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静寂者ジャンヌ18 あなたは川に浮かぶ木片を気にとめたことがありませんか?


無感であること

言葉が落ち
イメージが瓦解し
自我がほどけ
渾沌の底へと沈んでいく。

自己の救済という
宗教の根幹にかかわることまで
無関心になったジャンヌ。

その時のジャンヌにとって、
「神」とは、何だったのだろう?

当時の手記を読んでいくと、
ジャンヌは苦悩の底でもがきながら、
ぎりぎりのところで
自分をつきはなし、
まるで自分を実験台にするかのように、
観察しているのが読み取れる。

ああ、ぼくのこの状態を、
どう表現したらいいのか? 

ぼくのうちの何かが、
あらん限りの力で叫ぼうとしている。

でも、声が奪われてしまった。

~~~~~

何がこんな状態に陥らせたのか、
言えない、分からない。
自分の苦しみの原因が、ちっとも見えない。

~~~~~

どんなに極限の苦痛にあっても、
ぼくにとって、それは無縁でしかない。

~~~~~

身体は打ち砕かれ、
粉々になり、
ただ大地を求める。

まるで正気を失った者のように
四方八方を見渡すばかりだ。


(今回は、「ぼく」でいこう。)

声が出ない。言えない。
見えない。
分からない。
極限の苦痛にあって、
何も感じない。
五感もない。
内的な直感もない・・・

生きて死ぬ智慧

ふと、
かつて読んだ
柳澤桂子の『生きて死ぬ智慧』(小学館)を
思い起こした。

本棚の奥から探してきた。

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                                           『生きて死ぬ智慧』から


こんなはじまりだーー

ひとはなぜ苦しむのでしょう……
ほんとうは
野の花のように
わたしたちも生きられるのです

もし あなたが
目も見えず
耳も聞こえず
味わうこともできず
触覚もなかったら
あなたは 自分の存在を
どのように感じるでしょうか
これが「くう」の感覚です


この本は「般若心経」の柳澤による自由訳だ。(画・掘文子)
柳澤桂子は生命科学者であり、歌人であり、サイエンスライターだ。
(2004年初版のこの本によれば)彼女は原因不明の難病のために、36年間の闘病生活が続いた。生命科学者としての研究も断念しなければならなかった。後に、それは「周期性嘔吐症候群」という脳幹の病気だと判明し、さらに、脳脊髄液が漏れていることも分かったという。でも、病因の解明されるまでは、心因性とされ、気のせい、気のもち方が悪いと、家族からも責められ、自分も自分自身を責めたという。病苦と孤独の、壮絶な半生だ。

その彼女の書いた「般若心経」の自由訳は
生命科学者の視点によるユニークな解釈だ。

それとは別に、
その根底にある、

なんと言えばいいだろう…

内的風景の
色合いというか、
根本のトーンが
ジャンヌの内的風景と
不思議と
重なり合う。

柳澤的な「空」。
純粋な「無関心」と、ジャンヌだったら言うだろうか。

絶望者だけがたどり着く、突き抜けた世界
と、言ったらいいだろうか。

ひろびろとした無感の自由。

針一本落ちたなら
音もせず
広漠と
響き渡る

そんな無限無感の世界。



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純粋享楽

なぜ、神を感じなくなったのかーー?

ジャンヌは、執拗に問い続ける。

神の現前の〈享楽〉を感じなくなったのは
〈享楽〉がなくなったからではなく、

それは、今までとは次元の違う、
〈感じない享楽〉なのではないか?

そう、自問する。


こう書いている・・・

もし、ぼくが享楽しているとすれば、
享楽を感じずに、享楽しているのだ。

なるほど、ぼくは痛み苦しんではいないし、
享楽していない、そう言っていい。
外的だけでなく内的な直感に照らしても。


ぐるぐる回りするように、
ジャンヌは何度も、実感を確かめようとする。

ちなみに、ジャンヌにとって、享楽は痛苦を伴う。
というか、享楽とは甘美な痛苦なのだ。

ジャンヌは、発見する。

ぼくは、かんぺきに神のものだ。
その神を享楽すること。
しかし、もはや何も感じない享楽。
純粋でシンプルな享楽。
ぼくは享楽を求めずして享楽する。
気づきもしない。



〈感じない享楽〉という〈純粋享楽〉。

それは、〈欠落の享楽〉だ。

この時、神もまた〈欠落の神〉だ。

失われた〈わたし〉は
欠落を通して
失われた〈神〉に吸い込まれる。

〈欠落の神〉という真空。ブラックボックス。


一滴の水が海に


この心象を、ジャンヌは、美しい心象風景として描写する。

一滴の水が海に捨てられる。
小さな一滴が、
海に没してしまう。
沈んで消える自分を見るばかり…

それが、ぼくだ。
ぼくは、何でもない。
この大いなる〈すべて〉のなかにいて、
ぼくは彼のうちに
すっかり失われてしまった。
わけも分からずに。

「海に消失する水滴」のメタファーは、
神秘家たちの常套的な表現だ。

でも、体験のただなかにいるジャンヌは、
その常套的表現に、みずみずしい生彩を与えている。

大いなる〈すべて〉である無限の神のうちに
消失してしまった境涯が、
鮮烈なリアルとして表現されている。


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             仰向きに 浮かぶ



ジャンヌは、続いて書く。

ぼくは万物からすっかり隔絶された領域にいる。

そこには、沈黙と深い安らいが支配している。


あれ? と、思う。

「万物からすっかり隔絶された領域にいる」・・・
これは、ジャンヌがずっと訴えてきた境地ではないか。

先回、引用した、こんな詩的断片 ー

ぼくの
    骨は
             孤独と
                隔絶を
    呼吸する

この隔絶感、孤独感にこそ、ジャンヌは苦しんでいたはずだ。

それが、ここでは、「深い安らい」に変わっている。

同じ心象の風景が、

まるでカメラのフィルターが変わったように、

ふと、
不安から
安らいへと

トーンが一変するのだ。

流されるままに


さらに、こう続く。


ここでは、ぼくは一切反応してはいけないらしい。

敬意と無関心をもって、神の意志を待つだけだ。

神の意志を待つだけ・・・
つまり、神のはたらきかけを待つだけ。


彼の聖なる動きが分かったら、
その動きに任せて、
動かされること。


これは、後にジャンヌが
よく天秤にたとえて説明するのだが、
自分がすっかり純粋な無関心の境地にあると、
ちょうど、天秤がゼロで釣り合っているような状態になって、
そこにちょっとでも神のはたらきかけがあると、
ひょいと、天秤が動く。

そういう繊細微妙な直感的なはたらきかけに、
すっと、身を委ねろという。

意識せずに。

いわば即興だ。

自我がほどけ落ちれば、
そうやって、おのずと、からだが動く。
その融通無碍。


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              浮かんで 流れる


さらに続く。

ちょうど木片が、
川に流されるままにいるように。
川は、無理やりではなく、
感じないうちに、導いてくれる。


すてきな景色だ。

がらんとした
虚ろな沈黙世界。
木片になった自分が
ぷかぷか
川に浮かんでいる。
知らないうちに、
どこかに流されている。
それが、気持ちい。

そんな、やすらいの心象風景だ。

なんと言えばいいだろう・・・

世界が、広々とした、ぬるま湯なんだ。
そこに、ぷかぷかしている。
明るくもなく暗くもない。
ぬるい。やわらかい。
広いんだけど、なんだか、
ほわーっと
優しく閉ざされている。

どうしたわけか?
ここでは、絶望の底の無関心が、
安らいの無関心に変質している。

不安と恐怖の綴られた手記に、
こうした、安らいの心象が、ふと、紛れ込んでいる。
(もっとも、安定はまだしてはいないのだけれど。)

風景は同じなのに。

このトーンの違いは、いったい、なんだろう?

明け渡し


この美しい木片の比喩に関連して、
面白いことを発見した。

このあいだ、たまたま
師のベルトの書簡を読みあさっていた。

そうしたら、ベルトがジャンヌに宛てた手紙に、
こんな一節を見つけた・・・


あなたは川に浮かぶ木片を、気に留めたことはありませんか? 
どんなふうに、川の流れのままに木片が流されるか? 

木片は何もしません。
そして、全てをしています。
というのも、木片は水のなすがままに任せているからです。
それと感じないまま、水は木片を海の深みへと運んでいきます。

それが、「悪」のうちにあるたましいの
シンプルな〈明け渡し〉の例です。

シンプルに、自分を神的な意志に明け渡すのです。


ベルトは、〈夜〉にあるジャンヌに、
かなりこまめに、手紙で、こころのガイドをしていた。
その中の一節だ。

さっきのジャンヌの手記と、ぴったり符号する。

前後関係は確かめられないけれども、
ジャンヌは、このベルトの表現を反芻して、
書いたのだろう。
自分に言い聞かせるように。

ジャンヌはベルトに対する不満を縷々書いているけれど、
内なるガイド役としては、やはり優れていたのだろう。


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               鳥が見える


ちなみに、《「悪」のうちにあるたましい》とあるけれど、
これは、〈夜〉の最中で、
自分がすべて悪いのだと、
自分を責めるジャンヌの精神状態のことだろう。

そういうときは、あれこれ自分について振り返らない。
自分をほったらかしてしまう。
「知るか!」と。

そして、自分のすべてを、シンプルに明け渡してしまう。

神を信頼しきって、
「あとはよろしくね」・・・

それが〈明け渡し〉abandon だ。

〈夜〉のパッセージをやりすごすコツだ。

***

絶望の底の内的な風景が、
不安と恐怖から
安らいへと一変するのは、
この〈明け渡し〉によるのだ。

失われた神の愛を
その欠落ゆえに
信頼する。

信頼していることすら気づかない。

失われた〈わたし〉は
ただ、
欠落の愛にやすらっている。


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