「見えない」ということ。「聞こえない」ということ。

2021/09/07  ── 愛するじいじに捧げる

※この文章には「連想」を用いた私のイメージが語られています。一部偏見を含んだ部分も見受けられるかもしれません。その際は、コメントでお申し付けください。配慮した上で、適切な表現に変更いたします。

読めなくなった

 こんな文章を書いている場合ではない。これを書いているのが今日9月7日。明後日9月9日は試験の日。そう、入試。
 遡ると、ちょうど1ヶ月前ほどから異変があった。試験は、自分の研究計画を伝える面接と、資料読解能力をみるための外国語の試験。私の研究分野は、文献調査が主だから、日独英の資料を勉強のために読んでいた(と言ってもほとんどが日本語文献で、翻訳に関しては原典に当たる程度ではあったが)。個人的に本を読むスピードは遅いが、嫌いではないので、根気強く長い時間をかけて読んでいた。自分が取り組んでいるG.ジンメルは時に滔々と長いエセーが続く部分もある。けど、読んでは休んでを繰り返して、少しずつ読み進めていた。
 試験の準備はなんとなく、半年ほど前から始めていたので、必要最低限の日本語文献はなんとか抑えた。けれど、もっとテクストに入り込まなきゃ、と思って、最近はジンメルの『社会学』の読んでいない部分を少しずつ読んでいた。独原文と英訳も参照できる部分は参照していた。
 しかし、試験が近づいてくると、文章が読めなくなってきていることに気づく。目が上滑りするのだ。これまでも体調の良し悪しでそういうことはあった。けど今回は試験に近づくにつれてだんだんひどくなっていく。文字が追えないだけではない。椅子に座っていられない。場所が悪いのかと思って、場所を変えてみてもどうしてかそわそわしてしまう。こんなこと今までなかったのに!
 1週間ほど前から、本も読めないストレスからか、えずくようになってしまった。試験に関係があると思うと身体が固まって、目が泳ぐ。自分の研究計画書が読めなくなった(あんなに頑張って書いたのに読みたくなくなった)。

フロイトとトラウマ

 だんだんと自分が「読む」能力を失っていくのがわかった。しかも、明らかに「試験」に原因がある。確かに、「試験へのプレッシャーで勉強から逃げている」という構図にすぎないのだが、その「逃走」が自分の理性が理解できる範囲を超えている。「読まなきゃいけない」し、本来なら「読みたい」対象なのに、身体が絶叫している。「それは拷問だ!」と言わんばかりに。理解が追いつかない。だって、精神は「読もうよ」と提案している。私も、精神の意見に賛成だ。だって、試験が近い。
 「読みたくない!」、身体がそう声をあげて始まったストライキは、身体中に伝播した。寝たいのに、眠れなくなった。食べたいのに、食欲がわかない。泣きたくないのに、涙が流れた。手短に伝えたいのに、話は長くなった。こうして、身体は私の意志に背くようになった。
 たまたま、ある勉強会で精神分析家のフロイトの話題になった。精神分析は素人だったので予習がてら『フロイト入門』を読んでみた。フロイトは精神分析に「連想」を用いて、精神の不調(=精神病)を生物学(=身体)と結びつけて理解する方法を考えていた。「自由連想法」と呼ばれる療法だ。フロイトはこの手法をヒステリー治療やトラウマ治療に用いていた。
 私は、精神分析は素人だし、別に医者でもないから、ブラック・ジャックみたいに自分で自分を手術(=治療)することはできない。けど、どうやらフロイトは、自身を対象に自己分析をおこなってたようだし、手法をマスターすれば必ずしも医者である必要はないと主張していたようだ。何より、「連想」といういかにも人間らしい活動を治療に取り込むのは面白いなと思った。

 だから、少しだけ、自己分析をしてみようと思う。

試験・ジンメル・多様性・個性・短歌・詩・芸術・古着・インターン・大学受験・中学受験・塾・徒「競争」── 連想の最果て

 フロイトは、できるだけ夢に近い状態での連想(思考を介さない連想)を要求したようだが、私は「試験」がトラブルの根源だと理解していた(あるいは、決めつけていた)。だから、半生を振り返って、現在から「私」を再構成してみようと思った。この時点で、フロイトの面影はあまりなく、むしろセルフナラティブ・アプローチに近いが、ただ次の項目に跳ぶ時は「連想」を用いた。

試験
 問題の根源。不調の原因でもあり、同時に私の今現在の人生での終着点でもある。

ジンメル
 私の研究テーマ。ジンメルは、北川東子『ジンメル── 生の形式』などが評するように「未決の哲学(ああでもない・こうでもない/ああでもあり・こうでもある)」を用いる。その弟子のE.ブロッホはまた「『ひょっとしたら』の哲学」とも読んだ。有名なエセー「コケットリー」はまさにジンメルの代表作であり、相手の誘いに応じるでもなく拒むわけでもない舞踏会の女性がモチーフになっている。菅野仁のジンメル研究に触れてから、「面白いな」と思って研究テーマに選ぶに至る。

多様性・個性
 私の研究テーマで扱おうと思っている重要な観念。ジンメルは『社会学』第1章補説「いかにして社会は可能であるかの問題についての補説(How is Society Possible ?)」でこのテーマを扱う。簡潔に言えば、多様性を尊重をすべき世の中で、何を「尊重してはいけないか」という問い。例えば、「人食文化(カニバリズム)」は多様性として尊重すべきか、とか。文化レベルでのカニバリズムは文化保護の観点から許しても、個性としてのカニバリズムは許されるか、とか(念の為、一つ断っておきたいのは、私はこういった問題を思考実験のように捉える態度は否定的だし、そこに判断を下そうと思ってるわけでもない。この問題は善悪 ”以前の” 問題である、つまり、人が多様性を「認める/認めない」とき、背後にどのような論理が広がっているのかを「社会学的」に探求したいと考えている)。

短歌・詩
 大学から本格的な趣味となった。大学入学以来、短歌と詩と社会学はずっと近いと感じてきた。どれも、人間の営みに根を持っている。度々、社会学と短歌の類似は話題にしてきたが、林あまり・穂村弘・笹井宏之……、みな「生きること」が根底に流れている。また社会学も、G.ジンメル、E.デュルケーム、E.ゴッフマン……、それぞれ「生の哲学」と呼びうる領野を切り開いている。
 当然ながら、人間はみな異なり、誰1人として同じではないから、それに根を持つ短歌や詩もどれひとつとして同じものはない。「定型詩(文字数やそのほかルールが決まっている詩のこと)」である短歌さえ、近年はあまりに自由だし、そのような潮流を「ニューウェーブ」と呼ぶ人もいる。

芸術
 これも大学生になって、よく美術館にいくようになった。私は絵画芸術が特に好きで、これも「額縁に収まる」という点では皆同じなのにどれひとつとして「同じ」絵画はない。(ちなみに対象が芸術か否かの差は、一つにこの部分があると思う。芸術的でないな、と感じるものは、私の中で、「すでにみたことがある」。芸術は何かのオマージュさえも、新しいと感じることができる)。ちなみにジンメルも相当芸術を嗜んでおり、「額縁── ひとつの美学的試み」というエセーを1902年に発表しているほか、多くの芸術美学に関する論考を発表している。

古着
 
私は、中高制服で過ごしていて、服をほぼ一着も持っていなかった。大学に入って、服が必要になった時、古着に惚れ込んだ。いっとき、柄シャツしか着ていなかったし、今でも柄シャツが好きである。それぞれの店で一着しかないその古着は、私の個性の表象となってくれた。

インターン
  一度だけ、3Daysのインターンにいった。オンラインでの参加だったし、オフィスカジュアルでいいとのことだったので、控えめの柄シャツにジャケットを着て、フォーマルに決めていったつもりだったら、他の参加者はみなリクルートスーツで同じような格好をしていた。驚いた。グループワークで事業提案するものだったが、みな楽しそうにやっていた。けど、また驚いたのは、みんなディスカッションの型とかはとても覚えているのに、クリエイティビティは全くなかった。でも真面目に頑張っていた。少し怖かった。結局、みなどんぐりの背比べになったけど、私たちのチームが少しプレゼンが上手だったので、優勝した。景品のぬいぐるみはとても可愛くて、今でもベッドの枕の横にいる。

 大学受験
 人生で一番辛かった。進学校に通っているのもあって皆頭が良くて、自分は相対的にも絶対的にも(高校2年生まで勉強をしていなくてBe動詞を理解していなかった)成績が悪かった。だから必死に勉強した。全てを抑圧して、常に周囲との差(偏差値)を気にして、目的に向かって邁進していたら、20キロ体重が増えた。ストレスによる過食だった。ただ、4年前のことだが、もうあまり覚えていない。ぶくぶくと太っていったことも自覚がなく、今当時の写真をみても自分だと思えない(から見せても恥ずかしくないし、みんなと見て笑ってる)。
 なんとか合格した。合格者は入学後、入試の結果の開示請求が要求できた。周りの人はぼちぼち請求していて、「何点だった?」と盛り上がっていた人もいた。でも自分は請求しなかった。あまりに辛すぎて、たとえ首席合格だったとしても、努力が報われたとは思えないと予感した。だから、もう、受験が辛かったということは忘れようと思った。

中学受験
 これも人生で一番辛かった、と思う。というのも、この時の辛さは、完全に抑圧され、何かに変化したのだろうか。知る由もないが、もう思い出せない。不思議なことに合格した時の「喜び」も思い出せない。何かホッとした気持ち、両親へ義理を通したからか、開放感があった。


 塾、で思い出すのは断然小学校の時に通っていた塾である。自発的に通いたいと親に申し出たそうで、「算数の問題ができなくて悔しかった」が直接の理由だったらしい(母から聞いた)。けれど、結局算数は苦手なままだった。中学受験の算数はパズルのようなもので、全く無意味な体系をほぼ直感的に理解することが求められる。私にはできなかった。それは後に引いた。まず、無意味な(意味を持たない)対象が覚えられなくなった。世界史の暗記はエピソードを作って教科書を司馬遼太郎の小説を読むように覚えた。幸いエピソード記憶は私の記憶の方法論となって、今では学説史のゼミナールにいる。けれど、友人の誕生日とかが覚えられない。カレンダーも規則的にずっと数字が並んでいて怖い。一時期自分の予定を管理しようと手帳を使っていたが、気持ち悪くなってしまってやめた。今でも予定は誰と、どこに行くをベースにほぼフル(エピソード)暗記している。
 算数はできるようになったか。いや、より「悪化」した。というのも、塾では間違えると怒鳴られた。でも、「間違えないように復習をする」でなんとかなるものではない。塾での算数は、スパイラル学習法とも呼ばれていて、同じ(似たような)問題を繰り返し繰り返し解く。それは復習というよりは反復なのだ。「パターンを暗記する」よう要求される。けれど、パターン自体が理解できないと、全く話が進まない。生徒の一定数は、理解するのではなく、数字の羅列だけで回答が導けるにまで、理解を置き去りにした境地に到達する。けれど私は意味の地平にずっと止まっていた。だから怒られ続けた。数字は嫌いになった。嫌うことで受けた怒りを昇華させた。だから、今も時々数学嫌いと思われている節があるが、苦手というより、できない(したくない)が近い。だから、簡単なデータの分析などはやるが、それを突き詰めようとは思えなかったので大学でも社会調査の授業はあまり取らなかった。

徒「競争」
 最後の連想。私が現在意識的に遡りうる最後のイメージで、今までを貫く始まりのイメージ。

 小学生の時、入学当初から足が遅かった。小学生の時、私の小学校もまた、足が速い人が人気者で、遅い人はパッとしない人とされた。
 だから徒競走は嫌だった。もう、走る前からその差は歴然なのに、一列に並べられて、「よーい、どん」の合図で走る。その間は必死だ。隣のやつより遅かったら、そいつより鈍臭いやつだと思われる。学年で一番遅いやつは学年で一番鈍臭いやつって意味だ。だから、怖かった。

 一つ、今でも覚えてる大事件がある。祖父が運動会を見にきた。

 私は当時も祖父が大好きだった(今も大好き)。でも、私は徒競走に気乗りしなかった。足が遅かったから、恥ずかしかった。祖父には立派な姿を見せたかった。嫌がっている私に、家族は気づいたのだろう、「1位になったら、おもちゃを買ってあげる」と言われた。私はそれがとても欲しかった。だから、頑張ろうと思ったけれど、足の速さはやる気の問題ではない。最下位ではなかったけど、1位でもなかった。私は、おもちゃが欲しかったのにもらえなかったことも重なって、とても悲しんだ。泣いたような気がする。

 けど、その時、祖父が「頑張っていたから買ってあげる」と言った。私を認めてくれた。祖父は順位ではなく、私が逃げなかったことを見ていた。立ち向かったことを見ていた。祖父は私の存在をこの世界に認めてくれた。私の価値は、足の速さではないということを教えてくれた。これは今でも私を貫通している。もっと拡張して、「人はそれ自体としての価値がある」という理念に至った。しょうもないエピソードだけど、足の速さが存在の重要さである小学校という場で、祖父は私に「そうではない」とはっきりと否定した。世界は一つではない。むしろ、決して一つに定まりえない世界に立ち向かうことこそ、「生の理念」であると。祖父はより大きな問いを私に課した。生涯退屈しない《問い》をくれた。「生の理念」は私をその数年後、社会学に導いた。

 今、この文章を号泣しながら書いている。みっともないが涙が止まらない。

 徒競走の話を連想している間、私はこの話を、私の「競争」への忌避感の根源として見つけた。今の「試験」への生理的嫌悪は、ここで始まった「競争」への原理に由来するのだと、見つけた。それが二つの受験を通じて、増大して、私を確実に蝕んでいった。告白すると、大学に入学したその日から「もう就活はできないな」って思っていた。もう競争はできないな、と。だから周りが少し羨ましかった。自分より能力があって、まだ競争で発揮できる力を残している。自分にはもうそこで生きる力は残っていなかった。
 でも、私の抑圧の根源── 徒「競争」── に、オルタナティブな風景を見つけた。祖父の姿だ。これはあくまでも連想の構造に過ぎないけれど、私の精神が祖父の姿をトーテムとして求めている。精神は叫んでいる。この競争の社会に唯一抵抗可能なイメージを思い出せ、と。そこには祖父がいた。祖父は私を導いた。導いた先にあったのは、世界の多元性とそこを生きる「人間」の理念であった。それは、ジンメル・多様性・個性・短歌・詩・芸術・古着に導いた。私が楽しいと思って取り組んでいるものにつながっている。
 大学入学以降、一つの不安があった。私の好きなものはお金にならない、生きていけない、価値がない、のではないか。周りを見ていても、自分が輝いているとは、到底思えない。ただそうではない。それは足の速さが世界を規定していた時の話だ。そうではない。価値は多元だ。複数の世界があれば複数の価値がある。
 何かの価値に身を委ねることは簡単だ。ハンナ・アレントの言う「凡庸な悪」だってそうだ。価値によって規定される人生は居心地がいい。価値が複数あると認めることは、必ずしも良いことではない、複雑性がますし、常に不安がつきまとう。どの価値が、その姿を発揮しているか、一方で、一つの価値が他の価値に与える影響を判断し、価値を人間の下に置く。その世界にいる人間はどこかにとどまることはない。常に動く。
 今、私は「闘わなければならない」とまで思う。「競争」は単に私を苦しめているだけではない。日常生活の中でも、もうほぼ全員と言っていいほど、この理念《競争》に悩まされている。しかも、「競争の世界以外に世界はないのだ」とそう思い込んでしまって、がんじがらめになってしまっているように見える。確かに、「競争」は良い面もある。それこそ、ジンメルは「闘争」と言う論文を書いている。ただそれは、私を苦しめた「競争」を許すことでも、「競争」への抵抗を諦めることでもない。私は「競争」と闘争する。闘争は、絶えざる改革、生きることに根を持った「運動」にほかならない。それは祖父に教えてもらったこと。きっと《改革された徒競走の理念》(=闘争)においては、本質は「走ること」そのものに凝集する。ここで初めて、徒競走は、教育的かつ有意義な、闘争と接続した理念に昇華する。

むすびに代えて── 「見える」ということ。「聞こえる」ということ。

 ここまで書いてきて、少なからず、私のトラウマ治療に役立ったのではないかな、と今思っている。正直いざ書くときまで、《祖父の姿》は見えていなかった。連想のネットワークを経て私を救いに来てくれた。おじいちゃん、ありがとう。 
 おじいちゃんは今人生の黄昏時を迎えている。この前お見舞いに行った時も、身体は思うように動いていなかった。耳は遠くなっていた。「聞こえない」状況になっていっている。それでも、部屋でテレビを爆音で聞いている(おばあちゃんにうるさいと怒られてはいるけれど笑)。大切なことは、黄昏時だからといって、不幸なわけでも不自由なわけでもないということ。《おじいちゃんは生きているんだ!》、そう、確信している。
 お見舞いのついでに、おじいちゃんに研究計画書を渡した。おじいちゃんは読むのが好きだから、熱心に読んだ。でも、もう身体がいうことを聞かないから、1行読んでは枕元に置いた。わかっている様子でもなかった。でも、また、読んだ。「むずかしい」というような顔でこちらを向いた。でも、嬉しそうだった。「あぁ」と唸った。私はその唸り声を聞いた。
 ちょうどその時、私の精神は「読めない」状況にいた。でも身体は「読める」し「聞こえる」状況だった。この矛盾は、精神と身体の総合としての「私」がトラブルにな陥っているからなのかな。でもこの世界にそもそも《存在している》のは「私」で、精神と身体は「私」が生み出した二つの分割された神性なような気もする。わからない、でも、探求のしがいがあると思う。
 おじいちゃんは反対に「読めない」し「聞こえない」という状況にあっても、テレビは見る(聞く)は、計画書を眺める(読む)はで、とても健康だ。嬉しい。

 ここまでで、急に筆をおきたくなった。この先はまだ考えられていないからかな。ただ一つ、展望を。
 結局、「見える」という状態動詞と「見る」という動作動詞を比べた時に、「見る」は身体を必要とする(動作を必要とする)。けれど、「見える」はあくまで状態だから、例えば、ぼーっと見ているときに「見えてる?」と尋ねられる時がある。おじいちゃんも決して視点がはっきり定まっているかと言われれば、私も自信がない。けれど、おじいちゃんの目を見つめていると「見えている」とわかる。私たちが状態動詞を用いれる由来は、何にあるのか、どこにあるのか。そして、人が対象をその状態に《陥っている》と判断するとき、そこに何が生まれているのか。課題は続く。

 そして、私はまた、本を読む。

今日の短歌

 一応、短歌のブログなので一首紹介笑

膝蹴りを暗い野原で受けている世界で一番すばらしい俺
                          工藤吉生

 ここで言われている、「世界で一番素晴らしい」とは競争での1位のことではないな、とよみました。自らの生に進行形で挑み続ける(=膝蹴りを受け「てい」る)俺(=「私」)の短歌なのだと。
 みなさんはどのように読みますか??読み方をぜひ教えてください!

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