「」に入れるとはどういうことか?
そもそも、このよく使う「」に入れるとは一体どういうことなのか? を私なりにちょっとまとめてみようと思って。
先に言っておけば、この「」(カギ括弧)は色んな多義性を含んでいるので、ひとことでこう!とまとめることはできません。
本当、この「」がでてきたらいちいち文脈を読まなきゃいけない。受験国語で出てきたら、めっちゃ大変なやつ。
まず簡単に述べられる奴から説明していこうと思う。一つは強調。
このスタンスでカギ括弧を使っている人はウェブライターに多い。俺もよく使う。
横書きって目が滑るし、重要な語句を飛ばされやすいから、そう読まれては困るってときに、苦し紛れに使う。多用するとダサい。
実際でも、キーワードで使うと、注目すべきワードが視覚的に分かるようになるから一気に読みやすくなる。
二つ目は、日常とは違う用法でその言葉を使用しているとき。
哲学系や社会学系の著作に多いね。そのキーワードに独特な意味をもたせているときは大体「」をつける。
例えば、記号と「記号」ではだいぶ違う。前者では、絵文字とか顔文字とか、日常的に良く言われる記号のことをさすんだけれど、後者では例えば哲学系なら、概念に対立される「記号」とか、社会学系なら、消費一般で問題にされる「記号」とかって意味合いを含む。多分大抵注がある。ない場合もある。
「人間」とかね。僕たちは人間であるが、「人間」ではない場合もある(この用法では、しばしば〈〉が使われることもある)。
三つめは、引用。
これは論文では必ず使われる用法だ。誰かの言葉を引用してますよってことが分かる重要な目印になる。
引用の効果はまた結構難しい話で、これもいろいろある。一番オーソドックスなのは、その人の言葉を紹介するというスタンス。
めっちゃいい小説なんかを紹介したいときは、どんどんその小説のセンテンスやキーワードをひっぱってきて「」で括ったらいい。
後は、相手の論理に乗っかって、その人の言葉で思索を開始したいときも引用する。これは哲学系・社会学系にめちゃめちゃ多い。相手が何を考えているのか、そして相手の論理の穴とはなんだ? 基本的に論文というのは相手の穴を探す活動だから(というのも、穴のない論文などない)、徹底的に相手の言葉を使って思索を開始して、その穴を浮き彫りにしなければならない。そういうスタンスでも引用は使われる。
あるいは、その先行研究の文脈を利用したいときにも有効だ。先行研究で、その現象を上手く説明できている一文があって、その文脈を使えば論をスッキリ説明できるときも引用を使う。
四つ目、現象学的判断中止(エポケー)。
割とこの用法で「」を使っている人をよく見る。二つ目の用法と少し被るかもしれない。
現象学――哲学の派閥の一つ――の祖とされるエトムント・フッサールという近代の哲学者が主に使っていた言葉で、「判断中止」の意味を持つ。
エポケーそのものは歴史が古いが、彼によってその言葉に独特な意味が付け加えられ、哲学において積極的に使われるようになった言葉だ。
僕たちが日常で当たり前に知っている言葉なんかを問題にしたいとき、じゃあ例えば恋愛とかにしよっかな、多分僕たちは「そもそも恋愛って何?」って問い方をしてしまうと思うんだよね。
でも、フッサールによれば、「恋愛とは何か」という問いかけをしている時点で、恋愛が実在しているような誤り(誤謬)をすでにしてしまっているのだと言う。
もしかしたら「恋愛」なんてものはそもそも実在しないかもしれない。実在しないものを勝手に「ある」って思いこんでいるのかもしれない。じゃあ、どうやって問うの!? ってなったときに、フッサールは「括弧に入れ」ればいい、って表現するんだよね。
どういうことか。とりあえず、「ある」か「ない」かを議論するのはやめておこう。とりあえず「ある」と仮定して、議論を進めていけばいい。この、「ある/ない」の判断をとりあえず脇に置いておくこと、これが「エポケー(現象学的判断中止)」ということになる。
無論、フッサール本人は、こうやってなんでもかんでもエポケーしたわけじゃないが(彼自身は心理主義批判から、エポケーを考えた)、素朴に用法だけ説明するとこうなる。
そういうわけで、なんだかよく分からないけれど日常ではこういう文脈で使用されているみたいだから、まあ分かんないってことで「」はつけちゃうけど、ノリで使ってみよう! というのが今回の「」である。
例えば、「マジ卍」って感じで、括弧つきで使ってみると結構楽しいし、多分みんなやってんじゃないのかな。よく分かんない、定義も知らない、でも使ってみる。日常の言語使用の感覚としてかなり近い感じをうける。
――とまあ、ここまで長々と、あらゆるパターンを説明してきたけれど、最後に一筋縄じゃいかない用法を説明したいと思う。
これは、僕やみんなが「なんでもかんでも「」に入れるんじゃねえ!」というときの、いわゆるネガティブな用法としての「」だ。具体的には哲学者のボードリヤールという人の「記号的消費」という言葉を念頭に置いている。
例えば、おにぎりが100円で売っているとしよう。
言い方を変えれば、おにぎりは100円の価値を持っている。そのおにぎりを食べるには100円支払わなきゃいけないということを意味している。そして――顧客はそのおにぎりを食べるために、100円を払うことを躊躇しないということでもある。
さあここで、「秋田県のおにぎり」という題名のおにぎりが120円で売っていたとしよう。こう言うケースはよくある。お土産屋さんの「秋田県のおにぎり」が、他のおにぎりよりも割高で売られているというわけだ。
さて僕らは、この「秋田県のおにぎり」を買うのに120円を払ったとする。「秋田県のおにぎり」が120円の価値があるということを認めたということになる。じゃあ、100円のおにぎりと120円の「秋田県のおにぎり」の差は何か。つまり、20円分はなんなのか。「秋田県」? そう、「秋田県」が20円で売られたことになるのだ――。
いや、おかしいだろ! 秋田県なんだからコメが美味しいってことで、その分割高になっているんじゃないか!? って反論はすぐ予想される。
じゃあ試しに、これを「ディズニーランドのおにぎり」としてみたらどうだろう。250円くらいで売られてそう(笑)
じゃあ、今度の100円のおにぎりとの差額である150円って何? 「ディズニーランド」か。「ディズニーランド」が150円で売られたことになる。
いやいや、それだってパッケージのドナルドがかわいいんじゃないか! みたいな。そもそも「ドナルド」って何? ――消されると怖いので、これ以上の議論をやめておこうか。
そもそも「秋田県」だってそう。120円の「秋田県のおにぎり」を買うとき、コメの原材料ちゃんと見てる? 見てないでしょ。「秋田県」ってネームバリューで買ってるよね? 事実、経済はそうやって動いている。「秋田県」と名前をつければいくらで売れるのか――ということを需要と供給のバランスで価格が決定されていく。つまり、名前で商品価値が決まっているのだ!
このことが分かれば、そもそもおにぎりが100円で売られていることだっておかしい。例えば100円の商品は他には、コンビニで売られているDARSのチョコレートなんかがそうだ。
素朴な経済では、おにぎりとDARSのチョコレートは同じ価値を持っているものだと認識されるということになる(厳密に言えば、おにぎりとチョコでは売れるシーンがまったく違うので別物ではあるが、価値の面ではやはり等しい)。
言ってみれば、物の価値が全て「お金」で決まっているということになる。ここで、お金っていうのは「差異」でしかない。うまい棒(10円)とチロルチョコ(30円)に、20円の差をつけるための尺度なのだ。つまり、物の価値は全てこの「差異」に回収される。「秋田県」も「ディズニーランド」も「差異」で判断される――そして「秋田県」はその中で、「記号化」されているのだ。
「記号化」とは簡単に言えば、その対象をなんにでもつけたり取り外しが可能にしたりできるようにすることである。
例えば「秋田県のコシヒカリ」とか「秋田県のおせんべい」とか。「秋田県のパソコン」はちょっと変かな?
なんで「おせんべい」や「おにぎり」はよくって「パソコン」は変なんだろう。それは、「秋田県」という記号が「コメが美味しい」という意味を持っているからだ。実際にコメが美味しいかどうかはどうだっていい。顧客が「コメが美味しい秋田県」という認識を持ってさえすればいい。
――もしかしたら、パソコンを秋田県で作ればめちゃくちゃ優れたものができるかもしんないじゃん。でもそんなことは関係ない。国民は、「秋田県」を「コメが美味しい場所」と思っているんだから、米だけ作っておけばよいのだ、ってなる。
「コメが美味しい」ならまあまだいいかも。「秋田県」にはひどいレッテルがもう一つある。美人県――これ酷くね? マジで、やばすぎるでしょ。秋田出身と自己紹介するだけで、「あっ、じゃあ美人なんだ!」って言われる人の気持ちを考えると、きつすぎる。――「記号化」にはこう言う側面がある。
このことが起こると、じゃあどんな悲劇が生まれるか。例えば、音楽関係のことでは、この手の記号化関連では年中いさかいが起こっている。
例えば、「POP JAM事件」というものがある。番組で爆笑問題の太田光がL'arc-en-Cielというバンドに、「ヴィジュアル系」と紹介したとき、演奏の途中で帰るという放送事故が起こったという話らしい。「いや僕たちはヴィジュアル系じゃないんで」とギター担当のTetsuが答えたのだそうだ。
――この問題には様々な思惑が交錯していると思われるが、このことが「ヴィジュアル系」という記号化された名称にあることは間違いない。「ヴィジュアル系」という記号が何らかの意味を持っていて、それに対して反発したのか。あるいは、記号化そのものが嫌だったのか――
小説を書いていて、ときどき言われることがある。「褻ノヒさんは、○○系の物書きですよね~」的な。「○○系」は、半分当たっているし、半分は当たっていなかったりする。掠めている。
僕的にはこの「半分当たっていない部分」が大切だったりするんだよね。雑な言い方をすれば個性っていうか。○○系では閉じられない部分。それを「○○系」で呼ばれてしまうと、その部分が消えていってしまう感じがして嫌というか。
だから、そういう「」に抵抗したくなるって感じがして。「僕たちは「」をつけられたくない」とはこういうことで。
で、それはレッテル貼りに限ったことではなくって、知らず知らずのうちに(「」を使わずに)「」を使ってしまっているって場面もよく見受けられる。
英語で言えば、SVOのO。日本語で言えば「~を」という目的格を使うときは本当にそう。よく巷では、「哲学を使う」って表現をよく見る。「哲学を」ということは、「哲学」がその「を」によって「目的」だったり「対象」になっていることを示している。つまり、完全な名詞として扱われている。
「いや、哲学は元々名詞でしょ」って思われるかもしれないけれど、これは文法の話じゃなくって、もっと感覚的な話で、哲学が名詞で扱われることによって「完結した印象」を与えてしまっているというところが問題なんじゃないかってことなんだよね。
「哲学を武器にする」とか。この手の本がベストセラーになってしまったことには、少々憤りを感じる。哲学は武器じゃないし、そもそもそういう名詞的な完結性はもってないんじゃないの? そういう繊細さの見えない言葉遣いが嫌だっていうか。
――で、これはきっと哲学を「」にいれてしまっている。がっちりと、「哲学」って感じで。
ただ――哲学の場合は、「哲学する」という動詞も一般的に使われているから救いがある。動詞としての用法が一般に認識されているのだ。
そういう意味で、哲学は動的なダイナミズムを持ち続けられる。でも、そういう動詞の用法がない言葉はどうなるのか――
最後に余談なんだけれど、今日紹介したフッサールとボードリヤールの哲学は基本的に相性が悪い。フッサールは積極的に「」に入れようとしたし、ボードリヤールは「」に全てが入れられていく現状を嘆いた。
この認識の違いは「」の持つ意味の違いに現れている。フッサールは「」に一旦入れることによって、その言葉のもつ文脈を可視化しようとした。これは僕の恣意的な理解だが「」って記号、よく見ると上と下が開いてるじゃん。
空いてるってことは、ここから流れ出るエネルギーを注意深く見ろってことなんじゃないかって。言葉の持つ、漏れ出るエネルギーというか。そして、フッサールの現象学の中で思考を巡らし、脱構築へと至ったフランスの哲学者ジャック・デリダは実際、「差延」という概念(ではない概念)を用いて概念以前の、言ってしまえば言葉の動的なダイナミズムをそのまま書き出そうとする。
一方でボードリヤールのそれは、まさにレッテル貼り的な、いってみれば値段シールだ。記号に、そういうのがないのが残念だが、まさに□の中に文字が書かれているイメージ。ペタペタと、名詞的に扱われるモノたち。男とか女とか○○主義とか○○イズムとか。
僕たちが全員シールになっていくような世界観に、動的ダイナミズムはほとんどない。確かに、それは嘆くわ。つらい。
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