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[ちょっとしたエッセイ]「ワレ想う故の90年代」vol.03

 振り返れば過去という時は、懐かさししか見当たらない。それは人としての特権のようなものなのかもしれないと思います。
 僕の若かったあの頃は、今のようにネットで音楽を探すことができなかった時代だったので、ある時は、友人から聴かせてもらったり、ある時はレコード屋で偶然出会ったり、ある時はラジオから流れる曲を必死になって探したり、ある時は好きな人のことを想って聴き倒したり、そうやって生活の一部へと落とし込んでいました。

 だから、ちょっと時を戻してみよう。
 今回は、あの時の思い出をみなさんと共有できればと思います。

タイムアウト

 日頃は、池袋界隈が僕の根城だったけど、新宿には、ひいきのレコード屋やライブハウスがあった。
 だから、何か日常に物足りなさがあれば新宿へ足を運んだ。
 新宿は、今やタワーレコードやHMVみたいな大手レコ店も当時はまだそこまで大きな店舗でなく中規模程度のレコ店で、今はなきヴァージンメガストアもあった。特に、この西新宿界隈は、とりわけ渋いレコード屋があった。その代表格が「ビニール(Vinyl)」や「タイガーホール(虎の穴)」「ナットレコード」だった。グローバリゼーションの波に世の中の動かされる90年代は、CDやレコードの輸入を加速させていた。そしてテレビやラジオで流れる音楽では飽き足らない者は、個性のある店を探し、入り浸っていた。
 僕は、そんな中でも西新宿のレコ屋が好きだった。小滝橋通りには、雑居ビルなどに小さなレコード店がたくさんあった。見たことのないジャケットデザインや聴いたことのない音楽がたくさんあったし、好きなバンドのブートレグがあったり、海外の音楽番組の録画をまとめたVHSがあったり、どこで売ってるのか見当もつかないTシャツやステッカーもあった。もうそこにいるだけでただ時間が満たされていた。

 毎日学校の教室で、イヤホンをつけてやりすごしていた僕にとって、この場所は時間の概念のない空間だった。

西新宿の線路沿い

 1995年の春。高校1年になった僕は、いつものように西新宿に足を運んでいた。土曜の学校の後、バイトもまだしていなかった僕は、何かをふらっと買いに行くわけではなく、何か情報を得るために、時間があればこのあたりをたむろしていた。レコ屋に行っては、新譜の視聴をしたり、チラシをかき集めたり、ライブ情報をメモしたりしていた。
 そうやって時を過ごし、あらかた用が済むと、道端の自販機でコーラを買って、小滝橋通りを一本入った。いつ来てもなんだか下水管から漂う匂いのような、湿ったカビ臭い匂いが立ち込めている。
 その道はJRの線路に沿ってあり、線路は少し小高い場所を走っていた。その袂には、小さな生け垣があり、その金属の仕切りはベンチにうってつけだった。

 僕はそこに腰をかけてコーラを飲んだ。そして、背負っていたリュックを下ろし、ポケットからポータブルのCDプレイヤーとお気に入りが詰まったCDケースを取り出して、次に聴くものを選んでいた。
 その通りは、休憩がてら腰をかける若者が数メートル置きにいて、通る人の多くはスペースを確保するために目を配っていた。
 足元に置いていたコーラの缶を取ろうと、下を向いた時、僕の前を影がふさいだ。
 ふと顔を上げると、ひとりの女性が僕の横に腰をかけようとしてた。
線路の上を走る電車の音が、イヤホンを通り越して僕の耳の奥に轟音を運んできた。この場所はいい場所だけど、通る電車の音がただ喧しかった。

1枚のアルバムが広げた僕の西新宿

 濃紺のフェルト地に白いレザーのスタジャン、黒の長めのスカート、足元はアディダスのウルトラスター。
 そして耳にはkossのポータプロをつけた女性だった。たぶん僕よりいくつも年上かなと思った。
 その彼女は、僕が思っていたよりすぐ横に腰をかけたので、なんだかドキッとして、会釈をして横にずれた。すると足元に置いてたコーラの缶を足で倒してしまった。僕と彼女の前にコーラが広がった。
 ふたりで「あっ」と声を出し、揃ったように耳につけたイヤホンないしヘッドフォンを外した。
 僕は、そのまま彼女に向かって謝った。
「気にしないで」と彼女は微笑んだ。
 僕の抱えていたCDケースがその時落ちた。幸いコーラの川からは逃れ、それを彼女が取ってくれた。
「あっ」その声に彼女が目を運んだのは、広がったCDケースに収められていた1枚のCDだった。
「私もこれ好き」そう彼女が指差したのは、エラスティカの1stアルバムだった。

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 この90年代半ばの音楽シーンは間違いなくイギリスが中心で、ブリットポップと称されるアーティストがチャートを賑わせていた。マッドチェスター(マンチェスターで人気を介したバンドムーブメント、「MAD」と「マンチェスター」を合わせた造語)の終息後に登場した、ブラーやオアシス、スウェードのようなアイドルばりの人気を博したバンドが中心のブリットポップの中に登場したエラスティカは、当時「ニューウェイブオブニューウェイブ」なんて呼ばれ、ブリットポップに抗うような存在としてもてはやされた。結局「ニューウェイブオブニューウェイブ」なんて大層な言葉はあまり流行らず、彼らは1stアルバムが売れただけで、その後メンバー脱退やいわゆる方向性の違いなんかですぐにメディアから消えていった(正確には2000年に2ndアルバムを出すも2001年に解散)。
 エラスティカの1stアルバムは、95年3月のリリースで、そのレコ発ツアーで7月に東京に来日する予定だった。

 エラスティカの曲はどれも本当にシンプルだった。4人組ながら、ドラムス以外は全員女性。フロントマンであるギターボーカルのジャスティーン・フリッシュマンは、元々スウェードに在籍していて脱退後にエラスティカを結成。しかも当時はブラーのデーモン・アルバーンと公然と付き合っていた。スウェード在籍時は、ブレッド・アンダーソンの元カノだった。そんなゴシップ面な話題ばかりが先行していたが、僕はシンプルで、いわゆるポストパンクの後継的なサウンドで、粗いギターサウンドが好感を持てた。

 あの頃だからこそ1発屋で終わったが、その後のポストパンクの流れの中継的役割になったように思う。そして何より僕にとって、フロントマンのジャスティーンは、ある種のセックスシンボルでもあった。黒いレザーパンツに黒い胸元の開いたシャツを着て、七部で分け流した髪をかき上げながらフェンダーのモノトーン色のテレキャスター弾く姿に惚れ惚れとした。

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 僕は、西新宿のいつもの線路沿いでエラスティカのStutter(スタッター)という曲を聴いていた。すると僕の安物のイヤホンが急に外れた。彼女だった。
「何聴いてるの?」そんな質問に僕は答えた。
 季節が移ろうようなさわやかな風が僕の頭をさらった。そして彼女は自分の首から外したポータプロを僕の頭にセットして、プラグを差し替えた。
すると、今まで聴いていたギターの音が図太くドライブを加速させた。
 音楽は不思議だ。同じ曲でも、心象によって聴こえ方が変わる。
「ねぇ、スタッターの他に君が好きなのは?」横に腰をかけた彼女が言った。
「えっ、えっと、スパスティカかな」
「そんな曲あったっけ?」
 リリースされた中にそんな曲はなかった。
 僕が雑居ビルで手に入れたライブのブートレグ盤に収録されていた未発表曲だと伝えた。
 すると、彼女は僕のCDケースを手に取り中に入っていたそのCDのブックレット取り出して見た。中にはそのライブのセットリストを確認して、CDを取り出し自分のプレーヤーにセットして、僕の安物のイヤホンを差し込み聴き始めた。
「へぇ、これ結構いいね」
 彼らは夏に初来日を控えていて、僕らはそのライブへのチケットを手に入れてた。
「ライブでやってくれたらいいのに」

新宿は夜の8時

 季節は夏になっていた。蒸し暑くうだる空気の中、僕は歌舞伎町にいた。
耳には彼女からもらったポータプロ。そしてリッキッドルームの前の道を挟んだ、「club code」の前で彼女を待っている。ギリギリになって彼女は現れた。
 ふたりで長い階段を駆け上がり、ハアハア言いながら会場に着いた。
ステージは本当に一瞬だった。あまりのスピードに気がついたら終わっていた。
 40分足らずの演奏に僕は目を奪われた。後になんかの雑誌で、「近年稀に見るひどいライブ」だと書かれていた。そんな空気は、ライブの会場にも漂っていたのを覚えている。
 僕らは、近くの吉野家で食事をした。
「なんか一瞬だったね」
「うん」
「あの曲はやらなかったね」
「うん」
「ジャスティーンってすごく胸が垂れてたね。おばあさんになったら大変そう」
(うん?)
「でも私もあんな感じなんだよね」
(うん?)
「見てみる?」
(うん?)
思わず彼女の胸元に目がいってしまった。
「冗談よ」
 なんだかとても焦って、ただただ笑うしかなかった。
 僕らは、外へ出て、歌舞伎町から新大久保の方へ向かった。
 時計を見ると、まだ8時だった。新大久保への道はなんだかドキドキした。煌びやかなネオンに男女の声が交差し、知らずとも摩天楼とはこんな場所なんだろうなと思った。
 頭の中は、ステージでギターをかき鳴らすジャスティーンと彼女の胸元が交互に映し出されていてた。
 そんな鬱積した当時の僕は、この時、彼女とどんなことを話したかなんて覚えていなかった。強いて言うなれば、歌舞伎町のバッティングセンターがバットを降る彼女の揺れる胸が今だに頭に残っている。そう考えれば思春期の記憶なんて本当に滑稽だ。
 しかしこんな曖昧な思い出でさえ、ひとつの楽曲、ひとつのバンドは思い出させてくれる。曖昧ながら記憶を手繰れば、今の思考からおおよそ当時のことは推測できる。
 バッティングセンターの後、彼女とは別れて帰路に着いたと思う。

 そして、彼女とはそれ以降会うことはなかった。たまにポケベルに他愛もないメッセージが来たが、16歳の僕には気の利いた返信はできず、最悪にも彼女にその関係性を委ねてしまった。だから、それ以降会うことはなかったし、そのうちメッセージも途絶えた。手元に残ったポケベルのメッセージと、もらったポータプロを見るたびに、彼女の安否は気にはなった。

 覚えていることは、彼女は僕の10歳上だった。そして高校生の僕には10歳上の女性という存在は、とてつもなく奇妙であり、一瞬の出会いの中において、僕の視野は途方もなく狭く、彼女に対して性的な興味はそそられつつも、それ以上については残念ながら興味を持てなかった。これがいわゆる若気の至りというものなのだろうか。今となっては不思議である。
 しかし、そんな刹那な出会いであっても、これらの楽曲を耳にすると嫌が応にも思い出し、そしてあの時間を再現できてしまう。音楽の力は本当に不思議なものだなと思わされる。

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1995年はもう25年も前のこと

 阪神大震災にはじまり、地下鉄サリン事件もあった。
 みんなが不安の最中にいたが、いつも僕の傍らには音楽があった。よくも悪くも、思い出の鍵だ。
 あの彼女は元気だろうか。よくよく考えたら、彼女はジャスティーン・フリッシュマンと同い年だった。そりゃ大人に見えるわけだ。当時は、僕が16歳で彼女は26歳。そして今では僕が40歳、彼女は50歳。そしてお互い妙齢は過ぎた。
 もう彼女は、エラスティカを聴いていないかもしれない、そして聴かれることもないかもしれない。だけど、彼女の中にも僕と同じではないにしても、記憶の共有が少なからずあると信じている。
 ジャスティーン・フリッシュマンは、現在アメリカで画家として生きているらしい。そしていくつかの最近のインタビューも読んだ。音楽をつくる人間も変化している。でも変わらずに残ったものが僕たちの心の中にあるのだと思わずにいられない。

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