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わたしごと

まさか最初のnoteがこれになるとは
自分でも全く思っていなかったけど
何故自分が今こうしているのかを改めて
実感したのと自分の為に記録しておく。
頭の中がまとまらないので文章はおかしいかもしれないけど。

4月21日自分がスタッフをしているイベントの最中に田舎の兄から連絡が入って
「父が今晩あたり山らしい」
次の日の朝になり息を引き取ったと連絡が来た

父はいつやら頃から叔母名義の実家で
勝手に暮らすようになり
その叔母が亡くなった後は兄の名義になったが、兄は奥さんの両親の面倒を見ている為、実家には帰らず結局父が1人で住んでいた

固定資産税等は別の叔母が支払っていて
時々お仏壇や家の手入れをしに行く

父は元々子供の時から足が悪くてビッコを引いていたので障害者手帳を持っており、年齢と共に段階も上がって行き
杖も使いながら毎日タクシーやバスで買い物に出掛けては好きな物を買って食べていた様子

両親は兄が2歳頃、私が生後1〜2ヶ月で離婚していて父は同じ頃に家を出てしまい遠くへ。

私達は父方の祖母や3人の叔母に交代で育てられていたので
父と会うのはお盆に半日、お正月に1日だけという感じで父も私達を預けっぱなしの祖母の手前、面倒だけど来ると言う感じ。

気まずいだけの空気が流れて父が帰って行くと私達兄妹もやっと息が出来る感じで
祖母や叔母達だけが束の間親子だからと同じ空間に座らせるけど会話も交流も無かった

たまに会えば子育ての愚痴をこぼす祖母の前で気まずい父が私達にビンタしたり
叩いたりするのでいつもビクビクと落ち着かなくて、お盆もお正月も父が「来るのか」が気になってほとんど楽しめなかった

兄が小学校に入るタイミングで父は兄だけを連れて遠くで暮らし、私は祖母と叔母の元に残って兄妹は離れ離れになった。
結果から言うと私達兄妹はその後
いわゆる父や継母から虐待を受けていた。

夏休みになると父が現れて私を遠くの家に連れて行き、ほとんど家には居ずに継母と家に居る事になるので
兄妹で久々に会えて喜ぶのも束の間
その日から虐待を受ける事になる

実際には兄は私よりだいぶ前から殴られていたという事だ
父が居ると家の中は張り詰めるので
私達はクスクスと小声で話すのも許されず、なるべく父の視線の範囲内から逃れる隙間ばかり探していた

ある時耐えられなくなった私達は祖母に本当の事を打ち明けて
2人とも祖母に引き取られて一緒に暮らす事になり、後に知ったのは父とその継母はそれで喧嘩になり別れたようだ
ちなみに再婚していた事も知らなかったけど。

世の中には一定数
「子供を可愛くないと思わない親は居ないよ」とか
「親御さんにもきっと仕方ない事情があったんだと思うよ」とか
言って来る人が居るけれど
実際には子供を邪魔に思う親は居るのが現実で、だからこそ親や身内から酷い目にあって苦しむ人達が居るのだ

私達兄妹の複雑な事情はここに書ききれないほど山ほどあって
書いていたら読む方も飽きて来ると思うので辞めておく。

兄は成人すると早い時期に家を出て
私は一人暮らしを許されなかったので
祖母が亡くなってからも実家に叔母と住んでいたけど
ある日仕事から帰るといきなり父が連れて来た女性と2人で、私の部屋に自分達の荷物や家具を置いていて
私は横になりながら隙間を縫わないと布団に寝られない事になっていた。

この時、自分の中で何かが静かに消えて
そのまま叔母の所へ行き、家を出る事を伝えた。
叔母も勝手な父達に怒っていたので
すぐに出る事を承諾してくれた。
後々この叔母が居なかったら私達はまともに生きていけなかったかも知れない。

父はいわゆる売れない歌手で
見た目が良いので父を知らない人はすぐ男前だかっこいいだと言っていた
足が悪かった事もありビッコ引いて歩けるけど力仕事などは出来ず、芸人だった祖母の影響もあってか
あちこちのショーやホテルでのイベント等に呼ばれてはステージに立ち歌っていた。

我が家は田舎に住みながら農業でもなく会社勤めでもない芸事で暮らしていた。
祖母は昔よ○○との芸人で
今のようなお笑いだけではなく郷土芸能を生業とする師範で
独立後は叔母の1人も一緒に舞台に立ったりお米や地元のお菓子箱のイメージモデルをしたりしたので一見華やかに見えたかも知れない

実際には生活が豊かなわけでは無く
1ステージごとにギャラを貰うので
仕事の数次第で生活費も変わる。

祖母は生前鬼軍曹のように厳しく
親が居ないからと馬鹿にされないように、礼儀や人前での振る舞いにうるさくて
学校の鞄を毎日確認して必要ない物を
持って行かないか毎朝チェックされたり、髪を乾かす時もカールが出来るドライヤー等は一切禁止だったので、夏は扇風機の風を使ったりしていた。

お小遣いなんて貰った事が無くて
同級生が持っている娯楽やおしゃれは
何も手に入らなかった10代。
手作りはこの頃の経験から身に着けた。

貧乏で苦しかったけど神仏を大切にする祖母が、季節の行事はささやかでも必ず実行してくれたので兄と私はそれが楽しみで仕方なかった。
朝昼晩と食事の前にはお経をあげ
お盆は三ヶ日全てお参りをかかさず
1日でも行かないとバイト先まで電話が
かかってきて酷く怒られる。
だからバイトで帰りが遅くなっても必ずお墓参りには行った
祖母には霊感があって時々不思議な事があったのを覚えている。

仕事がら、着物や帯、小物等は良い物が多くて私以外は全員着付けも出来た。
お正月に着物を着せて貰う時だけは
皆んなのように蝶々等の作り帯ではなく
長い帯を2人がかりで結んでもらう本格的なもので、近所の人が見かけると声をかけられて褒められるのが嬉しかった。

しかし子供の時から同級生が羨ましくてこんな苦しい生活は祖母が居なくなれば変わるのか?と思い続けていたけど
厳しい祖母が亡くなると、父が女性を連れて帰って来て陣取り、結局自分はここに必要で生きているのか?とその頃にはもうわからなくなっていた。

小さなワゴンを借りて、少しだけの荷物を積んで安い借家に引越して一人暮らしが始まったけど、父に文句を言われて
炊飯器も無くてしばらく惣菜を買って食べたり食べなかったりして痩せていき、
ある日高熱で寝込んでいる所へ親代わりの叔母が心配して炊飯器を買って来て
くれてからご飯を食べるようになった。

それ以降、親代わりの叔母とは連絡しても父とはよっぽどの用事がないと話す事も会う事もなくなった。

兄妹仲は良かったから兄とは連絡したり
時々借家に泊まりに来たり
学生の時から、付き合う相手が出来ると同性から見てどう思うか、お互いの意見交換もした。

兄は外見的にも内面的にも老若男女関係ないほど好かれる人で、養子の話しが2度もあったほど。
努力と行動で有限会社を立ち上げて
今は地元で車会社を経営している。

私は紆余曲折あり出産後1年半で転勤により県外へ移住し、今に至る。
ちなみに子供が産まれる前の1年半ほどは
入退院を繰り返していて、その間に道路の立ち退きにより実家も建て変わっていたらしい。

何年かたって親代わりの叔母の1人が熱中症で突然亡くなり、その時初めて実家に行って久々のお仏壇と叔母に手を合わせる事が出来た。
父は1人で気ままに実家で暮らし始め
生まれた家が心配だと、もう1人の叔母がお墓とお仏壇を見に時々尋ねていた。

私は年に2回はビジネスホテルを予約して帰省し、叔母を乗せてお墓参りは必ず行って友達に会ったり地元のイベントに呼んで貰ったりすると帰っていった

もうステージに立つ事もなく仕事も無い父にと、叔母と市役所から連絡を貰い、生活保護を受けて貰っていた。

自分がこうなったのは子供達に捨てられたからだ!と言い続け何度か手を差し伸べた兄に対しても、兄がボランティア団体に加盟している事を知ると、親を助けもせずに!と悪評を立て
会社に影響が出て、取り引きが全てキャンセルになった事もあった

実際には兄と叔母が必要な経費等を代わりに出したりして父の生活は成り立っていたのに当然だと思っていたのだ

さすがの兄も疲れ果て、父と一切顔を合わせないように暮らすようになり
私は田舎から離れている事で助かっているだけだと罪悪感を抱えたまま暮らしていた

いざ父が入退院を繰り返すようになっても連絡先は叔母なので叔母が全ての手配をしていたし、在宅介護さんのお陰で最後の2ヶ月は施設にも入る事が出来た

本人は最後までよく喋り、好きな物を食べて飲んで施設や病院の食事に文句を言っていたようす

その時が近いかもと察した叔母が面会のたびに食べたい物を持って行き、最後の1週間ほどは差し入れを喜んで食べていたそうた。

亡くなる1週間ほど前になって
いきなり私に会いたいと叔母に言ったそうだけど叔母は何をいまさら捨てた子供にと理由を付けて断ったよと。

            わたしごと1・終

面白い話しでもないので
つづきは気になる人だけ見て下さい。





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