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その遺言 守りますか?

僧侶という立場上、遺言にまつわるできごとに多く接するなかで、旅立つ者から葬儀に関する遺言は必要なのかを考えてみました。

日蓮聖人の遺言を守らなかった弟子「日朗」

日蓮聖人が病を患い、臨終間もない61歳の時、とても可愛がっていた弟子の日朗を枕元に呼び、ひとつの紙包みを託しました。その紙包みは日蓮聖人が生涯にわたって肌身離さず大切に持ち続けていたお母さまの髪の毛であります。この髪の毛は日蓮聖人が出家された幼少の時、「もう息子には会えないかもしれない」という覚悟でお母さまが日蓮聖人に手渡されたものであると伝えられています。日蓮聖人は最期の遺言として、日朗に〝もし私が死んだ時には、この母の髪の毛を棺の中に一緒に入れて荼毘(火葬)してほしい〟と遺言されました。しかし日朗は、日蓮聖人がご入滅された時、あろうことか紙包みを棺に入れることをせず、師匠の遺言を破ってしまったのです。
しかし、ご入滅から6年後、日蓮聖人の第七回忌の節目に合わせて弟子達で造られた日蓮聖人の坐像の右手に握られている払子(ほっす)[僧侶が持つ仏具]には、棺に入れて焼かれるはずだったお母さまの髪の毛が使われていました。その日蓮聖人の御尊像こそ、東京の池上本門寺の日蓮聖人像であります。このご尊像は、日蓮聖人のご生前のお姿に一番近いことから「生身の御尊像」と呼ばれています。池上本門寺の日蓮聖人にお参りするたび、永い時を経ても色あせない日蓮聖人と日朗の深い絆へ想いを馳せています。
池上本門寺の公式サイト

池上本門寺の日蓮聖人坐像のイラスト
右手に持たれているのがお母様の髪の毛でできた払子

ある家族からの相談

先日、妙法寺のホームページを見て、とある女性が相談に来られました。話を聞くと、先日85歳で亡くなられた旦那様が「オレのお葬式は行わなくていい、遺骨も海に撒いてくれればいい」という遺言を残されたそうです。そのため、遺言を守ってお葬式は行わず火葬のみ行ったそうです。しかしその後、家族の話し合いの中で〝本当にこれで良かったのだろうか〟という心残りの思いが起こり、このご遺骨を海に撒いてしまってよいのだろうか…と、不安にかられているという相談でした。
その後、ご家族も含め話し合った結果、四十九日忌法要に合わせ法号(戒名)をつけ、遺骨の一部は遺言通り海へ、残りは永代供養塔に納め、家族で手を合わせることができる小さなお仏壇を設えるに至りました。
とても家族仲が良く、生前から家族を大事にされていた旦那様は「家族に迷惑をかけたくない」という理由でこの遺言を残されたのでした。

お骨になった後から行った「お骨葬」の花祭壇

遺言は守らなくていい?

自分の葬儀に対して「お葬式なんてしなくていい、海に撒いてくれていい」という遺言は、遺された人に負担を与えたくないという優しさからの言葉と、終焉に対しての潔さを感じさせるため、何だか自己満足に陥りやすく、遺言としてよく使われがちな言葉です。しかし実際は、遺族を惑わし苦悩させる遺言の負の遺産になっているな、と最近では感じています。

そして「遺言」という言葉が持つ絶対的なイメージが同様にそれを守れなかった場合も遺族にずっと心の負担を持ち続けさせてしまう種になっているのです。そのようなことから遺言はその文面や言葉だけを読むのではなく、その言葉の裏に秘められた「故人の思い」を読み解くことも大事であり、日朗のように遺言と違う行いも決して間違いではないのです。
(財産分与や法的に関わる遺言はこれにはあたりませんのでご注意ください)

お葬式に正解はない

今まで数え切れないほどの葬儀を見てきて良い葬儀だなと思うのは、残された遺族が故人を思い「こうしてあげたら供養になるよね」という弔いのある葬儀です。
 〝いつも飲んでいたこのお酒を祭壇に飾ってあげたい〟
 〝お婆ちゃんのお気に入りの洋服を棺に入れてあげたい〟
 〝最後まで食べたがっていた、あのお店のお菓子を棺に入れてあげたい〟
 〝生前よく聴いていた曲をかけてあげよう〟
など、お別れの場でありながらも心温まる葬儀になります。
社交的で楽しいことが好きだったから豪華に賑やかにやってあげたいと思うのであればそれが正解。入院生活が長く〝家に帰りたい〟と話していたことから、手狭ながらも自宅葬でゆっくり静かに見送りたいと思うのも正解。
大事なのは弔いのプロセスのなかで、〝故人のために心を尽くしたね〟という納得感であり、それによって遺族の悲しみも癒やされていくのであります。

終活でのアンケートから見えること

終活の講演では参加者の方にアンケートを取ることがあります。
 「自分のお葬式を豪華にやってほしいと思う人!」と聞くと100人中1人いるかいないかでほぼ皆無。
 「普通のお葬式がいい人!」と言うとだいたい3割くらい。
 「家族葬でいい人!」でも3割程。
 「葬儀なんてやらなくていい人!」という人も3割くらいの結果、
自分の葬儀に関しては特に要望などはなく、とにかく家族の負担にならないようにという気持ちが強い人が大多数を占めている印象です。
では、もう一つの質問です。
大切な家族、仲の良い友人、お世話になった恩師など、自分にとって大事な人を思い浮かべてください。その方のお葬式について、
 「葬儀はやらなくていいと思う人!」 ほぼゼロ
 「家族葬でいいと思う人!」1~2割ほど
 「普通のお葬式がいい人!」4割くらい
 「豪華にやってほしい人!」4~5割くらい
平均的な数字ではありますが、だいたいこのようなアンケートの傾向になるんですね。自分のお葬式は質素で何ならやらなくたっていい。でも自分にとって大事な人のお葬式はちゃんと豪華にやってもらいたい。
このアンケート結果はとても示唆深い結果だなと感じます。

定期的に地域交流施設で行うエンディングセミナー

遺言よりも大事な「終活」とは

このような事から終活で大事なのは、自分のお葬式について遺言を残す事ではなく、残された時間で善き行いをし、周囲の人々と良好な人間関係を築き、感謝の心で残りの人生を豊かに生きる事です。

そのように生きる事によって、心配しなくとも残された人達が、自分たちのできる範囲で、故人の思いに叶った葬儀を行うのです。

あなたの最期はあなたの生き方によって他者がちゃんと決めてくれるのです。なので過度な心配はせず、明日から残りの人生を他者への感謝の心で生きていくことを大切にしてくださいね。


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