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[ちょっとした物語]窓際のターンテーブル

 窓の外から聞こえる車の走る音は、いつもより少ないような気がした。深夜に走る車は、昼間に比べると颯爽と駆け抜けていく。ハエの羽音のように。
 エアコンの効きがえらく悪い。そんな昔のものではないはずなのに、と思いながら壁の方を向く。壁に照らされた街灯の明かりが、車の影とともに横切る。また訪れる暗闇、そしてまた照らされるこの部屋は、鼓動を持って揺れているようだ。
 ついでのように照らされた机の上にある、写真立てに飾れらたあの人の笑顔が、不気味で笑えてきた。

「ああ、死にたい」
 ベッドの方から聞こえてきた。とても元気そうだ。あまりにも聞きすぎたセリフに、僕はコーヒーを入れる合図と捉えている。
 台所へ行き、ケトルのスイッチを入れる。その足で、ベランダへ出た。このマンションの目と鼻の先に高速道路が通っている。だから光はチラチラとしているし、音もある程度うるさい。だから家賃も少し安い。そんなこんなでもう5年は住んでいる。
 ポケットからマールボロを取り出して一本取り出して咥える。火のない時に香るタバコの匂いに少し安心感を覚えた。
 火をつけると、ジジジと燃え広がる音がする。ひとつ吸い込んで、空を見上げる。先ほど目に入った写真のことが思い出された。もう悲しいとか悲しくないとかそういうものでもないのだが、20数年前に他界した父親の生前の写真だった。当時は、無力感と寂しさのようなものが支配した記憶がある。でも、いつしか感情はいちいち揺れ動かなくなってきた。それが少し寂しくて、写真を置いている。共生していた時間は、とうに過ぎ去って久しい。もう思い出そうとしなければ思い出さないような感じになってきた。1日1度思い出していたのが、1週間に1度になり、1カ月、1年となり、最近思い出したのは命日の時だろうか。

「お湯沸いたよ」
 さっき死にたいと言っていた彼女が、お湯の心配をしている。タバコを灰皿に押し付けて、部屋に戻る。インスタントコーヒーをカップに入れてお湯を注いだ。その香りが部屋に漂うと、「いい匂い」と釣られるように彼女がこちらを向いた。「はい」と、カップを渡し、僕は窓際にあるターンテーブルにレコードを置いた。
 プツプツっと針がレコードを伝っていく。

「あ、いいね。いかれたBaby」

 白い下着にネイビーのタンクトップ姿の彼女が、コーヒーを啜りながら、ベランダでタバコに火をつける音がした。

 人はなじんで生きていかないと生きてゆけない。なんでも忘れていってしまう。でも完全に忘れることはない。生きることの中に、「忘れる」は「なくなる」ではなくて、なんか自然になっていく。飾った写真は、ある種の記憶のマーキングなのかもしれない。
 コーヒーの苦味が、じっとりとにじんだ汗を引かせた。タバコの匂いが部屋に入ってくる。ゆっくりと時間が流れる。

「ねえ、フィッシュマンズって見たことある?」
 彼女がふいに尋ねてきた。あれは高校2年の時だったか。下北沢で1度だけライブを見たことがあった。あるよと答えると、彼女は「うらやま」とだけ言った。
 タバコを吸い終わって、戻ってくる彼女は、途中僕の机の前で立ち止まった。机に並ぶ文庫本を指でなぞりながら、止まる。
「なんで、この本だけ2冊あるの?」

 高校に入った時、父親が僕にくれた最後のプレゼントだった。その後自分でも買った。だから2冊並んでいる。簡単に説明をすると、彼女は、「ふーん」と言って、マグカップとともに戻ってくる。

「思い出って大事よね。忘れちゃうもん」
 もし僕が明日死んだら、この2冊の本を彼女はどうするだろうか。彼女に存在しない記憶はなくても困らない。でも仮に、僕の思い出として手元に置いてくれたとしても、いずれどちらがどちらの本かなんて区別もつかなくなるだろう。僕が残しただけで、僕の父親の記憶までは、彼女に受け継がれることはない。どちらも僕が残したものであっても、それは至極どうでもいい話だ。
 
「思い出ねえ。思い出すことなんて、実はもうあまりなかったりするんだけどね」僕は、ため息混じりに答える。

「そんなもんか」

 回るレコードは、いかれたBabyは終わり、エブリディ・エブリナイトに移っていた。悲しい時に浮かぶのは、誰の顔だろうか。

「そろそろ寝ようか」
 深夜もかなり深くなってきた。
「ああ、死にたい」
 これは、明日仕事に行くのがいやだという彼女の隠語だ。ベッドにダラダラと潜り込んでいく。
 僕は、冷めたコーヒーを飲み干して、ベランダへ出る。この深夜のどうでもいい時間を惜しみながら、もう一度タバコを吸った。
 毎回違う誰かが、高速道路の上を過ぎ去っていく。テールライトがひと筋の線のように連なり、僕を置き去りにしていく。

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