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パレイドリア、そして他人の視線に対する怯え

(高橋康介先生のパレイドリア本刊行記念イベント予習) ▶︎▶︎▶︎

この本で紹介されている、パレイドリア現象に関わる種々の実験が物語るものの中で最も注目すべきは、自己の認知にとって、他人の顔が(他のモノや他人の別の身体部位と比して)、極めて特殊で不気味な位相として現象する、この点にあると思う。

これは、おそらくは他人の顔こそが、(自己の自由にならないものとしての)他者性が濃縮的に発現する場所であることと関係している。レヴィナス的な、根源的に了解不能な、他者の絶対的な他者性の場。

からだの錯覚の文脈で言えば、他人の顔はレイアウト的に、相互に対面しない限り決して視界に入らない。実際、フルボディ錯覚における視覚刺激は、背面が対象となる。自分の身体像を相手の顔に所有感のレベルで投影することは常に拒否される。他人の顔を所有することはできない。

顔要素を分解するパレイドリア実験は、「顔」の中で最も重要なパーツは「目」であり「視線」であることを教えてくれる。他人と視線があった時の「やばい」感じは、からだの錯覚の体感に近い。自己が非自己(ラバーハンド・他人)と同期することで、自己が非自己に取り込まれて、溶解していく感じ。

身体が「所有感」が発現する場所であるとすると、視線は「主体感」が発現する場所なのだと整理できるだろう。相手の視線と合ってしまうことの「恐さ」の根源は、相手の主体世界に自分が飲み込まれてしまうことにあるのだと(無論、その逆も可能)。

普通、同期による主体感錯覚というと、自分の主体感を、外的な事物に投影するような実験系(運動感覚-視覚の同期)が思い浮かぶが、他人の視線と強制的に同期させるような実験系を組むことで、同期によってむしろ自己の主体感が剥奪される(相手の主体感に飲まれる)体験が誘導できるだろうか。

しかし、これは「からだの錯覚」よりも、より一層に「危ない」実験である。例えば、丸一日、誰かと視線を合わせ続けるという過酷な実験課題を想像してみればよい。そこで時限的に操作された主体性に関わる主従関係は、実験終了後も、二人の実験者の間に変わらずトラウマ的に残存するだろう。

からだの錯覚の「ヤバさ」も、相手と視線を合わせることの「やばさ」も、自己を溶解させる危険性があるという意味では同じだが、主体感を扱う後者の場合、それこそ自己の精神を蝕むような「とりかえしのつかない」事態になりかねない。

個人的なことを言わせてもらえば、僕は、他人と視線が合うことを日常的に強く強く自制していると思う。でもそれは、裏を返せば、(教員である)自分が学生を精神的に支配したり、(見ず知らずの他人)に自分が飲み込まれること、等々で得られる強力な<愉悦>の予感に対する裏返しなのだとも思う。

僕が「からだの錯覚」にハマっているのは、この種の、自己変調による「愉悦」を、(本当は他人とがっつり視線を合わせたいのだけれど、それだといろいろと不都合があるので)対象化された「所有感」の水準で、他人に干渉する(される)ことなくシミュレートできることと関係しているのかもしれない。

他方で「幽体離脱」の愉悦はより視線錯覚のヤバさに近い。それは自分自身に方向づけられた他者の視線を、他者の視点の側から擬似体験することが、幽体離脱の本質だからだ。要は、目を合わせ自他を統合させることによってではなく、自他を切り離したまま並列的に往復することで、他者を体験すること。

あるいは、パレイドリアというのは、幽体離脱的に自己に潜在的に内在している他者の視点の顕れなのだという見方も可能だろう。いずれにせよ、反自己(自己に宿る他者性)を媒介として自己像を変態させようとする僕自身の関心は、このようにしてパレイドリア現象と接続される。

僕は、これまでいたるところで発言してきた通り、「主体感」の錯覚の効用については、一貫して否定的だった。主体感の拡張なんて、刹那的でその場限りの透明な遊び(可逆性)にすぎないのだと。他人の視線の問題を考えると、途端に、その主張は怪しくなる。

視線と視線が絡み合う場とは、「主体感の拡張」と「主体感の奪取」とが紙一重の差で闘争される、自己の存続にとって極めて緊迫した空間そのものであろう、と。ただ、この種の局面を、実験心理の文脈で扱うことは極めて難しい。



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