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映画『あの子は貴族』-現在(イマ)を生き抜く東京成長譚-

それぞれにそれぞれの景色・呼吸のし辛さ・ひと時の幸せがある。
どの主人公にも寄り添いつつ離れつつ、温かくもヒンヤリとした映画だった。

あらすじ

親が医者で経済的に裕福な家族の末っ子である華子(門脇麦)が、家族の結婚圧に呑み込まれる中で、政治家系で育った超裕福家系の幸一郎(高良健吾)と出会い、念願の結婚をする。しかし、幸一郎と長らく関係があった、地方出身で経済的に一人で自立せざるを得ない状況ながらも、自分らしく生き抜こうとする美紀(水原希子)と出会い、華子の歯車が加速する。

その人なりの景色

この作品は、華子や幸一郎を始めとする富裕層の人たちと、美紀を始めとする富裕層ではない人たちといった、レイヤーが物語の骨格として敷かれている。ただ、「富裕層=キラキラ羨ましい」とか、「富裕層ではない=苦労して可愛そう」という短絡的な二元論ではなく、それぞれの階層ならではの情景や生き辛さや幸せの一瞬がミルフィーユしている。

住むセカイが違うからこそ、軋轢も生じるし、住むセカイが違うからこそ、化学反応が起こりうる。華子や幸一郎が美紀に依拠したことも、美紀が富裕層ならではの事情を理解できないからこそ、富裕層に属する自分を忘れて、無垢な自分を解放したかったという事だろう。

タクシー・自転車・徒歩-ファジーな私たち

本作は、移動手段が大きな象徴となっている。
華子の移動手段は、いつもタクシー。タクシーという座っておけば進む箱に、華子は入り、窓越しに外の世界を傍観する。一方、美紀の移動手段は、いつも自転車で、人が行き交う街並みの中心に入り込み、突き進む。
しかし、華子は美紀を久しぶりに見つけた途端、タクシーを飛び出し、美紀と再会。その後、ありのままの心を受け入れて、徒歩で街を歩きだす。

お家にいる私的(プライベート)な私から、仕事場や学校といった社会に息する公的(パブリック)な私へ繋ぐ移動時間は、ある意味、プライベートとパブリックが入り混じるファジーな私。
タクシーでどこか社会と距離を置いていた以前の華子は、社会と繋がるパブリックな華子を弱めていたが、美紀を始めとする様々な人と出会う中で、パブリックな華子を強め、自分らしく生き抜くことを決断していくーそんな彼女の移ろいを移動シーンが表現しているのが、本作の象徴の一つ。

温かくもヒンヤリとしてフラット映画

視聴前は、「シスターフッド」・「ガールズエンパワーメント」ものの作品かと思っていたが、非常にフラットな映画だった。

日本の中では人種のルツボである東京を舞台に、それぞれの階層の人間が、それぞれの葛藤や幸せを求めて、生き抜こうとする姿が描かれている。そこには、富裕層であってもなくても苦悩はあるし、女は強くて素晴らしいと賛歌している事に焦点をあてている訳でもなく、並列で描かれていた。ある意味、勇気付けられるし、ある意味、距離を適度に置かれた冷たさも感じた。

どうしても自分と似たもの同士を探したくなる生き物だけど、自分の人生の中で、様々なカラーやオリジナルを持つ人間交差点を起こして、孤独を吐露する仲間を大切にしながら、自分らしく生きる。その事を直視し続けることを忘れないでほしいと、言ってくれているような作品だった。

<視聴後に触れると楽しいスルメコンテンツ>

TBSラジオ『アフターシックスジャンクション』ムービーウォッチメン:https://www.tbsradio.jp/572127
→教科書のような情景解説で答え合わせにもってこい

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