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静寂者ジャンヌ19 きみ自身を完全に忘れるように。 それは、自分を正そうとすることと両立しない。

〈夜〉の絶望が
ふと
無感の浮遊のような
安らいのトーンに
変わる時。

その鍵が、〈明け渡し〉にあるらしい・・・


     そのあたりのことを、先回は、
        ジャンヌの手記を通して、読み解いてみたかった。

   ここで、ちょっと、回り道をしてみよう。


そもそも、夜のパッセージで、
いったい、何が起こっているのか・・・
ジャンヌ自身は、どう捉えていたのだろう?

それについて、
面白いジャンヌのテキストを見つけた。

少しマニアックかもしれないけれど、
第1章で、紹介しよう。
面倒だったら、とばしてください。

第2章は、改めて、ジャンヌにとっての
〈明け渡し〉について、考えてみたい。

第3章は、補足。ジャンヌ流の〈明け渡し〉を理解するために、
現代の静寂者リリアン・シルブルヌのテキストを紹介する。
補足だけど、おもしろいと思う。


[第1章 たましいのブラックボックス]

ジャンヌは〈夜〉を抜け出した後、
随分経ってから、
その時の自分の体験を整理して、
いろいろな表現で、仲間たちに伝えている。

そのうちの一つが、こんなテキストだ。
これは、彼女の活動の中期に書かれたものだ。(1)


1)自分を出る

ジャンヌは、〈内なる道〉の全体について、ごく簡潔に、こう説明する。

まずは潜心によって、
自分のうちに、
神を探すことから

始めなければ。

でも、中心に到達したら、
今度は、自分を出るのだ。


潜心は、瞑想のことだ。
瞑想によって、自分の内なる〈中心〉に潜っていく。

でも、自分の中心といっても、いったい、どこなんだ?

まあ、こういう表現は、
どうしても空間的なイメージに
頼らざるを得ないのだけれど、
あまり突き詰めないほうがいいのでしょう。きっと。

ジャンヌは、哲学をやっているのではないので、
あくまでも実践に役立つイメージを次々出してくる。
自分にフィットしたイメージだったら、
各人それぞれの捉え方でいいんじゃないかな。

 ともあれ・・・
そうやって、自分の〈内なる中心〉に集中していく。
どんどん自分の奥底へと沈潜していく。
そして、中心に到達したら、今度は自分を出なければならないという。


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                秋の日


2)道なき道

入ったら出る。
でも、それは、もと来た道を戻るのではない、という。

こう、説明する・・・

ただし、外へ戻るわけじゃない。
そうではなくて、自分自身を越えるんだ。
神のうちに入るために、自分自身を超越するんだ。

そして、こう言いかえる・・・

自分を出るといっても、
潜心で到達した同じ道を戻るわけじゃない。

そうではなくて、
言ってみれば、
自分自身を通り過ぎるようにするんだ。

自分の向こう側へと渡るんだ。

造られた中心から、
造られざる中心へ。


「造られた」というのは、神によって造られた、という意味だ。
キリスト教でいう「被造物」だ。
ここでは、自分のことだ。

「造られざる」というのは、神によって造られたわけではないもの。
それは、当の神しかいない。

自分の中心から、神の中心に渡る。

でも、渡るといっても、
有限な「被造物」としての自分と、
無限の神とでは、決定的な断絶がある。

有限な自分は、同じ次元の延長線上をいくら進んでも、
向こう側の、無限の神へは、決して渡れない。

〈内なる道〉は、結局、
〈中心〉に着いたら、そこで終わりなのだ。

そこからは、道がない。

〈道なき道〉に入らなければならない。

そのためには、自分を超越しなければならないという。

自分の限界を通り過ぎなければならない。

それが、「自分を出る」ことなんだ。

出ろと、簡単に言われても、これは容易なことじゃなさそうだ。

3)ブラックボックス

ジャンヌは、別の観点から、こう説明する。

自分の中心に到達したら、
そこで、ぼくたちは神を発見する。

そして、ぼくたちは神に呼ばれる。
自分を超えろ、と。
ぼくたち自身から出るようにと。

それでこそ、ぼくたちは、
リアルに神へと渡ることができるのだ。


自分の中心に達すれば、神を発見するという。

これは、それまでの〈味わいの信〉のフェーズのことだ。

瞑想体験が深くなるにつれて、神の現前を激烈に感じることだ。

でもその時の神は、まだ、発見する「対象」でしかない。

さらにリアルに、神へと渡らなければならない。
そう、ジャンヌはいう。

〈わたし〉と〈神〉という、主客の分節が消えて、
神そのもの・・・・・に、渡らなければいけない。


~~~~
ジャンヌは敬虔なキリスト教徒だから、
やたらに「神」が出てきて、
辟易する人もいるかもしれないが、
彼女の「神」は象徴規範的な神ではなくて、
リアルとしての「神」だ。

「神」が鬱陶しい人は、
「究極のリアリティー」など、
お好みの言葉に置いてもらっていいだろう。



でも、自分を超越するなんて、
自分の努力ではできない。
無理だ。

どうするか?

どうも、しないんだよ。
と、ジャンヌは言う。

どうするも、なにもなく、
〈中心〉に突入したら、
どうしようもなく
どうかなってしまうのだよ、と。

〈中心〉は、たましいのブラックボックスだ。

そこに入ったら、意味もなく、感覚もなく、方向もない。

無限の真空に吸い込まれて、〈わたし〉が木っ端微塵になる。

あとかたもない。



〈夜〉とは、この〈中心〉に突入することに他ならない。


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               秋の小道


4)自分自身を見なくなる

〈中心〉に入って(つまり〈夜〉に入って)、
無感になる過程を、
ジャンヌは、こんなふうに説明する。

たましいが、自分の中心に到達しようと
進んでいるときには、
たましいは自分自身について精一杯、
反省的な思考をしているものだ。

そして中心に近づくほど、
自分がよく見えるようになる。
必ずしも、〈多〉において見るわけではないのだけれど。

潜心によって自分に集中して、中心に到達するまでは、
自己への反省的な、再帰的な思考がはたらいている。
精一杯、自分を振り返っているという。

そして、中心に近づけば近づくほど、
自分がよく見えるという。

ただし、多性において見ているのではないというから、
言語を介在した、はっきりとした分節のようなものではなく、
内的な直感のような、びんびんするような、
ダイレクトな「見え方」だろう。

対象としての〈神の現前〉を鮮烈に直感する時、
主体としての〈わたし〉自身も鮮明に直感するわけだ。

ところが、いったん中心というブラックボックスに入ってしまうと、
そういう直感もなくなってしまうという。

ところが、自分の中心に到達したら、
自分自身を見なくなるのだよ。

自分自身を超えると
何も感じなくなって、
何も識別しなくなるのさ。


もう、対象としての神も、主体としての自分も識別できない。

まさに、ジャンヌが手記で克明に描写していた〈夜〉の世界だ。

ジャンヌは、こんなアドバイスを書いている。

たましいが、どれだけ神へと進んだかは、
たましいが、どれだけ自分から離れたかで
測らなければいけない。

つまり、
見ること、
感じること(主に直感のこと)、
記憶すること、
執着すること、
反省的に思考すること、
そうしたことから、どれだけ離れたか?

結局、〈夜〉のパッセージで、無感に入るのは、
それだけ境地が深まっている証なのだ。

5)二重の中心

こうやって見てくると、
どうやら
〈中心〉というマカフシギには、
自分の中心と、
神の中心が、
オーバーラップしているらしい。

自分の奥へ奥へと、
どんどん意識が沈んでいって、

自我意識が解体され、
さらに無意識レベルの直感的な自我も消え、

ついに自分の中心、ブラックボックスに突入したら、

いつのまにやら、神という無限にワープしちゃっている。

そういう感じだろうか。

内側がいつのまにか外側になってしまう
「クラインの壺」を思い起こしてもいいかもしれない。

イメージとしては、
自分の中心点と、神の中心点が、
同心円状に、重なっている。
そんなイメージを思い浮かべてもいいだろう。

・自分の中心=ミクロコスモスの中心
・神の中心=マクロコスモスの中心

と捉えてもいいかもしれない。(2)

中心点に着いたら、
円(球のイメージか?)が変容する。

自分という小さな蟻地獄の底に
ずるずると
落ちるところまで落ちたら、
無限の深淵に突き抜けていた。

なにしろ際限のない広大無辺だから、
沈んでいるんだか、浮かんでいるんだか、分からない。

怖いのか?
心地よいのか?

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               秋のクモノス


最後に、ジャンヌはこんな風に、
最終境地(の一歩手前か?)を説明している。

神のうちに進めば進むほど、
自分を識別しなくなって、
ついには、
完全に神のうちに没してしまうんだ。

ただ、神のために、神のうちに、
神しか感じない、神しか認識しない、
神しか識別しないようになるんだよ。

ジャンヌが〈消滅〉と呼ぶ境地だ。
これについては、また改めて触れよう。


[第2章 明け渡すとは?]


1)夜は優しさ

こうして第1章のテキストを読むと、
ジャンヌにとって、
〈夜〉とは
〈中心〉という、
たましいのブラックボックスだと分かる。

自我が、無意識レベルまで解体され
神という無限に没入する
そういう、変容のプロセスだと言える。

このプロセスは、自分でどうこうできるものではない。
嫌が応にも、もって行かれてしまう。

そんなプロセスを、もし自分で逐一、はっきり覚知するとしたら、
とてもじゃないけれど、耐えられないだろう。

無感になってしまうのは、不安だけれど、
考えてみれば、逆に、無感でありがたいのだ。

確かに、ブラックホールは、「優しさ」なのだろう。(4)



〈夜〉は
 優しい
 ほんとうは

                   *

〈明け渡し〉は、〈夜〉での身の処し方だ。

〈明け渡し〉は、英語のサレンダー(surrender)という用語で、
一般によく知られている。

フランス語で、アバンドン (abandon) 。 

あばんどん!
(なんだか、いい音だ。)

自己放棄。

無条件降伏。

武装解除。

自分という陣地を、無条件で差し出す。

自分を、神という無限の他者に開く。



最初、この言葉を目にして、ちょっと、
というか、かなり引いた。

特に、彼女の初期のテキストでは、
「深淵の闇を、何の支えもなく、
 ただひたすら盲目的に、
 神に自分をゆだねて、
 手探りで、闇雲に進む」
なんて具合に、ひたすら暗い表現が続く。

読んでいて、もう勘弁して・・・という気になってしまう。

でも、そうじゃないんだ。

明け渡しとは、
〈夜〉の優しさに
身を委ねることなんだ。

その、パラドクサルな安堵感。

明け渡しとは、究極のリラックスでもある。(5)

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               秋の声


2)自由で満足、解き放たれる。

ジャンヌは、こう書いている。

明け渡しは、
神の掌に
自分をすっかり
ほったらかすことさ。
外も内も。

自分を忘れてしまって、
神だけを思ってごらん。

この方法で、
こころはいつも
自由で満足、
解き放たれる。

これは、彼女が仲間の誰かに書いた手紙の一節だ。
おそらく、晩年のものだろう。
晩年のジャンヌの文章は
シンプルで、
さらさらしていて、
あっけらかんとしてる。

外でも内でも というのは、
自分の内面においても、
日常の対人関係においても、の意味だ。


3)柔らかであれ

もう少し、引用しよう。

無味乾燥に、驚かないで。
それをなんとかしようと、
自分で努力しようとしたら、
もっと無味乾燥になってしまうよ。

今、きみやるべきことは、
長い祈りではなくて、
柔軟で継続的な明け渡しだ。

〈信〉に進めば進むほど、
味わいがなくなっていくものさ。

無理しないようにね。

お身体を、大切に。


無感に陥った状態に、驚くなという。
なんとかしようともがけばもがくほど、
無感になるだけだという。

長い祈りではなくて、
柔軟で継続的な明け渡しだ・・・

つまり、〈夜〉のパッセージに入ったら
時間を決めた瞑想修行(長い祈り)は、
あまり重要ではなくなるという。
(「長い」というのは、おそらく2〜4時間ぐらいのつもりだろう。)

日常生活で、絶え間なく、自分を明け渡す。
流れに身を任せる。
ふと直感的な何かを感じたら、即興に応じる。

そういうふうに、柔らかであれという。

この手紙は、後の盟友となるフランソワ・フェヌロンに宛てたものだ。
フェヌロンは、身体が弱かった。いつも病気がちだったようだ。
無理しないでね。お身体を大切には、そんなフェヌロンへの気遣いだ。

それに、無理するのは執着なのだ。

4)つまり、きみ自身を完全に忘れるように。

もうひとつ、引用しよう。

純粋な明け渡し。そして〈信〉。
きみに求められているのは、それだけだ。

つまり、きみ自身を完全に忘れるように。
それが求められているわけだよ。

それは、自分を正そうとすることと、両立しない。

たましいが、盲目な明け渡しにあるときは、
自分の欠点を正すために
反省したり、行いに注意したり、
自分を振り返っちゃ、いけないんだ。

これも、フェヌロンに宛てたものだ。

自分の欠点や失敗を、振り返るなという。
それもまた、自分への執着だからだ。

自分の悪いところを直さなくていいと言ってるのではない。
ただ、自力で自分の欠点を直すのは、限界がある。
自分で意識できる欠点など、たかがしれている。

自分の無意識レベルまで無限に明け渡す。
そのほうが、自分を正すには確実なのだという。

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                 秋の影


そういえば、このあいだ、
親鸞の浄土和讃を解説した
大嶺顕『永遠と今 浄土和讃を読む 上』(本願寺出版社)を読んでいたら、
こんなフレーズがあった。

自分を阿弥陀さまの前に投げ出すことが、他力の信心です。

自分を捨てるとは、いろいろな煩悩を捨てることではなく、煩悩についての自分のはからいを捨てるということです。

ジャンヌの表現と、とても近い。

自分の欲望、我執といったものを、
ひとつひとつ自分で無くそう、直そうと、
はからうのではなくて、
その自分のはからいそのものを、捨てる・・・
自分を振り返らない。

大拙が、妙好人とジャンヌを並べたのは、やっぱり慧眼だ。

ちなみに、ジャンヌは、こんな面白いことを書いている。

人がきみのことを批判したら、
まず、自分が悪いと思いたまえ。
そして、忘れたまえ。
どうしても自分が悪くないと思ったら、
やっぱり、忘れたまえ。

どっちにしろ、忘れたまえ!


[第3章  明け渡しは隷属ではない]

最後に、現代の静寂者(と、わたしは呼んでいる)リリアン・シルブルヌが、〈明け渡し〉について書いている文章を紹介しよう。ジャンヌの〈明け渡し〉理解に、とても参考になる。

リリアン・シルブルヌ(Lilian Silburn)については、プロフィール欄で少し書いたけれど、彼女は長年の間、インドのナクシュバンディー教団のスーフィー  ラダ・モハン・ラル・アダウリヤ(Mahatma Radha Mohan Lal Adhauliya)のもとに弟子入りし、フランスに戻ってから少数の仲間に〈道〉を伝えた。(5)
その彼女の「衣鉢を継い」だのが、ジャックリーヌ・シャンブロン(Jacqueline Chambron わたしの師)だ。リリアンは生前、自分の書いたテキストをいっさいがっさい、ジャックリーヌに渡した。そのなかに、リリアンが〈明け渡し〉についてノートした、メモのようなものがある。師のラダ・モハンの言葉をメモったものだ。
これが、すてきだ。

師が言った。

これまでの明け渡しは、
自分の意志による知性的な同意でしかなかった。

けれど、これから求められるのは、
全存在の明け渡しだ。

意識とともに潜在意識も明け渡すことだ。


師への絶対的な信頼、愛だ。

その目的とは、一性のうちに一になること。


明け渡しは隷属(slavery)ではない。


確かに、明け渡しは、深い愛なのだ。
それによって、師はきみを腕に抱え、
川を渡ることができる。

師は、決して「明け渡せ」とは言わない。
そうではなくて、自分で、自分自身を忘れること。

自分をどこか別のところに置けば、それがサレンダーだ。

you put yourself somewhere else and you have surrender.

自分のために書いた手記なので、どこからどこまでが師の言葉で、
どこが自分のコメントなのか、よくわからないけれど、
太字にしたところが、師の発言と取っていいと思う。

それまでのリリアンは、「自分を開け渡そう」と、
意識して〈明け渡し〉をしていた。
でも、それはまだ、能動性なのだ。

もっと、潜在意識のレベルまで、
つまり自分で気づかないうちに
明け渡しているようでなければ、というわけだ。

ジャンヌの〈明け渡し〉とぴったり合う言説だ。

師への絶対的な信頼。
たしかに、それが〈愛〉の基本だろう。

でも、そこまですっかり師に明け渡してしまったら、
それは、個人への危険な絶対服従、洗脳にならないか?

そうじゃない、と、ラダ・モハンはいう。
明け渡しは、奴隷になることじゃない、という。

そしてリリアンは、ラダ・モハンの別の言葉をつなげる。

 自分をどこか別のところに置けば、それがサレンダーだ
(you put yourself somewhere else and you have surrender.
 自分をどっかにほったらかせば、それがサレンダー・・・
 のほうがいいかな。
 英語なのは、リリアンとラダ・モハンは英語で会話していたから。)

このまま、ジャンヌの言葉だと思っても、おかしくない。


なんでこれが、隷属ではないかというと、
自分をどこか別に放ってしまったとき、
師という、明け渡しの具体的な対象が、なくなるからだ。

誰に、何を明け渡すのでもない。
ただ、明け渡している。

それに、師もまた、自分自身をどこかに放ってしまっているのだから。

リリアンは、別のところで「師とは、純粋な道具でしかない」と書いている。
「師がパワーを放つのではない。師はただ通路となり、恩寵が流れる」とも
「どっちにしろ、師の「存在」はまったく重要ではない」とも。

生きている師は、戸口のマークみたいなものだ・・・
と、リリアンの弟子が言っていた。

師のあり方について、
リリアンは、ラダ・モハンのこんな言葉も書き留めている。

彼は水を与える。でも、彼はその水に触れてはならない。
彼は燃料を与える。でも、彼はその燃料で自分を燃焼してはならない。

He gives water but he must not touch it.
He gives the fuel but he must not be burnt.

つまり、自分は通路でしかなく、
そこに流れるものは、自分には関わりがないというのだ。

それにしても、すてきな言葉だ。
きっと、詩として語ったんだろうな・・・

きっと、師の側の自戒と矜持も、大切なんだろう。
個人崇拝に陥らないために。



ところで、
ジャンヌの場合は、
明け渡す相手は、具体的な人間でない。
神、キリストだ。
でも、それが「対象」として分節されていれば、
やっぱり、
イデオロギー崇拝、ドグマ崇拝に陥る危険性はあるだろう。

気になるところだ。

そういう観点からも、ジャンヌが、
無分節の神そのもの・・・・・に渡ることを強調するのは、
とても重要なポイントなのだろう。

[おまけ 日蝕]

長くなったついでに、リリアンの手記を、もうひとつ引用して終わろう。

1965年1月31日の日記から。
〈夜〉のさなかにあった頃だろう。
リリアンは、夢を見た。

師が興味深いと言った夢:

砂浜、海、そして終わりなき日蝕

とても暗い、典型的な日蝕の雰囲気

驚く。

普通だったら長く続かないはずなのに、

いつまでも、まるで終わらない。

いっさいの希望を失った。

師が言った。
とてもいい夢だね。
もう、なんの希望もないこと。

ーー そうだ・・・
日蝕ーー
くう、消滅。


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(1) これは、『弁明書 Les justifications』の中にあるテキストだ。静寂者として到達したジャンヌは、祈りのガイド本を書き、これがベストセラーとなり、一躍その名が知れわたった。しかし、そのためにジャンヌは、教会権力から異端の嫌疑をけられた。自分の〈道〉がキリスト教の伝統に則ったものであることを弁明するために、ジャンヌは『弁明書』を書いた。ものすごい膨大な文書で、ジャンヌはこれを50日間で仕上げたという。この『弁明書』は、カトリック教会によって認められている過去の神秘家、聖職者たちの膨大なテキストのアンソロジーとして愉しめる内容だ。(その中で、最も引用されているのが、十字架のヨハネだという点も、注目に値する。)その引用のあいまに、自分のコメントをごく簡潔に挟んでいる。それが、味わい深い。
(テキストは、Dominique Tronc 編纂による私家版 “Les Justifications" に依る。)

(2) 〈中心〉という言葉自体は、当時の神秘家用語だが、ジャンヌの「二重の中心」は、特に十字架のヨハネから示唆を得たものだろう。
参考:鶴岡賀雄『十字架のヨハネ研究』(創文社)

(3) 先回のブログで、happa さんからコメントをいただいた。そのなかに「心のブラックホールは優しさ」とあった。コンテキストも意味も違うだろうけれど、この表現に、はっと気付かされた。

(4) ある静寂者が、ある時ふと、こう説明してくれたことがある。「ああ、もうこれ以上、がんばらなくていいんだ・・・やれやれって、ほっとする。それが、明渡し。」

(5)フランスに帰ったリリアンは、キリスト教神秘家についても研究した。仲間のうちには、ジャンヌ・ギュイヨン研究の先駆者たちがいた。リリアンたちは、ジャンヌの〈道〉を熟知していた。
また、リリアン・シルブルヌは、アカデミアの領域では、カシミールのラクシュマン・ジュー( Lakshman Joo 正しくは:Swami Lakshman Brahmacarin)のもとで、カシミール・シヴァイズムを研究し、その研究の第一人者として知られた。そっちのほうが、彼女の「表の顔」だった。それは、また別の機会に・・・

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