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最近のつぶやきから20230627

twitterでぶつぶつ言っていることを少し掘り下げてみよう。という。
それだけの記事である。

↑これはもう何年言い続けていることやら。
こんなことをぶつくさ言っていてもはじまらないのだけども、でも、「だから、今辛い」という状況はアルアルで。
しかし、これは裏返せば逆手に取れるということでもある。笑
ただ、それにもまた経験は必要になるわけで。
結果的には、コツコツ積み上げた信頼やら実績に勝るものは無いという平易なもの。
けど、それを評価して、話を聞いてくれる人こそ大切にすべき、かな。
何事も、どんな場面でも。

はい、次。

↑これは、なぜ「まちづくり」と「観光」を混ぜて書いたのか記憶が薄い。
別でも良かったと思うけども。

「まちづくりはバズワードだ」とよく言われる。
実際その通りで、数多ある目的や手法を包含した「言い方」であり、「指す名詞」としてもこの上なく便利である。
そして、定義も様々為されてきた。
まちづくり何であるか、というのは大切な問いかけと議論である一方で、どうでも良くもある。
と、私は思っている。
立ち止まって考えることと、アクションを起こすことは両輪であるべきだと考えているからだ。

大切な言葉は数多あるが、この場合はアクションからのフィードバックとしての「へこたれないこと」なのだろう。

さて、観光。
価値観という言葉を用いたのは、その衝突の場面が多く見られるように思うから。
交換し合いやすれ違い、相互鑑賞などなら面白いかもしれない。
でも衝突はよろしく無い。
多様化する価値観と旅の目的の中で、コロナ禍後の日本への旅の期待は高いのだという。
実際に訪日外国人の数はうなぎ上りのようだ。

で、それが観光地の肌感覚としても、「とりあえず日本行っとけ!」というノリの受け止め先であると感じることができる。
少々荒い表現であるが、実際にそれくらいの荒さとカジュアルさで訪れたような方々をよく見かけるようになった。
もちろん、これは私の主観を脱さない。
ただ、上手く言葉にできないが「綻び」を感じてしまう。
でも、少なくとも新しさや受け止め先としての喜びなどの実感では無いと思う。

では「価値観を押し付け合わない」ちょうど良い塩梅とはどこにあるのだろうか。

この辺がしばらくのテーマになるのではないかと思っている。

コミュニケーションをとって理解をすることからしかはじまらないのだろうが。

(了)

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