川越さんぽ!山王塚古墳 奮闘!
令和4年12月16日(金)国の文化審議会は
川越市指定史跡【山王塚古墳】を
国の史跡に指定するよう 文部科学大臣に
答申しました!
正式には後日 官報告示を経て指定されます
(来春くらいでしょうか?)
追伸
令和5年3月20日の官報告示をもって
国の史跡に指定されました!
川越市内の国指定史跡は
川越市 上戸の
河越館跡
昭和59年12月6日指定 以来 約40年ぶりの快挙
山王塚古墳
山王塚古墳へ行こうと 嫁さまを誘ってみたら
見事に断られた 今日も ひとりで行動
孤軍奮闘!古墳で奮闘!
報道翌日の土・日に【ミニ見学会】がありました
川越市役所の素早い対応に心から感謝します✨
山王塚古墳 詳細
武蔵野台地 北端の西側縁編に立地する
上円下方墳 です
この墳形は古代中国思想
【天円地方】「円」は天界であり
神の住まう空間「方」は地上で人の空間と見なす
これを墳丘に取り入れたとする説があります
上円部の直径37m 下方部一辺69m
墳丘盛土の高さ5m 周溝を含めた規模一辺約90m
上円下方墳としては日本一の大きさです
(今回の指定面積は8409.43㎡)
7世紀 第3四半世紀(飛鳥時代)に築造されました
これが 川越市立博物館 学芸員の平野寛之さんが
おっしゃる【トーストの上にメロンパン】古墳!
大まかな造り方は最初にメロンパンを築き
次にトースト周りのミミを造ります
この土手状の盛土は他の上円下方墳には無く
山王塚古墳の特徴であり 外からを見た際に最小限の土量で
より大きく・より高く見せる試みと言われます
その後下方部に盛土を施してある
古墳は旧地表面を整地した後に
上円部 下方部 周溝の順で成形されています
また 墳丘は関東ロームを叩き締めて構築されていました
古墳近くから赤土を採掘した土取り穴が複数見つかり
赤土が墳丘と石室の下に使われています
埋葬主体は南に開口する奥行9mの3室構造の横穴式石室に
【ハ】の字に開く長さ6mの前庭部が伴うもので
良質な関東ロームを版築工法で叩き締めて
構築した高さ1.8mの基壇状の盛土上に構築されています
版築工法は飛鳥時代に寺院建築と共に
日本へ伝来された工法です
瓦屋根が重い寺院を支える
基壇等を築くため土を棒で突き固め
成形する工法
鳥居から墳頂部に向かう参道下から
見つかった前庭部 横穴式石室の手前にある
儀式を行う場所
石室の石は
入間川から運ばれた石を加工して
積み上げ 壁が作られています
前庭部・羨道・前室・玄室と繋がっている
石室の天井部が崩落して窪地になり墳頂部までの
参道になったと推測されています
白テープで囲まれた場所手前から羨道・前室
墳頂部 山王社の下に玄室がある構造
ここに被葬者が眠っていると思われます
地上より 天に近い場所【玄室】に
安置させようと被葬者を敬う思いと
被葬者の現世での甚大な権力 そのチカラは
計り知れません
山王社は日吉神社・日枝神社に並ぶ
山王信仰に基づいた神社です
山王社の前に狛犬と同じく狛猿が鎮座サル!
山王信仰で猿は神の使いとされる
庚申塔の下部にも
見ざる・聞かざる・言わざる が並ぶ
庚申塔 文字
寛文十二壬子天十二月吉日 奉造立庚申塔 武州目東郡今福村
御祭神
大山咋神
大物主神 等
摂末社
稲荷神社と榛名神社が鎮座
榛名神社:榛名大権現 文久元年酉 三月吉日
墳頂部から下方部を見下ろす
鳥居へ向かう現在の参道は
周りの土地より少し高く
古墳建造時は土橋であった模様です
現在でも大雨が降ると参道両側に
水溜りができる所もあります
下方部を撮りましたがトースト部が判りづらい!
これは古墳ではなくモグラの仕業
川越市立博物館へ出土品を見に行きましょい!
山王塚古墳の説明にも力が入っています✨
ガラス小玉 2個 石室 羨道部から出土!
須恵器とは
古墳時代中期(5世紀初頭)に朝鮮半島から
伝わった青灰色をした土器
前庭部から出土!
須恵器 長頸壷 羨道部から出土!
猿投窯は機内地方特有の焼き物である
機内地方と云えば!
古墳時代(3世紀~6世紀)は
ヤマト王権が本州~九州を勢力下に
組み入れていく過程と読み取れ
有力豪族が推挙して大王を擁立していた
飛鳥時代(7世紀)大王に権力を集中させた政権
奈良時代(8世紀)天皇を中心とした律令国家
(法律に基づき天皇が中央の官僚機構を通じて
地方を統治した古代国家)
山王塚古墳が造られた7世紀 中国の巨大な統一帝国
【唐】の成立(611年)白村江の戦(663年)
日本は唐・新羅連合軍に敗れ侵略の危機感が強く
対外政策に不安を抱え国力強化が大きな課題であった
国内では厩戸皇子=聖徳太子と
蘇我馬子が補佐した推古天皇の治世に始まり
力を増した蘇我氏の排除と天皇親政に向けた改革
乙巳の変(645年)大化の改新
天皇の座を巡り大海人皇子=後の天武天皇と
大友皇子の間に勃発した古代史上最大の内乱
壬申の乱(672年) 藤原京遷都(694年)を経て
奈良時代へと移っていきます
強力な中央集権国家を造るためには
地方をいかに統治するかが鍵となります
7世紀後半には東海道・東山道といった
【五畿七道】(行政区分)の制定と【武蔵国】等 国の設置
中央と地方を結ぶ古代道路【駅路】の施設
税制整備のための戸籍の作成【庚午年籍】や
公地公民といった その後の日本の基盤となる様な
諸制度が整えられ【日本】や【天皇】の称号も登場します
古代道路・東山道 武蔵路
川越地域も含まれる武蔵国は 771年に
東海道へ所管替えされるまでは【東山道】に
属していました
中央と東国を結ぶ駅路【東山道】の本道は
現在の滋賀県→岐阜県→長野県→群馬県→栃木県を通り
東北地方へ続きますが
武蔵国の役所(現在の東京都府中市)までは
本道から
南へ延びる枝道【東山道武蔵路】でつながり
このルートは川越地域も通過していました
これら駅路は全国規模の視点で造られましたが
実際に工事を行い維持管理していたのは
地方の有力首長です
【東山道武蔵路】の完成は山王塚古墳築造の
すぐ後の出来事であるため被葬者は
駅路の施設を行い 機内地方とも交流があった
有力首長か?それに準ずる人物と推測されます!
市立博物館まで来たら・・・
道灌まんじゅう!美味し💖
記載参考資料
川越市教育委員会文化財保護課
【山王塚古墳ミニ見学会資料】
【東京人】2022 NO458 山王塚古墳
文 川越市立博物館学芸員 平野寛之 氏
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