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まったく幸福ではない「幸福」という映画について

 ツイッターのフランス語圏の人たちが貶してんだから褒めんてんだかわかんないAgnès Warda のLe Bonheur(1965年) は評判通りとんでもない映画で閲覧中開いた口が塞がらなかった。もしかしたら今年見た映画で一番衝撃があったかもしれない。ルノワールを彷彿させる豊かな画面、モーツァルトの暖かいクラリネットの音、それらを背景に戯れるかわいい子供たち、愛し合う微笑ましい夫婦。それこそ幸せという言葉しか思いつかない家族が描かれている。ところが男がひょんなことから別の女性と恋愛を始める。ふつうならそこから幸福に入る亀裂とかあるいはちょっとひねって幸福のあまり魔が差しての結果の不倫でも背徳でも何でもいいが、とんでもないことが起きたようにお話しは進んで行くと思うが、浮気をした男は悪意はもちろんのこと後ろめたさが微塵もなく、いつもの豊かな森でのピクニックで奥さんにそれをいけしゃあしゃあとしゃべり、それだけではなく愛がどんどん増えていっている、お互い(夫婦)が木の枝のように抱き合っているところに愛が増え、だが両手が塞がっているため、その愛の木(夫婦ね)に重なるが如くに新たな枝(愛人の腕ね)が抱き包んできているのだと結婚してからも結婚詐欺師みたいなことをのたまう。びっくりするのは、奥さんはそれでちょっとおもしろくないわ、なんて言いながらも納得したそぶりを見せ、子供が寝ていることをいいことに草むらで愛しあってしまう。

 夕方ピクニックの終わりに奥さんが行方不明になり夜になり、小川だか池だかで溺死したのが見つかる。ほら、いっちゃあこたぁないってプチ・ブル的道徳の懲らしめ、つまり本来ならpoetic justiceが展開され、子供たちが泣きわめき、義両親からののしられ、良心の呵責にさいなまれた愛人には去られ、一人孤独にポルトガルの寒村で細々と暮らす―これ、Damage(1992年)のJeremy Ironね―という煉獄が始まるはずなんだけど、なんとまぁ、その愛人がお母さんのいた場所をシレっと新たに占め、子供も何のわだかまりもなく学校へのお迎えに来てもらい、日常はつつがなく続くのだ。あまつさえ、その新しい家族でなんとかつての幸福の象徴、ピクニックに出かけ、幸福、そうこの映画のタイトルLe Bonheurは続くのだ。でも、季節は生命が輝いていた夏から色濃い秋に替わり、軽やかなクラリネットから重厚な弦楽奏に替わりその幸福の変調に見るものは気づきながらも、目の前で相変わらず続く美しい幸福に有無も言えず、その厚顔無恥に圧倒され居心地悪さを抱えながら映画の終わりを迎える。

 どういう感想を持ったらいいのか。もちろんフェミニズム、精神医学などの理論武装のもと「主人公の家父長制の暴君ぶりの現れ」とか「境界性パーソナリティとか境界知性」とかで断罪あるいは症例を観察するのは簡単だ。あるいは製作年―1965年―に注目して高度成長期(フランス語ではles trente glorieusesという)の歴史的闘争が終焉したあとの空虚における動物性への回帰なんてコジェーヴを引っ張ってきて大上段に構えて論じてもいい...

 でもそんな大仰なことを鼻歌を歌いながら肩透かしをするような軽やかさをこの作品はもっていて、見る人の中に簡単に入ってきて、心をかき乱し、呆然とさせ、そんでさっとまた鼻歌を歌いながらどっかに消えて行ってしまうよな作品なのだ。

 ベルリン映画祭で銀の熊賞を取ったがあまりにも不埒な内容なので18禁になったそーです。当たり前だ!

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