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「日曜日」——『さよならデパート』ができるまで(25)

本作りの仕上げが「校正・校閲」だ。
誤字脱字を見つけたり、事実関係に間違いがないか確かめたりする作業なのだけど、これが「地獄」と呼ぶにふさわしい。

いや、他の人が書いたものなら割と楽しいのかもしれない。
新しい情報に接することができるし、
「あっ、『証明』が『照明』になってるよ」
とか言って、間違いを見つけるたびに純米せんべいでもバリバリやっておけばいいのだから。
まあ、ミスを見逃したら著者に対して責任が発生するのだから、気楽なはずはないのだけども。

ともかく、自作の見直しは大変に憂鬱だ。
ただでさえ何百時間と付き合ってきた文章を、最初から読み返さなければならないのだから。しかも、こっちからしたら、もう知ってるよってことしか書いていない。知的好奇心が一切排除された読書は、もはや拷問だ。

ただし、この工程を飛ばすわけにはいかない。
誤字脱字は必ず出てくる。絶体、いや絶対だ。
よくあるパターンが助詞の二重タイピング。「デパートをを」とか「私がが」とか、文章を何かしら修正したタイミングに、消し忘れた文字が残っている。
別に私がレディー・ガガだったら「私がが」でも間違いじゃないのかもしれないけど、まあ大抵はミスだ。

先に紹介した変換違いにも注意しなければならないし、表記が正しいか統一されているかも確認が必要だ。
百貨店の「たかしまや」は「高島屋」でなく「髙島屋」だとか。
「頰」と「頬」が混在していないかなど。

ちなみにこの作業は、パソコンでざっと検索洗い出しをした後、さらに全ページを印刷して行う。多くの人がそうらしいのだけど、画面より紙の方が間違いを見つけやすいからだ。
確かにわんさか出てくる。そして落ち込む。よく平気でこんな書き間違いをしていたものだと、ミスが発覚するたび傷心を紛らわすように純米せんべいをバリバリとやる。

一度見直して終わりではない。
次は音読だ。黙読で逃していた誤字が、声に出すことで捕まられることはよくある。もはやあるあるだ。それに、文章のリズムが悪かったり、似た言い回しが連続していたりなど、音読することで気づく欠陥も多いのだ。
だからひたすら音読する。300ページを音読すると、絶叫じゃなくても喉に負担が掛かるようだ。声がかすれ、さらに目まいすら感じた時は、コロナにかかったのかと思った。

そんな疑似コロナを経て、ようやく地獄の炎を逃れる。
何度も同じ文章を読み過ぎて、はっきり言ってもはや面白いのかどうかは分からなくなっている。味覚を失った状態で料理店を営んでいるようなものだ。
それでも印刷所に入稿しなきゃいけない。

入稿を終えても安心はやって来ない。
そこからは「やっぱり見落としがあるんじゃないか」とおびえる「地獄・セカンドシーズン」の始まりだ。Amazonのレビューに「誤字だらけ」と書かれる夢にうなされ続ける。

ちなみに『さよならデパート』の初版には変換ミスが1箇所残っている。
指摘された時には「あれだけ見直したのに」と頭を抱え、夜の街をさまよい、自暴自棄になって昔からの夢をウイスキーの氷と一緒に溶かしたものだけど、もうこうなったら開き直ってクイズにでもするしかない。
見つけた方は、直接私に会う機会があれば耳打ちしてください。
何かしら賞品を差し上げます。

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