ヴェーバーと恋愛

先日、M.ヴェーバーの『社会学の根本概念』(岩波文庫版、以下の引用頁数もそれによる)の読書会である一節が話題になった。それも、恋愛に関してである。

ところが、恋愛その他の感情(例えば、信頼)に基づく関係に置いては、当然、考えられた意味内容の合理的表現の可能性は、業務上の契約関係などに比べて著しく少ないものである。(P.45)

詳細な理解は、別の機会に譲るとして、卑近に考えれば、雇用関係は契約書によってその形態を細かく取り決めることができるが、恋愛や友情といったものは、そういったことが困難だ、と理解できる。あるいは、思い切って、こういってもいいだろう、「恋愛や友情といったものの内実をリストアップすることは"野暮だ"」と。

確かに、恋愛や友情といった関係性は、雇用の関係性に比べたら、不安定で、つかみどころがない。かといって、それが不安になって、「私たちの関係って?」とか問いただすと、それはもう一大事である。対照的に、つかみどころのない雇用関係は、苦痛でしかないだろう。労基へ駆け込んだりすべきだ。けれど、労働基準監督署はあっても恋愛基準監督署や友情基準監督署なるものはないのである。現実的な意味で「ない」のではない。観念的な意味で「ない」のである。そして、それを「野暮だ」と形容したわけである。

しかし、集まったのは多種多様な恋愛スタイルの学友。まるで、サッカー選手、陸上選手、野球選手が「走る」ことについて鼎談するといった具合か、いや、実際はもっと複雑だったかもしれない。そのうちの1人が

いや、恋愛も合理的表現を求めてるよね?『付き合ってください』っていう交際の宣言なんてその最たるもの、かつ、絶対的な表現じゃないか。

といったのである。いやはや、その通りである。そこでちょうど、どこかで聞いたこんなことを思い出した、「婚前にお互いの素性から習慣までチェックリストにして交換する」というもの。それをよりたくさん満たせている人が、より''運命の相手''というわけ。私の目にはおそらく恋愛を極端に合理化したものとして映ったのであろう。違和感を感じた。けど、よくよく考えてみれば、大なり小なり私たちは恋愛を合理化しようとしているのである。交際を申し込むその瞬間から、関係性の意味内容の「原則」化が始まるのである。

第6項 社会的関係を永続的に作り上げるような意味内容は、「原則」という形で表現されることがある。この場合、当事者は、単数或いは複数の相手が右の原則を平均的に、或いは、近似的な意味で守るものと期待し、また、自分の行動も平均的および近似的にこの原則に従わせる。その行為の一般的性格から見て、方向が合理的── 目的合理的或いは価値合理的── であればあるほど、右のような状態になる。(P.45)

でも、私は、「交際の宣言」なるものが必要なのは、その恋愛が、「婚姻」のアナロジーだからだとも思う。恋愛の合理化が加速するのは、その恋愛が、婚姻の影絵だからだと思う。そして、婚姻というのは、やはり、恋愛とは存在論的に、絶対的に、異なると思う。「婚姻」のアナロジーとしての恋愛は、思慕の念を基調としているのではなく、制度を迎え入れ、存続させることを基調としていると思う、色々な意味で。

「婚姻」のアナロジーとしての恋愛がある一方、「友情」のアナロジーとしての恋愛が一方にある。親密の最高級としての恋愛。この時、恋愛は友情と地続きの場所にある。だからそれを友情と形容するか、恋愛と形容するかは程度の問題でしかない。誰しも、1度や2度、幼少期の頃、安易に「〇〇のことが好き!」と伝えたことがなかろうか、あるいはそうした人が周囲にいなかっただろうか。大抵の場合(小学生のときなんか特に)、そう高らかに叫んだからといって、何かが始まるわけではない。絶え間ない好意がそこに流れるのみであって、たいてい、しばらくバツが悪くて、しまいには好意がシュンと萎んでしまうことだってある。そういった好意は、宣言して、制度化するには、「合理的表現の可能性」が少なすぎる。そうした好意は、あなたに「明日から、どうすべきか(他の異性の連絡先を全て消すべきか、食費は割り勘にすべきか、道路は車道側を歩くべきか、辛い時には話を聞いて寄り添ってあげるべきか、その人に好意を寄せ続けるべきか)」は教えてくれない。そうしたことは全て、「婚姻」が教えてくれるのだ。だから、先例(=制度)に尋ねて、「異性の連絡先は消さない、けど、食費はわたし持ち、そして、わたしは車道側を歩かないけど、辛い時には話を聞くし、生涯好意を寄せ続けよう」と自らを制度へと誘うのである。

わたしは、この二つの「恋愛」のどちらが本質であるかとか、どちらかに回帰すべきだとか、そういったことは無意味だと思う。この二つの恋愛はこの先もあり続けると思う。ただ、恋愛はその人たちの関係性なのであるから、できるだけ制度化するときは、借り物の制度を、暗黙理に、当然のように、使うのはやめて、その起源を問うて、その正当性を問うて、お互いに吟味して、制度を作ったほうが良いと思う。「あなたの常識は、だれかの非常識」ではないが、何気ない制度が相手を傷つけているかもしれない。

最後に、ウェーバーの言葉を。先に引用した第6項の直後の第7項が恋愛指南としては出来すぎていると話題に。ある人は「恋愛を前提に描いているのでは」と首をもたげ、それまた大笑い。

第7項 社会的関係の意味内容が相互的合意によって協定されることがある。すなわち、当事者が将来における行動── 相互間のこともあり、然らざることもある── についての約束する場合である。この場合、一般に各当事者は──彼が合理的に考慮している限り──先ず、相手が自分と同じ意味で協定を理解し、それに従って行為するものと期待──確信の程度はいろいろであるが──する。彼は、この期待に自分の行為を目的合理的に── その意味に忠実である度合いに応じて──従わせることもあるし、また、自分なりの意味で協定を守る義務に価値合理的に従わせることもある。ここでは以上にとどめる。(P.45-46)

約束は、ここでは非常に魅力的なものとして描かれていて、日常における目的合理性と価値合理性の架け橋のように描かれている。例えば、ポリガミーの人とモノガミーの人が付き合う時、交際宣言に対して、モノガミーの人は交際宣言を1対1の関係の道具として目的合理的に扱えば良いし、ポリガミーの人は交際宣言自体に価値を見出し、それに従うという価値合理的な態度をとれば、うまくいくのでは、とか。

皆さんは、ウェーバーのこの部分を、ひいては文章を、本を、どのように読むだろうか。1人で本を読むのも楽しいけれど、みんなで本を読むのも楽しいのは、みんなの本の読み方が垣間見えるからでもある。

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