京都の西芳寺で考えたこと。
コロナ禍で2年余り。それ以前、「観光」に沸いていた日が遠く感じられる。
オーバーツーリズムから一転、外出・移動ができない世界線に放り出され、その後も、新たな変異種の登場や感染拡大に恐々とし、ここまできた。
さて、京都、西芳寺の話。苔寺といわれる。
なぜ西芳寺に興味を持ったか、というと、参拝の受付方法と、その方法をとっている理由を表明していることにあった。数年前に知った。
申し込みのページには、こうある。
現在はwebでも受け付けているが、以前は、往復はがきのみので受付だったという。
前出のように、ここ数年、観光をめぐる状況はジェットコースターのようだった。
オーバーツーリズムによる諸問題が取りざたされたとき、人(旅行者)と観光地の環境のバランスが崩れた部分にそれがあることに気づいた。
過剰流入、特定のコンテンツや場への集中、習慣や作法の違いによる摩擦やストレス、などなど。
「観光公害」という日本語に置き換えてみると、より鋭く生々しく響くのではないか。
京都の祇園で舞妓さんを追い回したり、プライベートゾーンに平気で踏み入ったりする観光客の様子は、テレビ等で度々取りざたされていた。
私は、これを「まちのテーマパーク化」と考えており、これに日光のNPOの仲間が「人のオブジェクト化」を付け加えたことがある。
いずれにしても、観光地の“暮らし”が蔑ろにされることなのだろう。
(そういうリスクも込みで暮らしているのだろう、という冷笑的意見にもたまに遭遇するが、あまりにも酷なものだと思っている)
閑話休題。
環境を保ちつつ、旅行者・来訪者の満足も、さらに施設のマネジメントもできる方法はどこかにないだろうか。そう考えていた。
西芳寺のこの仕組みには、諸々の解決の糸口があるように思う。
・人数を調節できる
・それにより、環境を維持できる(少なくとも施設内は)
・来訪者の満足度を上げられる
・(施設の内容により)本当に訪れたい人のみが訪れることになる
・参拝、拝観、観覧、鑑賞などの意図に沿った環境が保てる
…などが挙げられようか。
例えば、せっかく上野の美術館に行っても、人の波に埋もれ、美術鑑賞に似合わぬ雑音に巻かれ、結局人の後頭部ばかりを鑑賞して帰ってくるような惨めな思いをしなくても済むだろう。
前置きが長くなったが、この1月某日に西芳寺を訪ねた。
時期的に「冬の参拝」ということで、通常公開している庭園ではなく、本堂の襖絵などが参拝・鑑賞できるものだった。
苔を休ませる目的もあるのだとか。
苔むす総門からの参道、落ち着いた広がりを見せる本堂、そして、自然とそれらの色の中に突如現れる堂本印象の鮮烈な襖絵。
なるほど、良い時間になったものだと、今振り返っても思う。
本来の環境と、訪れる人の「調整」が上手くいっている。
静かな中、30分ごとに柝木が鳴り、5分の座禅の時間が来る。
ほどよく、お寺の方が本堂やお庭の説明をしてくれる。(このほどよくが重要!本当に!)
そんな様々が“良い関係性”を築けてこそ、サービスが成り立つ。
それには、「仕組み」も重要なのだ。
滞在した90分くらいが、私にとっては何ものにも変え難い経験になった。
観光、あるいは観光地の課題は、ひとまずお客さんが来てくれるようになれば、いとも簡単に忘れ去られる。
そもそも大概は、「どうやって人を呼ぶか」みたいな話からはじまる。
実は、これらは不幸のはじまりなのかもしれない、と思った方が良い。
観光事業は、目的と手段に終始するが、小さくとも、理念や哲学がなければだめだ。
そして、そのための仕組み。
…そんなことを考えながら、日光へ帰る。
繰り返される薄っぺらなプロモーションのことを思うと、余計に悲しく感じた。
西芳寺↙︎
http://saihoji-kokedera.com/top.html
西芳寺Instagram↙︎
https://www.instagram.com/saihoji_daily/
これまでに同じようなテーマで書いた記事はこちらにまとめました。
マガジン「どこかに身を置き、考えたこと」↙︎
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?