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最初の「ヴァーリトゥード」はいつなのか グレイシー一族と総合格闘技の誕生

 最初の「ヴァーリトゥード」はいつ行われたのか?

 ヴァーリトゥード(vale tudo)とは、ポルトガル語で「何でもあり」を意味する言葉であり、言葉そのものには「柔道」や「ボクシング」のように特定の格闘技を指す意味はない。ただ、20世紀の前半から、ブラジルのおもにリオデジャネイロとサンパウロにおいて、打撃あり(ときに頭突きもあり)、組技あり、サブミッション(絞めや関節技)も許された〝何でもあり〟の格闘が「ヴァーリトゥード」と呼ばれ、試合が行われていた。

 打・投・極すべてが許された格闘技という点で、ヴァーリトゥードは現代の総合格闘技(MMA)によく似ている。長くリングスポーツに親しんできた向きには、「ヴァーリトゥード」と聞くと、修斗(当時・日本プロシューティング)が1994年にはじめて開催した「バーリ・トゥード・ジャパン・オープン」を思い出す人もいれば、1970年代中盤に新日本プロレスに参戦したイワン・ゴメスが「バリツーズ」の強豪として紹介されたことを想起する人もいるかもしれない。

 近代化した格闘技の細かく分かれた領野を切り崩し、〝何でもあり〟という制限のないルールで強い人間を決める。ヴァーリトゥードの発想は、現代でいう総合格闘技(MMA)に引き継がれ、今では世界中で毎週のように大会が開催されている(近年、最大のMMA団体であるUFCは一年でゆうに40を超す大会を行っている)。

ではいったい、いつ、最初のヴァーリトゥード・ファイトは戦われたのか。

 結論を急げば、この記事では、1930年代にリオデジャネイロとサンパウロでグレイシー一族が行っていた戦いにその起源を見出し、そのルールセットが生まれたプロセスや試合の仔細を検討していく。

 前回の記事で詳述したが、日本から伝わった柔道を独自に進化・発展させたグレイシー一族が、その技術的優位を証明するために挑んだ戦いのいくつかが「ヴァーリトゥード」となり、やがて半世紀以上の時の懸隔を経て、総合格闘技(MMA)を生み出すことになる。

 本論に入る前にあらかじめ断っておけば、この記事ではブラジルの一部地域で行われていた「ヴァーリトゥード」の歴史をあつかう。というのも、ヴァーリトゥード以外にも打撃あり、組技や寝技を含む格闘が社会的に行われていたケースは歴史上、存在する。もっとも有名なものは、古代ギリシャで行われていた「パンクラチオン」だろう。紀元前648年の第33回オリンピアードで生まれたこの競技は、反則は「噛みつき」と「目つぶし」のみというルールで争われた。

 管見の限りにおいて、ここでパンクラチオン以外に、〝何でもあり〟に近いルールでの戦いが社会的に行われていた例を挙げることができない。だが、おそらく歴史に記録されていないだけで、同様の戦いが行われていた事実はあるのではないかと推測する。なぜこの記事で、「ヴァーリトゥード」に絞ってその歴史を辿るのかといえば、それが現代のわたしたちが目にしている総合格闘技(MMA)へと、グレイシー一族を蝶番として直接的に連続する〝前史〟だからである。

起源は「1932年」か「1933年」か

 最初のヴァーリトゥードがいつ行われたかについては、二つの説がある。「1932年11月5日エリオ・グレイシー対フレッド・エバート戦」、もしくは「1933年7月8日ジョージ・グレイシー対チコ・ソレダージ戦」である。

 前回のブログでは、ペドレイラ『チョーキ』(全3巻)やそれに続くドレイスデール『オープニング・クローズド・ガード』など2015年以降に起きた、柔術研究のブレイクスルーについて触れた。彼らが(異論を認めつつも)「最初のヴァーリトゥードマッチ」として記述するのが、1933年7月8日にリオデジャネイロで行われた、ジョージ・グレイシーとチコ・ソレダージとの一戦だ。*1

 当時の時代背景を簡単に説明すれば、1930年に前田光世の教え子の一人であったドナト・ピレス・ドス・レイス(Donato Pires Dos Reis)がリオデジャネイロに柔術アカデミーを創設する。そこでインストラクターとして働いていたカーロス・グレイシーとジョージ・グレイシー(ともにエリオの兄弟)が、オーナーのドナトが退任した後に同所を「グレイシーアカデミー」として運営を引き継いだ。*2

『チョーキ』が明らかにしたのは、この柔術アカデミーが創設された1930年以後を皮切りに、グレイシー一族は数多くの他流試合に挑んでいるという事実だ。当時はキャッチレスリング(≒ルタ・リーブレ)の試合が数多く行われ、日本からの移民柔道家やカポエイラの使い手たちもまた存在感を示していた。アカデミーを運営するグレイシー一族は自分たちの技術的優位を証明するために、完全決着のみの「柔術ルール」、あるいはギを着用しないキャッチレスリング(≒ルタ・リーブレ)の試合に参戦していった。

 話をジョージ・グレイシー対チコ戦に戻せば、この戦いはそのようなルタ・リーブレやボクシングなど、複数の格闘技試合が組まれた催しの「メインイベント」として行われた。ルールは噛みつきと金的攻撃以外のすべてが許された過激なものだった。

 チコ・ソレダージ(Tico Soledade)は重量挙げの選手からキャッチレスラーに転向した格闘家で、80~90キロほどと当時としては巨大な体躯を誇った。*3 ジョージ戦の前年には、グレイシー一族の“因縁の相手”であるジョアン・バウディ(Joao Baldi)を破っている。

 後半で触れることになるが、当時、すでにブラジルでは様々な異種格闘技戦が行われており、たとえば打撃系の格闘技であるカポエイラやボクシングに覚えのある相手と、柔術を駆使するグレイシー一族が戦うケースはすでに存在していた。

 では、一体なにがジョージ対チコ戦を「最初のヴァーリトゥード」たらしめているかといえば、それは「二人の選手が打撃と寝技、いずれの技術も駆使して戦っている」という事実だ。

 試合の展開を辿ると、まずレスラーであり体格に勝るチコがパンチで攻め、それに対してジョージ・グレイシーは蹴りで応戦している。打撃の応酬が続いた後、どちらがテイクダウンをしたかは定かではないが(あるいは引き込みか)、寝技の展開になり、ジョージがアームロックを仕掛け、チコは逃れるように相手に背中を向ける。ジョージは後ろからチコの顔面を殴り、最後にバックチョークで勝利を収めている。*4

 試合の前半ではストライキングの攻防があり、組技の攻防を経て、サブミッションで終わる。後の総合格闘技で一般的となる試合展開の一つがこのジョージ対チコ戦では確認できる(パウンドからのバックチョークも、UFC第一回大会でのホイス・グレイシーを彷彿とさせる)。

 このような攻防がなぜ歴史的に新しかったかと言えば、それ以前の異種格闘技戦では互いの選手がそれぞれの得意領域における技術のみで戦っていたからである。たとえば、このジョージ対チコ戦の前々年(1931年)には、グレイシーアカデミーとカポエイラの選手たちによる3対3の対抗戦が行われているが、そこでは上述したような応酬は見られない。

 組技系の格闘家は打撃に付き合わず、打撃系の格闘家は組まれたら何もできない――1900~1920年代に行われていた異種格闘技戦とはそのような試合が大半だったろう。「ジョージ対チコ戦」は〝何でもあり〟のルールで争われたという事実以上に、従来とは異なる試合形態が確認できるという点で、ヴァーリトゥード/総合格闘技の歴史において重要な戦いだった。

エリオ・グレイシーは「最初のMMA」を戦ったか

 もう一つ、「最初のヴァーリトゥード・マッチ」として考えられるのが、ジョージ対チコ戦の前年にあたる1932年、11月5日に行われたエリオ・グレイシーとフレッド・エバートとの一戦だ。

 エリオ・グレイシーは2005年、ノンフィクションライターの柳澤健のインタビューに応じて次のように答えている。

「私は1934年、18歳の時にフレッド・エバートというアメリカのルタ・リーブレ(プロレス)の選手と2時間戦って警官に中止されたことがある。私はそのまま何事もなく帰宅したが、フレッド・エバートは病院に行かなくてはならなかったんだ(笑)。それが史上初めてのバーリトゥードの試合だ」*5

 インタビューに応じたエリオが当時91歳だったこともあるのか、この発言にはいくつか疑わしいところがある。まず、エリオがエバートと戦ったのは正確には1932年で、19歳の頃である。そして、エリオの言う「史上初めてのバーリトゥードの試合」を巡って、これまでの文献では認識が分かれている。

 たとえば、先に触れた『チョーキ』では、エリオ対エバート戦は「完全決着・時間制限なし」「頭突きやフォール勝ちのないルタ・リーブレ」ルールで行われ、「ギの着用はなし」「打撃なし」という条件だったとしている*4467。つまり、当時では決して珍しくないキャッチレスリングの試合だったという記述になっている。

 一方、ヒカルド・デラヒーバの弟子であるルイス・オタヴィオ・ラードナー(Luiz Otavio Laydner)がものした『ウィズ・ザ・バック・オン・ザ・グラウンド("With the Back on the Ground:From the Early Japanese in America to MMA – How Brazilian Jiu-Jitsu Developed")』(2014年)では、エリオとエバートの一戦は「噛みつき、髪や耳を引っ張る行為、目つぶし、金的攻撃」だけが禁止された〝何でもあり〟の一戦だったとしている。少し長いが、引用してみよう。

「あらゆる打撃や動きが許されるのは、決してこのエリオ対エバート戦が初めてではない。しかし、大体の場合、この種の異種格闘戦では、格闘家は自分の習得した格闘技に存在する技術のみを使い、暴力性は最小限に抑えられてきた。最初の2ラウンドは、エバートより20キロも軽いエリオがディフェンスに徹し、ペースを相手に握られる。しかし第3ラウンドに入ると、エリオは容赦なくヒジとヒザの連打を浴びせ、エバートの意表を突いた。(中略)第6ラウンドには両者とも疲労が蓄積し、試合のペースは緩やかになる。そして、午前1時45分、試合開始から10ラウンドが経過したとき、前代未聞のことが起こった。時刻が夜間イベントの規制を大幅に過ぎていたため、警察の命令により、試合が打ち切られたのだ。プロモーターはなんとか警察を説得し、最終の第11ラウンドを許可してもらったが、それまでのラウンドと同じ膠着した展開となり、試合はノーコンテストとなった」*6

 ラードナーは、この一戦でエリオが自身の「柔術」以外の技術である打撃を使っていることに着目して、最初の〝何でもあり〟のヴァーリトゥードファイトだった可能性を示唆している。ただ、『チョーキ』ではこの一戦は打撃なしのルールで争われたことになっており、その真偽は筆者には不明である(不思議なのは、この「エリオ対エバート戦」について、ラードナーも『チョーキ』も、いずれも「Diario de Noticias」紙を参照していることで、おそらく一次史料に当たらなければ正否が分からない)。

Luiz Otavio Laydner, With the Back on the Ground:From the Early Japanese in America to MMA – How Brazilian Jiu-Jitsu Developed, Independently Published, 2014

 ちなみに、ラードナーは「エリオ対エバート戦」では、エリオのみが打撃と寝技の双方を駆使しており、その翌年に行われた「ジョージ対チコ戦」は、双方が現在の総合格闘技のように打・投・極を前提として戦っていることに触れて、その重要性を『チョーキ』と同様に評価していることを書き添えておく。

打撃も寝技もアリだった異種格闘戦はずっと昔からある

 ここまで「最初のヴァーリトゥード」を巡って、二つの説を見てきたが、ヴァーリトゥードの起源を正確に同定することは難しい。それは上記のような史料の不確かさも理由の一つだが、突如としてヴァーリトゥードの試合が独立に発生したわけではないことも大きい。ヴァーリトゥードのような戦いは、以前からよく行われていた事実がある。

 つまり、エリオ・グレイシーもジョージ・グレイシーもヴァーリトゥード/総合格闘技の始祖ではなく、当時行われていた異種格闘戦のなかから自然発生的に〝何でもあり〟のルールが生まれたと考える方が自然なのではないか。だからこそ、一つの戦いを取り上げて、ヴァーリトゥード/総合格闘技の誕生を名指すことにはほとんど意味がないように思える。

 たとえば、『オープニング・クローズド・ガード』では、ジョージ・グレイシーと小野安一の弟子であるオズワルド・カーニヴァリ(Oswald Carnivalle)にインタビューを行い、次のような証言を得ている。

「私は師匠であるジョージ・グレイシーがヴァーリトゥードの発明者だとは思っていません。なぜなら私が初めてジョージに会ったとき、すでにヴァーリトゥードという言葉は人口に膾炙していたからです。当時はサーカスのアリーナの中ですらヴァーリトゥードの試合は行われていました。だから、ここサンパウロでヴァーリトゥードを創ったのはジョージではありません」*7

 日本の柔道家である前田光世がアメリカ、メキシコ、キューバを巡ってブラジルに辿り着いたように、19世紀から20世紀前半という本格的なグローバリゼーションの端緒で、土地固有の格闘文化が各地に伝播する。異種格闘戦の頻発とヴァーリトゥードの誕生は、そのような近代世界の〝落とし子〟なのかもしれない。

 もし、エリオ・グレイシーがリアルファイトにこだわらず、ジョージのようにときにキャッチレスリングの舞台でフィクスドファイト(八百長試合)を戦っていたら、柔術家はより観客からの人気を得ていたルタ・リーブレの興行に呑み込まれていたかもしれない。もし、グレイシー一族がヴァーリトゥードを戦っていなければ、グレイシー柔術は「風変わりな柔道」として、講道館柔道の体制下に収まっていたのかもしれない。講道館では早々に禁じられた異種格闘戦に、打撃ありのヴァーリトゥードで臨んだグレイシーの狂信的にも思える頑なさが、やがて第一回UFCの衝撃につながっていく。

 1964年に、リオデジャネイロで柔道世界大会が開かれたことを考えれば、ブラジルにおいても「グレイシー柔術」は異端であり、マイナーでいつ潰えてもおかしくない格闘技の一流派に過ぎなかった。それが1993年の現代総合格闘技の誕生によって、その技術体系が全世界へと伝播する。

 話をヴァーリトゥードに戻せば、打撃も寝技も含めて戦われた他流試合は、「エリオ対エバート戦」、もしくは「ジョージ対チコ戦」よりも以前から存在する。最後に、20世紀初期に行われた異種格闘戦を二つ取り上げて、この記事を閉じたい。いずれも、前田光世(コンデ・コマ)がブラジルの地を踏み、柔道/柔術を伝えるよりも前の話だ。

1905年8月30日 大野秋太郎 VS. チャールズ・オルソン

 前田光世とともにアメリカで柔道の普及活動を行っていた大野は、現地でレスラーを相手に他流試合を複数行っている。注目すべきは、イリノイ州のレスリング王者とされるチャールズ・オルソンとの一戦で、この戦いは「パンチや蹴りなし」「指を捩じる、折る行為は禁止」「双方、ギを着用する」というルールで争われた。*8

 オルソンはルール上、許されている頭突きを連打することで大野の右目を封じ、顔面を腫れ上がらせた。試合の中途で見かねたマネージャーが止めに入ろうとするものの、警官に制されている。最終的に大野が負けを認める凄惨な試合となった。

 大野は「この一戦で顎の骨を折られ、右目は腫れ上がり、指を3本脱臼した大野 は病院に直行し、さらに静養のためいったんアッシュビルを離れてニューヨークに戻った」という。*9 柔道家である大野の組技に対応ができるレスラーが打撃で決着をつけた例になるだろう。

1909年 サダ・ミヤコ VS. シリアコ

 前田光世が渡伯よりも前に、日本からブラジルに渡った柔術家の一人にサダ・ミヤコ(Sada Miyako)がいる。1908年12月にリオデジャネイロへと渡ったミヤコは、現地の劇場で柔術のデモンストレーションなどを行い、海軍関係者に指導をしていたとする報道がある。*10  それがリアルファイトだったのかは分からないが、ミヤコはシリアコ(Cyriaco Francisco da Silva)戦の前にも数試合に出場しており、「勝てば賞金を出す」という謳い文句で対戦相手を募っていた。

 会場で直接、対戦を申し込んだことでミヤコ対シリアコ戦は実現した。シリアコはカポエイラの使い手であり、試合開始後、カポエイラ独自の座り込むような低い体勢で蹴りのタイミングを窺う。不用意に距離を詰めたミヤコに対して、蹴りを放つとミヤコのテンプルにヒットし、ミヤコは20秒ほどダウンしてしまう。試合が再開されると、ミヤコは再びカポエイラ独特の蹴りに対応することができず、再びダウンし、試合が決着した。*11

 これはブラジル社会が日本の柔術と出会った最初期の例であり、また、打撃も組技もおそらく許可されていただろう異種格闘戦の例に挙げられる。

(つづく)


1) Roberto Pedreira, Choque: The Untold Story of Jiu-Jitsu in Brazil, 1856-1949, CreateSpace Independent Publishing Platform, 2014, kindle No.4733
2) Pedreira, Choque, kindle No.2519
3) Luiz Otavio Laydner, With the Back on the Ground:From the Early Japanese in America to MMA – How Brazilian Jiu-Jitsu Developed, Independently Published, 2014, kindle No.2111
4) Pedreira, Choque, kindle No.4930
5) ゴング格闘技編集部編『ゴング格闘技ベストセレクション 1986-2017』(イースト・プレス、2018年)kindle No.55。(元記事は「エリオ・グレイシー、91歳の嘆き。」『GONG grapple vol.3』2005年10月増刊号、日本スポーツ出版社)
6) Laydner, With the Back on the Ground, kindle No.1897
7) Robert Drysdale, Opening Closed-Guard: The Origins of Jiu-Jitsu in Brazil: The Story Behind the Film, Independently published, 2020, 145P
8) Roberto Pedreira, Craze: The Life and Times of Jiu-Jitsu,1905-1914, CreateSpace Independent Publishing Platform, 2019, kindle No.1752
9) 藪耕太郎著『柔術狂時代 20世紀初頭アメリカにおける柔術ブームとその周辺』 (朝日選書、2021年)、kindle No.3108
10) Pedreira, Craze, kindle No.815 「サダ・ミヤコ」という日本名は想像しずらく、おそらく現地紙の誤記だろうと思われる。作家の増田俊也は『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(2011年、新潮社)において、サダ・ミヤコを日伯新聞の社主となる「三浦鑿(さく)」と同定している(Kindle No. 5714)が、管見の限りではその史実を示す資料は見つからなかった。
11) Pedreira, Choque, kindle No.882