・ああ。そうだろうな」

 二パックの水に視線を向けながら、ベンはそう言って笑った。彼とはそれっきり会えていない。ここでお礼を言っても彼には届かないだろうけど、それでも言いたい。

ありがとうベン。あなたは僕が初めて出会ったアメリカの良心だった。


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