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こそきわ構想について

まず、最初に私がnoteを書こうと思ったきっかけにもなっている自身が目指している夢/構想について記載します。こちらはまだまだ途中の部分もあるので、以後更新していきたいと思っています。

1.自己紹介

少し私の自己紹介をさせてください。

  • 1996年生まれ

  • 大学2年生の時に教育格差に対してアクションするNPO法人に出会い、#教育、#子ども、#可能性の制限、#障害、#ビジネスでの社会課題解決に関心を持つ

  • 2019年、日系コンサルティングファームに入社し、システム導入のPMO案件や新規事業構想案件に携わる

  • 2021年、”家族”をテーマに事業を行うベンチャー企業に転職し、事業開発などをさせていただいている

  • 並行して、前職の上司のつてで、EC構築プロジェクトでも業務委託として活動させていただいている

  • 毎週土曜日は愛の手帳を持つお子さんにPC作業の講師をしている

2.個人Vision

Vision=どのような社会創りに貢献したいか?

上記のような経験をさせていただいている私が障害に限らず、「どのような社会創りに貢献したいか?」という大上段の話をさせてください。

「可能性に期待し、新しい世界の扉をひらく、のぞく人々であふれる社会」です。自身の可能性に期待し、制限されることなく、新しい世界に対してチャレンジをしていく人であふれる社会は素敵だなあと思っております。
あまり長くは書きませんが、自分自身今まで「これやってみたい」という挑戦をさせてきてもらっていたこと、そしてその行動によってたとえ失敗であっても今の自分を築き上げているポジティブな要素になっているなと感じています。学生時代に活動したNPOで関わらせていただいた子どもたちは経済的に困難を抱えていることがあったり、と可能性が制限されているなと感じる場面に何度も遭遇しました。それらの経験も自分自身のビジョンを抱く上での原体験になっていると思います。

Visionに向けてなにをしていきたいか?

Visionに貢献するために自分自身がやっていきたいのは、「価値観の再定義や概念の提示を通じて、挑戦する人々の止まり木をつくる」ということです。
個人的に、言葉/概念/考え方のようなものは居場所になりうるなあという感覚がすごく強いです。
例えば平野啓一郎さんの分人主義です。
これは多くの人が読まれていると思います。
P68「一人の人間の中には、複数の分人が存在している。両親との分人、恋人との分人、親友との分人、職場での分人、・・・あなたという人間は、これらの分人の集合体である。個人を整数の1だとすると、分人は分数だ。人によって対人関係の数がちがうので、分母は様々である。」
P94「学校でいじめられている人は、自分が本質的にいじめられる人間だなどと考える必要はない。それはあくまでいじめる人間との関係の問題だ。放課後、サッカーチームで練習したり、自宅で両親と過ごしている時には、快活で、楽しい自分になれると感じるならその分人こそを足場として、生きる道を考えるべきである。(中略)学校での自分と放課後の自分とは別の分人だと区別できるだけで、どれほど気が楽になるだろう?」

この分人主義という考え方によって、「色々な人との関係性の数の分だけ自分があり、そのどれもが自分である。しかし、分けられない本当の自分がいるのではなく、分人ごとに切り離して考えていいんだよ」というメッセージを私は受け取りました。
この言葉を知った時に私はこの言葉がどれほどの居場所になったのだろう、そしてこの居場所があることによって新たな人間関係の構築に一歩踏み出すことができるようになる、そんな人がきっといるはずだと考えました。

前置きが長くなってしまいましたが、このように言葉や考え方によって
居場所となり、その居場所をベースとして挑戦する人が増えるようなそんな止まり木を創ってみたいと思っています。

3.こそきわ構想

個人Visionの記載を終えてここから本題に入らせていただきます。
私はをまず”障害”と言われる領域で止まり木を創ってみたいと思っている。

どんなことをしたいか?

こちらは具体的にどういうことかというと、

これはあくまで一例ですが、上記のような「〜〜ができない」と表現をされていたところを捉え方によって「~~ができないという状況だからこそXXができる(能力がある)」と変換されるような状況を作ってみたいと思っています。


目指したい世界観としては人々がレバレッジ人材とオールマイティ人材のグラデーションで捉えられる世界観です。
※これはあくまで私の仮説です。

これまで(現状)は大きく健常と障害という二項対立があると思います。これは、健常ができること基準で能力を測る物差し(〇〇領域、××領域等)があり、その物差しに沿って障害者を見ると、能力が低いとみなされてしまっていることが多いのではないかと思います。
これからは、レバレッジ人材とオールマイティ人材のグラデーションで捉えられる世界観だったらもっと面白くなりそうだなと思っています。

・レバレッジ人材とは比較的多くの場面で周囲への依存(助けてもらう)が必要、一方、能力の固有性としては高い。
・オールマイティ人材とは、比較的周囲への依存(助けてもらう)ことが少ないが、能力の固有性としては低い。(自分の個性ってなんなんだろう?と悩むこともあるかもしれない。)
みたいな捉え方がされる世界観です。


ここでのポイントは大きく2つです。
①レバレッジ人材がオールマイティ人材より輝く能力を測る物差し(上記図でいうと、△△領域)が登場していることです。イメージとしては色んなところで周囲に頼るんだけどある一点では誰にも負けないなにかを発揮できることを周囲が認識できている状況です。

②オールマイティ人材が自分たちも周囲への依存をしているんだと認識できていることです。例えば多くの人は、自分自身で畑をやって栄養を補給しているわけではなく、どこかしらかから調達して生きていきています。これもある種の依存ということになるのではないかと思います。完全に一人で誰にも依存せず生きていっている人はいないということをオールマイティ人材が認識していることも大事だと思っています。
よく言われる自立と依存は対立関係ではなく、適した依存先があることが自立みたいな考え方に近いと思います。

人々のつながり方も価値観に伴い変化できたらよいのではないか、と思っています。健常者が障害者を支援する、すべきというつながり方ではなく、どのような人々も大小あれど他者への依存が必要なことを前提にそれぞれの強みを提供しあうというつながり方をつくってみたい、と強く思っています。
今までは”この人助けてあげなきゃという助けてあげる対象”だった人が”ある領域においては絶対に自分では出せないアウトプット出せる人だから頼る対象”に変わる瞬間、そんな瞬間があふれる世界はもうとてつもなく面白いのではないか、と思うのです。

なぜ”障害”の領域なのか?

一言で言えば「健常者/障害者間で期待値が双方向に向けられていないことによって、(社会単位にも個人単位でも)可能性の損失が非常にあるのではないか」と課題意識を持っているからです。期待値がかけられていないことによってもっと発揮されるべき才能が隠れてしまっているのではないか、そんな気がしてならないのです。
なので私にとっては、ここはすごい可能性を感じていて、「この金塊の山をもっと掘ってみたい」とわくわくしてしょうがないのです。

なぜ障害の領域に関心を持つようになったのか?という点では二つの原体験があります。
一つ目の場面は私が小学生のころの話です。
ある一人の体の不自由な男の子がみんなから「〇〇くん、〇〇くん」と優しく声をかけられ、円になって囲まれていた場面を一歩後ろから見ていた風景を思い出します。
もちろん周囲の人が優しい素敵な場面でしたが、この時私が思ったのは「この〇〇くんは幸せなんだろうか?」といった疑問だったように感じます。
(もちろん今になって振り返って、ですが。)
この場面には圧倒的にかけていたのは、「この〇〇くんからなにかをしてもらおう、この子にはなにをお願いできるかな」という周囲の期待だったのかもしれないと私は思います。
周囲の子どもたちは全く悪気がなく、この子を助けてあげよう、優しくしてあげようという思いがあったに違いありません。
けれどもこの期待値が双方向に向けられていない状況は対等と言えるのかな、?もしこの子が周囲に対してなにかできたら嬉しいんじゃないのかな?という思いが幼心にあったのではないかと思っています。

二つ目の場面はNPOでの活動の中で出会った発達障害の子でした。
一つ目の原体験としてお話しした場面に遭遇して以来、ぼんやりと”障害”というものに関心がありましたが、この時により一層関心が高まりました。
学生時代のNPOでは教育格差にアクションするということで、実際に東京都の小中学校に行って学習指導をする機会がたくさんありました。
それまでの学習指導では、ある程度自分の中で「このように指導すれば子どもの勉強に貢献できる」というセオリーは少なからずありました。
けれども、この子に指導した瞬間に今までのセオリーが全く通用しないことに驚かされました。
と、同時にとてつもない興味深さを抱くことになりました。
今までの常識が通用しない、色々試してみなきゃ!と思った記憶があります。

このように”障害”というものに段々と関心や課題意識を深めていったという経緯があります。

4.構想に向けて直近やっていきたいこと

大まかな方向性

まだまだ全然定まっていませんが、現時点での大まかな方向性は以下のように考えています。


Step1ではレバレッジ人材ってこんな活躍ができるんだ!という証明かなと思っています。
ここではレバレッジ人材の能力がビジネスの中でしっかりと発揮される必要があると思っています。
そしてStep2ではオールマイティ人材が自分自身も大小あれど周囲に依存しているということを気づくということが大事かなと思っています。

直近やっていくこと

もう少しだけStep1を細かくすると、上記4つのPhaseかな、と現時点での仮説としては考えています。
まずはPhase1として、レバレッジ人材だからこその能力ってこれなんじゃないの?という仮説を持てる状況をつくりたいと考えています。
そのためのHowの一つとしてレバレッジ人材となりうる人を含めたWSを実施して、参加者にどのような変化が起きうるのか?を検証してみたいと思っています。(1月末実施予定)
やっていくべきことや進むべき方向性はゆるゆるの状態ですが、仮説検証をしてみないことにはなにも見えてこないと思っているので行動をしていきたいと思っています。
こんなこともできるのでは?といったご意見等をくださる方がいらっしゃったら非常に嬉しいです。

余談ですが、このやってみなきゃ見えてこないという考え方は、ラッキリの熊木さんのツイートでもちょうどお話しされていました。かっこいい。こちら

5.補足

構想に関して補足させていただきます。

補足①


まず、この世界観は現在の世界観を塗り替えたい、というものではないということです。
「全然現状を変えたいとは思わない」「”障害”という区分に救われているんだ」という人もいらっしゃると思います。だから、”障害”を持つとされる状況でありながら今より誰かに貢献したい!という貢献欲求がある方と一緒に可能性を探りに行かせていただければと思っています。
そして、このレバレッジ人材という考え方が自己表現の選択肢の一つとなったら嬉しいなと思います。
もちろんある場面では、自分を”障害”を持つ人であると表現した方が誰かに頼りやすかったりすることもあるかもしれません。ただ、別の場面では自分をレバレッジ人材として社会に自己表現できることで広がってくる可能性もあるかもしれない。場面によって使い分ける一つの自己表現のツールとして機能するような世界観が理想なのかな、と思っています。

補足②

自分のこの構想は全く正解ではなく、いずれより良い価値観や概念が生まれる一つのインプットになりたいと思っています。
現状、社会の中で障害者と健常者という二項対立が一番強い考え方としてあるのだとすると、それとは異なる考え(こそきわ構想やレバレッジの考え方)を提示することで先の時代ではもっと良い考え方が生まれるかもしれないなあと思ったりしています。

6.最後に

今までは助けてあげる対象でしかなかった“障害者”から“自分には絶対生み出せないアウトプットを出すレバレッジ人材”に見方が変わり、羨望のまなざしを向ける。見方が切り替わる瞬間どういうことが起きるのかな、と想像するだけでゾクゾクします。

今までの常識にとらわれない視点・思想・価値観に基づくなにかがもっと発揮されうる可能性にあふれているのではないか、この金塊の山をもっと掘ってみたい、とわくわくしてしょうがないのです。

以上ここまで私の夢/構想について記載させていただきましたが、全然無理だ!とか現実的じゃない!などなどあるかと思います。実際私自身もまだまだな部分が多い考え方だな、と感じる部分も多くあります。
ですが、障害を持つという原体験がない私だからこそ描ける理想があるのではないかと信じています。

まだまだゆるゆる未完成ですが、ご意見やお知恵をくださる方や一緒にアクションしてくださる方やいらっしゃいましたら、それほど嬉しいことはありません。
資料も添付させていただいておりますので、ご関心あれば見ていただければと思います。

ありがとうございました

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