見出し画像

求めるモノ、

どうも!

もう『夏!』ですね〜。

昨日から今季クーラーデビューしちゃいました。

まだまだと思いつつも、子供いるので。


さて前回のお話の続き。


ひいおばあとのエピソード、これは本当に、明治生まれの歴史的な人を傷つけたダメージは今もなお心に残って苦しい。


そして、ひいおばあが亡くなり、私も時系列がグッチャリした記憶しかないけど……


そのあと帰省もついて行く機会が減り、孫たちは部活やら合宿やらで揃わなくなっていく。

そんなときふと思いつき、バイトで資金調達して青春18切符片手に一人旅して、行き当たりばったりの旅した。(旅が終わった翌日は朝からまたバイトのシフト入れるというチャレンジャーな計画だった)

ただスケジュールの関係で行きは途中まで新幹線、でも帰りは18切符フル稼働で普通列車での帰路。


移動中の電車内で検索してビジネスホテル予約したりして。

あてもなく、自分の思い出に浸る旅。


1人だからこそ見えてきたものもある。

特に連絡もしてなかったけど、父方の祖母のいる施設に飛び入りで訪ねてみたり。


祖母はその時、高齢者住宅建物内のデイサービスのようなところにいて、会ったとき驚いてたし、施設の職員もどこから来たか聞いたとき驚いていた。


そしてデイを中断して部屋に案内してくれ、まあまあ広めの個室だったかな。

昔からの知り合いも入居していたようで、楽しそうな雰囲気。


軽く話して、ホテル予約して次の行き先向かうはずだった。


「泊まるとこは?」「お金ないからあげられなくてごめんね」と。

「これからホテル予約してそこ行くで、大丈夫よ」と返事したら職員に相談し始め、利用料から上乗せで、その日の夕食とよく朝の朝食、つまり1泊祖母の部屋に布団入れて寝ることを快く許可してくれ、むしろせっかくだからと大歓迎してくれた。

こんなの親戚や親にバレたら怒られるんちゃうかと思いつつ、せっかくだからと親とテレビ電話繋いでオンライン面会が実現した。


当時スマホ持ってたのは家族で1人だけで、Skypeというアプリを入れてたので家のパソコンと連絡が取れた。


そして事情も説明し、最後に会ってから4年ぶりくらいに一緒に過ごした。


あの夜は今でも覚えてる。

シャワールームもタオルもドライヤーも貸してくれた施設には、めちゃくちゃ感謝してる。

いま、こういう施設あるだろうか。


少食になって痩せ細ったと聞いていたが、一緒にいる間はよく食べよく笑い、ステキな時間だった。

わだかまりが若干あったので、こんなふうに持ってきてたお菓子をこっそり食べて談笑なんて叶うと思ってなかったし、「来るな」と断られると思ってた。

孫ランクでは最下位に位置していたからね。

でも後にも先にもこんなことしたの私だけだと知ってちょっと嬉しかった。


旅から何年かして、亡くなったとき、さほどショックではなく、葬儀には行けなかったけど、あのとき会いに行って一夜過ごして正解だったと自信をくれた。



ほどなくして、東日本大震災、実母方の祖母が白血病になり……(震災きっかけなのでは?と言う人もいたよう)

福祉の勉強してわりと知ってたから、在宅の介護申請や手すりの設置車椅子の扱い方や福祉用具のこと、実母じゃ付き添いは頼りないからって申請のとき家に行って付き合う。

親のことくらい娘息子いるのになぜ孫が駆り出されたんだとちょっと思ったけどな。

まぁ、頼ってくれて嬉しかった気持ちはある。(実母には若干呆れたけど)


要は、祖母がいたから実母に会ってた部分があって、結局、祖母が亡くなる前に連絡くれて会うことができて、親族側として葬儀に出られた。

葬儀の費用というか、卒塔婆と呼ばれる名前書いた縦長の板、「孫一同」で割り勘かと思いきや、この家族は一人一人出すのがルール的な話で、孫は親が出すみたいな感じだったけど、実母はお金ないとかその時もバタついてたきがする。

そんなこんなで

「お母さんどうするの?親族じゃ預かれないよ、将来的に面倒見るの?介護の勉強してるんでしょ?」なんて言われたり。まぁ、お断りしたし、法事は行くかもしれないけど会うことはもうないだろうなって。


この家族とはこれでいいんだ。


私はそれよりももっと大切な、関係自体は短かったけど濃いものにできたとおもってる、養母方の祖母。

結局施設時代は会いに行けなかったけどいよいよまずくなり入院したときは家族でお見舞いに行けたし、葬儀も初めての形式で独特だったし、しきたりとかわからなかったけど出席できて、何故かこの時は人が亡くなった中でも1番大泣きした。

たった一回だけど、孫だと認識した瞬間があったことや、テレビ電話中に親子喧嘩し、聞かれちゃったときなんだか「本当の子じゃないから」みたいなことを祖母が言ったけど養母は「今は私の子だから」と強く言ったことがなんだか記憶に残ってる。

今でも時々思うのは「おばあちゃん」と呼んで抱き合ってみたかったということ。

実際は介護的意味合いで何かしたけれど、それがちゃんと関係として成立しておらず、遠慮の塊だったから出来なかった。

「本当の元気な頃を知らない。」

1番最後に突然現れた孫だから仕方はないけれど、よく言われたもの。


そう、身内が減っていくことへの抵抗や悲しみは他とは違う。



通っていたピアノ教室の代表をされていた先生が亡くなられたとき、初めて身内以外の葬儀に出た。

その後も葬儀ではないけれど、当時想いを寄せ付き合っていたこともある人が亡くなり、安置室でお線香あげたり……

最近もちょっと色々。(またタイミングみて詳しく書きます)




「上手だね」 「美味しいよ」


食べてくれた父方の祖母や実母方の祖母、言うなれば元彼、最近色々あった人……あなた方が褒めてくれたあの味、見た目は今どうですか?



では。

自分なりの文章で、自分なりの見解でこれからもたくさんの記事を発信していきます📪 どんな形でもサポートしていただけるとうれしいです😊