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イリイチ没後20年、ポストコロナへの予言

あらためて読むと斬新すぎて驚いた

イヴァン・イリイチの『脱学校の社会』が刊行された1970年当時は、ソーシャルネットワークや、ワールドワイドウェブ、インターネットという発想すらなかった時代だ。イリイチはその著書の中で、新しい教育制度は学習機会を提供する網状組織(opportunity web)であるべきと説いている。
今回、米国との共同作業のために初めて原書に当たることになり、アマゾンでKindle版をダウンロードして読み始めたところ、「opportunity web」という言葉をはじめ、50年前に書かれた社会評論とは思えない内容で、思わず間違えて最近のイリイチ紹介本を購入したのかと思い、慌てて奥付を確認した。
確認した結果は、間違っていなかった。間違いなく「Copyright 1970, 1971 in U.S.A. by Ivan D. Illich」とある。
次に、手元の日本語版の該当ページを確認したところ、「機会の網状組織」(opportunity web)と確かにあった。以前に読んだ時は、括弧書きの中の小さな英字部分は記憶されていなかっただけらしい。それと、以前に日本語版を読んだ当時は「web」という言葉に馴染みがなく、ネットワークを敢えて網状組織と言い換えているだけだと思って読み飛ばしていたのかもしれない。
やはり本当の意味で著者を理解するためには、原書に当たることも必要だと実感した。
原書で読むと、「web」という言葉だけでなく「peer-matching」など、SNS(Web 2.0)以降に技術的に可能になった機能を指す言葉が普通にぽんぽん出てくる。
イリイチ、50年を経ても斬新すぎる。
以下、予言の書とでも呼ぶべき『Deschooling society』(邦題:『脱学校の社会』)から、ポストコロナ時代の社会、教育について考えてみた。


学校から生徒が消えた

奇しくも『脱学校の社会』刊行から50年後の2020年、新型コロナウィルス(COVID-19)が学校から生徒たちを消してしまった。もちろん一時的な措置ではあったが、大学等は数ヵ月間にわたり閉鎖され、自宅でのリモート授業となった。
ここで生徒たちが気づいたのは、学校に行かなくとも困らない、授業はウェブ経由でよい、同級生との交流もチャットですむということ。
一方で、非常事態宣言下では、物理的に一人一人が距離をとることを余儀なくされ、それぞれ孤立させられた。物理的な拘束、時間的な拘束から解放され、自由が増した反面、自分で考える、自分で決める、自律が要求されることになった。
これは学校だけではなく、企業においても同じようなことが起きた。従業員の出社を控えて、一部にリモートワークが導入された。
従業員たちは、会社に行かなくとも困らない、仕事はウェブ経由でよい、同僚との交流もチャットですむことに気づいた。
ポストコロナには、生徒は学校に戻るかもしれないが、企業においては元々海外拠点との協業においては以前からリモートワークしていたこともあり、国内においても可能な部署では、従業員を出社させずリモートワーク(在宅勤務)を継続する可能性が高い。従業員の中には、「このまま自分の席が無くなるのでは」と不安を募らせている者もいるだろう。

脱学校とは

「脱学校」(Deschooling)とは、今回の学校から生徒が消えた現象とは全く異なるものだ。全く異なる議論ではあるが、当たり前に思っていた学校という制度について立ち止まって考える契機となった。
イリイチが批判したのは、教育や学習といった目的そのものではなく、教育制度、学校制度といった目的を実現する過程だ。
学校という制度が当たり前になってしまうと、生徒は教えられることと学習することを混同してしまう。価値の代わりに制度によるサービスを受け入れるようになる。そのような状態を、イリイチは「学校化」(schooled)と呼び、そこから脱却するという意味で「脱学校」(Deschooling)を説いているのだ。
イリイチにとって学校化は、産業社会における「制度化」の典型例であり、その他の制度化を受け入れる素地ともなる。改革すべきターゲットの一丁目一番地なのである。

制度スペクトル

第4章「制度スペクトル」(Institutional Spectrum)の中で、学校をはじめとしたあらゆるレベルの制度についてのイリイチの思いが平易に記された箇所があるので、少し長くなるが以下に引用する。

 私は望ましい未来がやってくるかどうかはわれわれが消費生活よりも活動の生活を意識的に選択するかどうか、またわれわれが単に製作と破壊、生産と消費しかできないような生活様式を維持するよりも、むしろ自発的で独立的でありながらそれでいてお互いに関連しあっていくことのできる生活様式を生み出すことができるかどうかにかかっていると信じている。製作と破壊、生産と消費だけの生活様式は、資源の枯渇と環境汚染に通じる道を歩んで行くようなものなのである。また未来がどうなるかは、われわれが新しいイデオロギーを発展させることや科学技術を開発することよりも、むしろ活動の生活を支える制度をどのように選ぶかにかかっている。われわれは中毒でなく個人的成長を支える制度を識別する基準を必要とする。また、このような成長の制度に対して特に科学技術的資源を振り向けていこうとする意思を必要とする。

(出所)1970  イヴァン・イリイチ『脱学校の社会』

消費生活(life of consumption)よりも活動の生活(life of action)を意識的に選択すること。そのイリイチの希望は結果的に叶わなかった。
新型コロナウィルス(COVID-19)によるパンデミックは、グローバルな消費生活中毒が招いた惨事だと言える。
イリイチは、自転車や地下鉄網は消費生活のためではなく日常的な活動に必要な道具と認めるが、自動車と高速道路網、超音速旅客機などは制度側の一部の者の利益にしかならないと糾弾していた。コロナ禍は、自然災害ではなく、グローバルな航空ネットワークと人の移動が招いた人災として認識すべきだ。

イリイチは、現存する制度を2つのタイプに類型化する。
すなわち、「操作的制度」(manipulative insititution)「相互親和的制度」(convivial institution)の2極である。
イリイチが定義する2極間のスペクトルを図解すると次のようになる。

上図は『脱学校の社会』第4章中に例示されたものを掲載順に左右に割り振って記述したまでで、上下の位置関係には意味がない。
こうして見てみると、イリイチは物理的な施設から戦争のような行為に至るまで様々なレベルの物や事柄を「制度」と呼び、同列に語っている。
別の場面では「制度」という言葉の代わりに「道具」という言葉を充てて議論を展開しており、1973年刊行の『コンヴィヴィアリティのための道具』(Tools for Conviviality)へと続いている。
イリイチは、人が作り出した全ての物や事、物理的な次元から抽象的な次元において、それらに操作的に支配されるのではなく、個人が自律的に生きることができる社会を目指した。

学習のためのネットワーク

第6章「学習のためのネットワーク」(Learning Webs)の中で、イリイチは新しい正式な教育制度の一般的特徴として次のように述べている。

 すぐれた教育制度は三つの目的をもつべきである。第一は、誰でも学習しようと思えば、それが若いときであろうと年老いたときであろうと、人生のいついかなる時においてもそのために必要な手段や教材を利用できるようにしてやること、第二は、自分の知っていることを他の人と分かちあいたいと思うどんな人に対しても、その知識を彼から学びたいと思う他の人々を見つけ出せるようにしてやること、第三は公衆に問題提起しようと思う全ての人々に対して、そのための機会を与えてやることである。

(出所)1970  イヴァン・イリイチ『脱学校の社会』

そして、4つの明確な学習経路、すなわち学習したことを伝授し合う機会があれば、それだけで真の学習に必要なあらゆる資源を含むことができるとする。4つの学習経路(資源)とは、事物(a world of things,)模範(people who serve as models for skills and values )仲間(peers who challenge him to argue, to compete, to cooperate, and to understand)年長者(an experienced elder who really care)を指している。
イリイチは、4つの資源のいずれをも利用可能にする特別な方法を表すものとして「機会の網状組織」(opportunity web)という言葉を用いるとしている。
この4つの資源を利用できるようにするアプローチを次のように分類して示している。

4つのネットワーク(Four Networks)
1   教育的事物等のための参考業務(Reference Service to Educational Objects)
これは、正式の学習に用いられる事物や、過程の利用を容易にする。これらの事物のあるものは、教育用に用いる目的で取っておき、図書館とか賃貸業社とか実験室、あるいは博物館や劇場のような観覧施設に保管しておくことができる。その他のものは、日常は工場、飛行場あるいは農園で利用されているが、学生が見習いとして利用するとか、休憩時間中に利用することなどができるようにされる。
2   技能交換(Skill Exchanges)
これは、人々が自分の技能を登録したり、その技能を習得したいと思う他の人々のために、自分が進んでモデルとして奉仕するときの条件や自分に連絡のとれる住所を登録するのを認める。
3   仲間選び(Peer-Matching)
これは人々が学習仲間を見つけるために、自分のしたいと思う学習活動を記すのを認めるコミュニケーションのためのネットワークである。
4   広い意味での教育者のための参考業務(Reference Services to Educators-at-Large)
すべての教育者は、住所指名録に自分の住所の他自分がサービスを提唱する際の条件、自分が專門職業家であるかとかあるいは準専門職業家であるとか、自由業者であるかなど、余分なことを記録しておくことができる。このような教育者たちは、後にみるように、世論調査や、以前にその人に指導を受けていた人々に問い合わせることにより、選択されるようにすることができよう。

(出所)1970  イヴァン・イリイチ『脱学校の社会』

今から約50年前のイリイチは、上記4つのネットワークを地域の学習センターなどで当時から利用が始まっていたコンピュータに情報を登録して、情報を検索、参照できたりマッチングできるようにすることを構想していた。
イリイチの構想から50年後に生きる我々は、イリイチの構想は、パーソナルコンピューター、インターネット、Twitter やFacebookなどのSNSの登場により、物理的に学習センターを設置しなくとも実現できる環境が整っていることを知っているし、一部は既に実現している。

ポストコロナ社会の課題

『脱学校の社会』最終章(第6章)は、「エピメテウス的人間の再生」(Rebirth of Epimethean Man)と題され、ギリシャ神話のパンドラの箱の話に繋がるプロメテウスエピメテウスの2人の兄弟の物語を語っている。プロメテウスは、弟エピメテウスに、パンドラのことは放っておくようにと警告したにもかかわらず、エピメテウスはパンドラと結婚した。そしてパンドラは好奇心に負けてゼウスから遣わされた箱を開けてしまう。するとあらゆる悪、災いが箱から逃げ出したが、あわてて希望が逃げないうちに蓋を閉じた。
イリイチはこの物語と近代の歴史を照らし合わせて、次のように言う。

 それは、はびこっている諸悪の一つ一つを閉じ込めようとして、そのための制度づくりに努力するプロメテウス的人間の歴史なのである。それは、希望が衰退し、期待が増大してくる歴史である。
 これが何を意味しているかを理解するためには、我々は希望と期待との区別を再発見しなければならない。積極的な意味において、希望とは自然の善を信頼することであるのに対して、私がここで用いる期待とは、人間によって計画され統制される結果に頼ることを意味する。希望とは、われわれに贈物をしてくれる相手に望みをかけることである。期待とは、自分の権利として要求することのできるものをつくり出す予測可能な過程からくる満足を待ち望むことである。プロメテウス的エートスは、今日希望を侵害している。人類が生きながらえるかどうかは、希望を社会的な力として再発見するかどうかにかかっている。

(出所)1970  イヴァン・イリイチ『脱学校の社会』

もしイリイチが今生きていれば、新型コロナウィルス(COVID-19)は、プロメテウス的エートスの結果だと糾弾するだろう。グローバル資本主義という制度を拡大してきた結果、中国の武漢という一地域で発生した疫病が世界中に広まる非常事態を招いた。
明らかに地震や津波などの天災ではなく、人災の性格が強いことが分かっていても誰も責任を問われていない。誰か一人の責任ではなく、人間が作り出したグローバル資本主義という制度が限界を超えて制御不能となり、制度が招いた災禍に全世界が翻弄されている。
ポストコロナは、どうあるべきなのか。
単純化すれば、新型コロナウィルス(COVID-19)がプロメテウス的エートスの結果だとすると、ポストコロナ時代にはエピメテウス的人間の再生が必要とされる。
ここでエートスとは、本来ギリシア語で「性格」を意味する言葉であるが、生まれつきの「性格」と後天的に身につけた「習性」の意味も含む。
制度を強化したり拡大するための計画や操作、制度に中毒化された消費や期待ではなく、相互親和的あるいは自律共生的(convivial)な活動や希望をエートスとして行くべきだ。
当たり前のことだが、目的のために手段がある。しかし、手段を所有したり管理する立場の専門家は、手段それ自体を目的化しがちだ。
前述のとおり、今回のコロナ禍の中で、コロナ以前は当たり前の存在で疑いもしなかった学校という制度、会社という制度に対する見方が変わったはずだ。学校に行かなくとも勉強できる、会社に行かなくとも仕事できる。これまでは無自覚なまま自分自身を制度に同化させていた。
学校や企業だけでなく、地方政府や国という制度に、いつの間にか従属、隷属していたことに気づかされる。
学校や企業側も、生徒を登校させる、社員を出社させることが仕事の大きな部分を占めていたことに気づいたはずだ。
学校の方は、産業化を推し進めるための人的資源の製造、供給機関というエートスから転換して、イリイチが提起する学習のためのネットワークに近づけていけばよい。
一方、企業のこれからについては、その従業員には厳しい変化が待ち受けているだろう。リモートワークで出社不要から、いつの間にか、成果が出せない従業員は出社不要、かつリモートワークも不要、つまり解雇というシナリオが容易に想像できる。
目下の課題は、企業から多くの人材が締め出されてきた時の受け皿をどうするのか。これまでの雇用政策の延長線上には解決策はないだろう。
いっそのこと、学校を受け皿にしてはどうか。役割を変えた新しい学校、具体的には大学で、企業の余剰人員を受け入れ再教育する。その間の学費や生活費は国が助成するような大胆な政策を実施しないことには、新しい雇用も新しい市場も、持続的な経済成長も見込めない。
イリイチならば、ポストコロナ時代の社会に待ち受ける諸課題に対して、どのような診断を下し、処方箋を書くだろうか。

(KM)


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