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愛の別名がなんであれ 7話

〜2019.秋〜

愛夏と別れた後、自宅の最寄り駅に着いても時刻は七時になったところだったので、たまに通っている居酒屋に寄った。
こんな日にだけは、酒が欲しくなる。
昔からやっているこじんまりとした居酒屋で、平日はいつも繁盛してるとは言えない客入りだが常連は多い。
広くない上に古ぼけている店内が妙に落ち着く。

今日も空いているから、いつも座るカウンターの隅っこで一人酒と決め込んだ。
騒がしくない店内では話し声が騒音にかき消されずに聞こえてくる。
「この国には芸術を理解する土壌がないんだよ。やれ常識だ、モラルだ、それでいい作品が世に出ると思うか? 安藤君」
カウンターで一人、頼んだハイボールを飲んでいたらテーブル席に座る会社の上司と部下らしき二人が話をしているのが聞こえてきた。
心地よい疲れを感じた頭で、特になにを考えるでもなく聞こえてくる会話を耳にしていた。
安藤君と思わしき青年は、愛想笑いを浮かべるでもなく不快感を露わにするでもなく、なにも答えず真面目な顔で俯いていた。
上司は安藤君の様子を気にすることもなく、持論を熱心に語ることに夢中になっていた。
「審美眼を育てないとなぁ、日本は世界に置いてかれるぞ。本物は大衆受けする心地いいものとは限らないんだ、それを評価できる人間がいないと芸術は生まれないよ」
しかしこんなに熱心に芸術論を語るとは、どんな仕事なのだろうか。少し興味が湧いてきた。もうそろそろ出ようかと思っていたが、もう一杯ハイボールを注文することにした。
「俺は君の絵に、心底惚れているんだよ……」
どうやら、日本の芸術観に愚痴を言っていた上司は安藤君の絵が好きらしい。安藤君は就職しながらいつか売れることを夢見て趣味で絵を描き続けているようだった。
(俺と似たようなもんか……)
安藤君に親近感を抱いてチラッと見た。安藤君は無言で上司の話を聞いているが、なにを思っていたのだろう。
ふと想像してみたが、疲れていたし他のことを考える余裕もなかったので追加のハイボールを飲み終えると会計を済ませて店を後にした。

家に着くと、今日のできごとを思い起こしていた。愛夏は高校時代とは当然変わっていたが相変わらず可愛かった。僕は主観でしか見られない人間だと自覚はしてるが、きっと一般的に見ても可愛い部類だと思う。
もっと褒めてあげれば良かったかな。聞きたいことに夢中になり過ぎただろうか。
今日の反省は深夜まで続きそうだ。
服を脱ぎ捨て、シャワーを浴びる前にワンルームの部屋の壁際に立てかけてある姿身鏡の前で裸になった。
ジッと鏡の中の自分を見つめる。
この時間が好きだった。鏡の中の自分を何分でも見つめ続ける。
(お前は今日、嘘をつかずに生きたか?)
その問いかけに、鏡の中の彼は目で答える。
彼の答えは、ノーだった。
曇った目がそう答えていた。
自分でもどこにあるのかはっきりしない嘘を、きっと今日もついてしまっていた。まだ本心ではなかった。どこか着飾った言葉を並べていた。その嘘を、見栄を、誤魔化しを、拾い上げて纏めて始末したかった。
愛夏は本気でつながりたい特別な人だから、本音でぶつかりたかった。価値観が合わなくても構わない。ぶつからないとわかり合えない。

「聡は全然変わってないね。なんか安心した」
愛夏にそう言われたのが今になって嬉しい。このままずっと、卒業せずに生きていきたいと思った。


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