町裏の遊び場。
《この記事は2023年の年末に書き始めるも、結局アップできず、今に至ります。恥。》
先日、年末というのもあって気忙しく車を走らせていた。(だがしかし、安全運転!)
近所の広い公園で7、8人の子供たちが元気に遊んでいる様子を見つけ、ああもう学校は冬休みに入ったんだな、という年末感と、自分も子供の頃よくここで遊んだな、というノスタルジーの二つでなんだかグッときてしまった。
この公園、昔は市営のグラウンドだった。今は防災公園として再整備されているのだ。
目抜き通りに対し、町の裏手にある。
私も、子供の頃の遊び場は、こことこの周辺。町の裏手。
このグラウンドでは正月の凧揚げをしたり、キャッチボールをしたり、部活で野球を練習をしたこともあった。
観光地にあって、暮らしの場。
観光地の子供たちの遊び場はこうした町裏にあった。
路地、横丁、駄菓子屋、スーパー。
フォーマルウェアな大通りに対し、カジュアルな雰囲気を多分に醸している。
町裏は、暮らしの中の「楽しみ」や「必要性」が色濃く表れるエリア。
今はより「機能」の感が増している。
でも、子供たちは今も変わらず冬に負けずに遊んでいる。
と、ここまで書きながら“子供の遊び”で思い出した、唐子の彫刻。
日光東照宮の陽明門等の彫刻の題材には、「子供の遊ぶ姿」を直接的に採用しているものが多い。
子供が遊べる、ということを平和な世の中の象徴としている。
さらに、“遊び”の中に“教え”もあり、司馬温厚「瓶割」などはその良い例だ。※
美術作品として、あるいは徳川であり幕府の象徴として東照宮の数々をみる人は多かろうと思うが、その中に込められたメッセージやコンセプトまで、所謂“深層”を読み取る人はどれくらいの割合だろうか。
(※と2023年末にここまで書いておいて、年明けのテレビの日光特集でもまんまとこの「瓶割」が登場していた。)
今年(2023年)の大河ドラマがサブリミナル的に、いやもっと大きくダイレクトに、脳に作用しているのかもしれない。特に終わり方について。
嗚呼、大河の感想も書きたいくらいだが…。
とにかく、良い作品だった、とだけ書いておき、ここではやめておこう。
閑話休題。
少し話が壮大になってしまったか。
いや、でもそういうこと。
何の因果か、ここで書いた「公園」とは、江戸期には東照宮の造替や修繕の際に職人たちの普請場となった場所なのだ。
現代であれば、メンテナンスのためのベースキャンプ、という表現の方が伝わりやすいだろうか。
各藩が受け持った(正しくは、受け持たされた、か。)「日光普請」は、多くの人数を要した。
その人たちが一時この場所に寝食、作業をしていた場所がここなのだ。
職人、侍、給仕役など。
中には遠方から来た人もいたことだろう。
(これについての詳しくはまた別の機会にでも)
このことから「御宮台」という地名が残る。
しかし、今や地元では(ほぼ)誰もそんなことは語らない。
全国各地の職人達が見知らぬ土地で汗を流し、時に寒さに耐え忍んで過ごした場所は、今や地元の子供達の遊び場なのだ。
江戸期の普請が縁で今も日光に残り活躍されている立派な方もいらっしゃる。
八王子からは、日光の守りを任された人々が交代で来ていた。
そんな一方で、噂によると、某藩では御手伝普請の後に、性病を持ち帰った職人衆によって藩内でそれが流行してしまったこともあるのだとか。。。文献・記録にはなかなか載らない、いや載せられない話だろう。
しかし、そんな話が私は大好きだ。実は。
どんな思いだったのか、どんなことが起こったのか。
色々と思いを馳せて、気がつけば少し時間が経ってしまう。
こういう想像、というか妄想が面白い。
(まちあるきガイドツアーでは、こんな話ばかりしている。否、こんな話「も」している。聴きたい人は参加してね。)
まちが変わっていくことと比例して、寂しさも増えていく。
どれだけ残し、伝え、しかし、文脈を継いで新しいものを作っていけるか、なのだろう。
町裏の遊び場が、未来にもそうあって欲しい。
子供たちが安心して遊べる平和な世の中であることが前提であるが。
前者は自分(達)にも少しできることがありそうだ。
後者は、投票や少しの活動以外には願うしかなかろう。
日々のもどかしいニュースへ皮肉の一つでも言ってやりたい気持ちを押し殺して、今日も珈琲を淹れるのだ。
NPO法人日光門前まちづくりnote部 | 岡井 健(世話人)
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