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「関ヶ原の戦い」の謎:権力が移行するとき

今から420年前の慶長5年(1600)9月15日、関ヶ原の戦いが起こりました。日本中の大名が東軍、西軍に分かれ戦った、日本史史上最大の内戦です。

結果は、徳川家康率いる東軍の勝利。それまでの権力者だった豊臣家は衰退し、一方で、家康は、慶長8年(1603)征夷大将軍に任官され江戸に幕府を開きます。その後、江戸時代に入り約265年の天下泰平の世を迎えます。

余談ですが、「徳川家による天下泰平の世」英訳にすると、「Pax Tokugawana」とも訳せるそうです。これは、紀元1〜2世紀にかけて、ローマの五人の皇帝 (五賢帝:Five Good Emeprors)によって築かれた「ローマによる平和」= "Pax Romana"に拠るものです。無論、"Tokugawa"とは何か、Pax Romanaの意味など、聞き手が存じているか否かで反応はまちまちですが、なかなかウィットに富んだ表現だと思うので、個人的に好きなフレーズです。

関ヶ原の戦いの謎

話をもとに戻します。

上述の通り、学校・教科書では、"あたかも”「関ヶ原の戦いが天下分け目の戦いで、それに勝利した家康は無条件で江戸に幕府を開くことができた」とあるため、我々もずっとそのように信じてきました。

しかし、果たして、そのようにスムーズに権力は移行するでしょうか。仮に、関ヶ原の戦いが徳川 vs 豊臣であるのであれば、何故、豊臣家の滅亡はそれから15年後の1615年なのでしょうか?1600年に滅んでいてもおかしくないのでは?とも考えられます。

逆にいうと、自らの政権を樹立した家康ですら、何らかの事情で豊臣家を攻め滅ぼすまで15年、時間を要したということになります。となると、なおさら、関ヶ原の戦いは、天下分け目の戦いではなく、徳川 vs 豊臣の戦いでもないのではと仮説をたてたくなります。

初期江戸城の地図

この疑問をさらに深めているのが、江戸時代初期、家康〜二代将軍秀忠時代の江戸の地図とされる「慶長江戸絵図」です。

下の地図は、この慶長江戸絵図に描かれている、現在の丸の内から日比谷エリアの部分です。

この赤枠で記載されている大名の共通点に、「羽柴」姓であることが挙げられます。「羽柴」は、秀吉が豊臣姓になる前に使用していた姓で、秀吉が武功をあげた家臣や姻戚関係を持った家臣に与えていた豊臣系の姓です。

つまり、江戸城の正面にあたる重要な土地に、豊臣・羽柴姓を持つ大名の屋敷がそれも複数存在していたことがこの地図からわかります。

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資料出所:東京都公文書館デジタルアーカイブ 「慶長江戸之図」

「権力」が移行する時

日本の歴史において、国の権力者が変わる時、前政権の体制を否定し一気に変革するよりも、これまでの体制を継承しつつ徐々に変更を加えていくのが常套手段のように感じます。

日本史上、最長の政権を築くことに成功した徳川氏でさえ、その例外ではなく、前政権の豊臣体制を当初は尊重・維持しつつ、15年かけて徐々に徳川体制を堅固なものとし、最終的に豊臣氏の滅亡に成功したと考えると「慶長江戸絵図」に「羽柴性」を名乗る大名が多数いた事実とも符合します。

関ヶ原の戦いから、420年と1日後の令和二年(2020)9月16日、日本国内閣総理大臣が変わりました。新たに総理大臣に就任した、菅義偉氏の組閣や政権運営方針を見る限り前政権の体制を継承しているだけでは?との声も多く聞こえます。

しかしこの決断の背景には、歴史を学び過去の事例を活かした深い決断があり、"Pax Sugana" に繋がる第一歩であると、 コロナ禍に生きる国民の一人として願わずにはいられません。

安倍政権が進めてきた取組をしっかり継承して、そして前に進めていく、そのことが私に課された使命である。このように認識をしております。

            令和2年9月16日 菅内閣総理大臣記者会見 より


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