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わたしのすきな短歌 その2──普遍的な感情

 この記事では、わたしが好きな短歌に簡潔な感想を添えて紹介したいと思います。なんと!前回の記事が4年前の出来事になってしまいました。ですが、たとえオリンピックと同じ更新頻度になろうとも、この記事はシリーズ化させる決意でナンバリングしているので、どうぞお付き合いください。

普遍的な感情

 今回は、現代短歌と古典短歌(和歌)を一首ずつ紹介したいと思います。これから紹介する短歌は、木下龍也の『オールアラウンドユー』(2022)と『古今和歌集』(905)におさめられているもので、両者には約1000年ほどの時間の隔たりがあります。けれどもその二首には、どこか共通しているところがあって、人間の変わらない普遍的な感情というものを垣間見ることができます。

生きる理由を探して

生きなくちゃ 会う約束をしたために暗に生まれる会わない日々を
                           木下龍也

木下龍也, 2022, 『オールアラウンドユー』, ナナロク社, p.125.

 生きる理由を時々見失うことがある。悲劇的なことが起きたときにはさることながら、凪のような時間帯、この可もなく不可もない日々がいつまでも続いていくようなときにも、どこに生きる理由があるのだろうかと、えもいわれぬ気持ちが胸を覆う。
 自分自身の中に生きる理由が見出せないとき、私は他人にその理由を託す。「あの日に会う約束をしたから、もう少しだけ生きてみよう」、この人生に自分を絆す何かを他者の中に見出す。
 さて、読者の皆さんはこの約束は誰との約束だと思いますか?生きる理由になるぐらいだから、この「約束」はさぞ大切な約束──愛する人に会う約束なのだろうと読めるかもしれません。もちろん、それもまたひとつの正当な解釈だと思うのですが、私はこの短歌は他の解釈にも開かれている気がします。
 たとえば、歯医者の通院。私は歯の治療は決して好きではありませんが、最近、虫歯ができて歯医者に定期的に通っています。もし仮に、私に生きる気力がもはや無かったら、歯医者なんて足繁く通いません。最初は、一年ぐらい歯医者に行っていなかったから、歯の様子が気になって行ってみただけ。そうしたら、虫歯が見つかって、治療のために二週間に一回ぐらい通う羽目になって、気づいたら歯の健康を保とうと、歯磨きの後にはフロスをして、虫歯予防のガムを噛んだりしている……。「生きる理由」なんて大層な言葉には程遠いかもしれない。けれど、たしかに歯医者の予約は、私の生活にテンポを生み出して、「あぁ、二週間後の治療の時には、もっと歯をきれいに磨いておこう」なんて思っている私がいる。
 あるいは、まだみぬ友に出会うため。きっとこれからも色々な人に出会うだろうという「予感」。それはたしかに予感に過ぎないけど、きっと私は誰かに出会うはずだという確信を抱く。今は孤独かもしれない、この先もしばらくは孤独かもしれない、「会わない日々」はどこまでも続くかもしれない。けれど、きっといつか誰かに、自分を認めてくれる誰かに、出会うはずだと信じる。だから、その運命的な出会いのために、孤独な道程を今は歩もうとする、未来への約束の詩かもしれない。
 「会う約束」をしたために、「会わない日々」を生きなければならない。生きる理由を未来への約束──歯医者の予約から運命の相手に至るまで、「他者」への約束に求める一首でした。

生きてあなたに会いたい

今ははや 恋ひ死なましを 逢い見むと 頼めしことぞ 命なりける
                             深養父

奥村恒哉(校注), 2017, 『古今和歌集』, 新潮社, p.215(613).

(現代語訳)本当は今ごろもう、恋焦がれて死んでいただろうに、「そのうち逢いましょう」と頼みに思わせたあの言葉だけが、私の命を永らえさせています。

 誰かを好きになったとき、焦がれて死んでしまいそうだと嘆く人がいるのは、どうやら今も平安貴族も変わらないようです。そして、つれない相手の「そのうち逢いましょう」という社交辞令に一縷の望みを賭けてしまうのも、どうやら変わらないようですね。
 この深養父の和歌も、「会う約束」のために自分の命を永らえさせる人間の姿をうたっています。その約束が、どれほど身勝手で、また望みの薄いものであっても、死んでしまいそうなつらさを何とか耐えようとして、生きる理由を想い人の「逢い見む」という一言に託す。こう考えると先程の木下の短歌のヴァリエーションと解釈することができますね。
 奥村(2017)の註解に従えば、この和歌はつれない想い人を皮肉って詠んだ歌だとされています。しかしながら、なんであれ「生きてあなたに会いたい」と思わせるのだから、自己破滅的な悲恋ではなくて、ひとしきり悲しんだ後には次の「約束」へ向かうような、どこか再生の予感のする一首に私は読めます。

むすびにかえて──今も昔も「美しい」と思うこと

 さて、ここまで現代短歌と古典短歌を一首ずつ紹介しました。こうして並べて見ると、両者は1000年の時間の隔たりがあるにもかかわらず、非常に似通った作品であることがわかります。両者のモチーフはいたってシンプルで「約束」と「生きる理由」──約束をしたがために、その日まで何とか生きよう、というものです。
 1000年も時を経れば全ての価値観が一変してしまいそうなものですが、案外変わらない。それどころか、全く変わっていないものさえある。今回の場合は、約束が生きる理由になるということ。この二つの短歌を「美しい」と感じ、その間に共通性を認めることができることそれ自体が、普遍の感情が存在することを私たちに教えてくれます。
 古典を読むひとつの楽しみは、何より「人間なんてそんなに変わらないものだ」という微笑ましい(かつ最も残酷な)事実に気づくことにあると思います。そして、その古典的なテーマとどのように格闘しているのか──パラフレーズしているのか、一新しようとしているのか──という視点から、現代の作品を眺めてみれば、どんな芸術作品もまた一段と楽しくなるのではないでしょうか。
 以上、ご精読ありがとうございました。
 

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