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[ちょっとした物語]マスク越しの君は、どこか強く見えた

 カタカタと目の前のラップトップに向かって、手先が器用に動いている。目線は左右に行ったり来たり動く。
 2023年。僕らの生活にはマスクがなくなることはなかった。寒空の中だと、マスクは顔面の保温のためにありがたいのだが、ここ数年、僕は人の表情を少し忘れかけている。

 カタカタ、カタカタ。

 しばらくすると、僕のパソコンが新着メッセージの通知を示した。画面のアラートをクリックすると、メッセージが開く。

「私の顔に何かついていますか?」

 ぱっと僕は顔を上げる。すると、目の前に対峙する君は、こちらを見ている。なんとも表情がわからないが、メッセージとこちらを見る視線には、明らかに僕への警告のようなものが滲み出ている。

「大変失礼しました」

 メッセージに返信をすると、僕は目線を下げて、パソコンに向かう。僕は何か仕事であったり、勉強であったりをパソコンに向かってしているわけではない。ただ、声のない、アクリル板で区切られ、誰とも目を合わせず、聞こえるのは換気扇の回るかすかな旋回の音、誰かのくしゃみ、出入りする靴の音。
 そんな空間にいると、何もせずに目線を浮かせているのは結構しんどい。というより、誰かに怪しまれるのは好ましくない。だから、何もせずパソコンの画面を見ている方が、目線の安定に加え、気持ちも安定するのだ。しかし、それだけではやはりつまらなくなってしまうのが、残念ながら人間の性というもので、チラッとチラッと辺りをたまに見回してしまうのだ。
 そして、今この若干追い込まれるようなやり取りが発生したわけだ。内心、これ以上怪しまれないようにすることだけに、心を砕く。至って冷静に、パソコンの画面を睨みつける。

 少しすると、またパソコンの画面に新着メッセージの通知が浮かび上がる。
 新着メッセージあり。
 
「こちらこそ失礼しました。クレームやその類のメッセージを送りたいわけではなかったので、気を悪くしないでもらえれば幸いです」

 なんとも拍子抜けのするメッセージだった。それでも、目の前の彼女の方を見るには時期尚早だ。よく考えながら、返答を打ち込む。

「気を悪くするもなにも、こちらがキョロキョロと落ち着かないで辺りを見回していたのが悪いのです。誤解を招いてしまい申し訳ありません」

 喧騒を避けてこの場所にやってきたのにも関わらず、静かすぎて落ち着かず、しまいには要らぬプレッシャーがのしかかってきた。そろそろここから離れるべきか。しかし、もう少し時間を潰す必要が僕にはあった。席を移動する手もあったが、空いている席が見当たらない。自分の行動が誰かに見られていると意識し出すと、心の落ち着きは止まらない。しかもその目は目の前にある。どうにかして、落ち着くために、パソコンでネットサーフィンをして気を紛らわせる。

 画面の右上に新着メッセージの通知が来る。
「エアコンの音ばかりが聞こえて、誰も話している人がいないですね。みなさん、なぜこんなにも静かで平気なのでしょうか(笑)」

 僕の頭の中は、混乱していた。このとてつもなくどうでもいい質問をこの状況でされるとは。僕は、驚きのあまり目の前の女性を見てしまった。マスクをしていてまったく表情がわからない。文末についた(笑)がまったくもってリアリティーがない。そして目が合った。瞬きを3、4度されて、目が合ったまま数秒が流れて、下を向かれた。
 そんな女性の対応に、僕の気持ちは落ち着かなさをさらに加速させる。

 また新着メッセージの通知が表示された。
「そんなに慌てないで。そんなに慌てると香りがにげちゃう」

 またしても不可解な文面だった。顔を上げると、目が合う。でもさっきほどの冷たさはなかった。目は大きく、マスクにかかる顔の全容はわからなかったが、どこか穏やかな顔つきのように見えた。額には、少し荒れた肌が見え隠れした。
 僕は、深呼吸をして、一旦パソコンから手を離し、凝り固まった指を反らし、ポキポキと指を鳴らした。

 するとまた通知が表示された。
「指を鳴らす音って、男の人と女の人だと違うんですね(真顔)」

 これはどういう意味だろうか。真顔って。でもコミュニケーションの入り口が見えたような気がした。だから、僕からもメッセージを送ろうと、キーボードに向かった。

 新着メッセージの通知が来た。

「柚子の香に 追ひぬかれたる 孤独かな」

 そのメッセージを読んで理解するには少々時間がかかった。頭を悩ませていると、目の前の女性は、立ち上がり、コートを羽織ってその場から去っていった。
 その行動に、僕は何が何だかわからなかった。メッセージに書かれた言葉を検索してみると、同じ言葉が引っかかった。加藤楸邨の俳句だった。しかし、僕にはその意味がまだわからずにいる。

 ある冬の日のことだった。

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