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長編小説:屋根裏部屋のドラマチック②

「――あ、さっきの子? みっちゃんって言うんだよ。ミチルだからみっちゃん」
 二人は、女子トイレを出て、廊下を歩き始めていた。予鈴までの少しの時間、私に案内させてほしいとハマが言うので、サユリはしぶしぶ承諾したのだった。サユリは今、気が気ではなかった。なぜ、自分の居場所がバレたのか。図書館の本を読み尽くし、新しいことを知ることはもうないと悟った彼女にとって、ミチルという未来の純文学ガールに居場所がバレたのは絶望に等しかった。本でも分からない知識がある。ならば自分は、相当な世間知らずなのではないか。生涯を通じて、ほとんど人と関わりをもたなかったサユリは、自分のアイデンティティの全てを本に仮託していたのだった。
「――とその前に」ハマは、質問しようと目をギラギラに光らせているサユリを制して言った。「まずは、このA棟を紹介するね! 本当は、この学校のことをもっとお話ししたかったんだけど、そんな時間ないね。誰かさんが隠れるから」
「ごめんてば、私だって、生死を彷徨ったんだから」
 むくれるハマに、サユリは慌てて弁解した。
 A棟校舎の中は、真っ赤な外壁ほどではないにしろ、うっすらと赤みがかった塗料で塗られていた。ほとんどの記憶が屋根裏部屋と倉庫の中での生活に依存しているサユリにはやはり派手に映った。ところどころに、小さな水槽が置かれていて、その照明が青く光っているので、なおどぎつい。点々と置かれた観葉植物は、のっぺりとした平行脈の葉を広げていたが、各々の葉が黄色く縁どられていて、あまりの彩色の豊かさにサユリは目が回りそうになった。
 ハマの話によれば、このA棟にはまず、メインとなる四つのクラスがあった。それらすべてのクラスは、A棟の名前に準じて、学内ではまとめて「Aクラス」と呼ばれている。そして、この四つのクラスはカリキュラムの進行度に合わせて、ビーバー座、リス座、シカ座、クマ座と呼び分けられていた。サユリたち、入学したての生徒はビーバー座、それから順にリス、シカ、クマ座へと昇格する。つまりサユリは、ビーバー座のAクラスということになる。入学してくる年齢がバラバラであるこのイズ魔法学校には、厳密に言えば「学年」なる概念はなかったが、この座級が自動的に、年功序列の基準のような役割を果たしていた。
 ちなみにハマはこの校舎の二つ隣、黄色いC棟に所属しているので、ビーバー座のCクラスである。ハマによれば、A棟からF棟まで、自分がどの棟に所属するかは、細かな基準によって分けられているらしいが、時間の都合により、サユリはハマからその内容を聞き出すことはできなかった。
 また、各棟には理科室、視聴覚室、会議室、音楽室、簡易図書室などがそれぞれ設置されていた。基本的に、学課時間のあいだは、棟から出る必要がないらしい。加えてここには、魔法室なるものが存在した。この魔法室は、イズ魔法学校のような、内閣公認魔法科学校にのみ、設置されているらしい。このカワバタ国内で唯一、魔法の研究が認められている魔法学校では、魔法室は非常に重要な設備となっている。
「――でさ、私、魔法っていうのも正直よく分かってないのよね」
 サユリは、魔法室の扉を眺めながら言った。ハマはそれを聞いて、再びむくれてしまう。
「そうだと思ったんだよ! 魔法の本は、市民図書館にはあんまりおいてないし。ってかね、魔法のこともね、ちゃんと説明しようと思ってたんだよお!」
「ほんとに、私が悪かったわ。今度からはハマにちゃんと頼ることにする」
「そうしてよねっ!」
 ハマは照れくさそうに笑った。サユリは、彼女の機嫌が戻った様子に、ホッとした。
「それで――」サユリはもじもじしながら言った。「この後のテスト、本当に大丈夫なの? 魔法の知識とかでない?」
「それは大丈夫だよ! まだ魔法学の授業は始まってないから。今回の中間テストではでない」
「それならよかったわ」
 サユリは胸をホッと撫でおろした。

***

 もうすぐ予鈴が鳴るというので、ハマはサユリをビーバー座Aクラスの教室の前まで案内してから、自分の棟に帰っていった。
 走るハマの後姿を見送った後、サユリははたと気がついた。――私、友達がいない。その気づきは、彼女に、自分の立ち位置についての多くの見解を呼び起こさせた。まず、自分は友達を作ったことがない。彼女はこれまで、ハマ以外の人間と喋る機会がほとんどなかった。記憶に微かに残っていることと言えば、蒸発する前、ビジネスに熱中していた父母の小言を聞かされるくらいだった。そんな自分がクラスメイト(?)と楽しいおしゃべりができるとは到底思えない。
 また、彼女は自分の肩書の危うさにも気がついていた。名目上は、彼女は立派な生徒である。今日は正当な権利でもって、テストを受けにきたのである。しかし一方で、彼女は自分が〈転校生〉の属性も持っているのではないかと考えた。〈転校生〉とは、学期の途中で何の前触れもなく登場し、話題をかっさらう人間のことを言う。彼女は、今まで読んだ小説の知識と照らし合わせながら〈転校生〉を分析した。今、この扉を開ければ、確実に自分は〈転校生〉として扱われるだろう。クラスメイト達が息をひそめ、私の外見を値踏みし、休み時間になれば、「どこ中だった?」などと質問してくるに違いない。しかし、サユリは中学校どころか、小学校にすら通ったことがなかった! ――詰んだ、と彼女は思った。彼女は自分のパーソナリティを聞かれたら、なんて答えればいい? 屋根裏部屋でずっと食っちゃ寝食っちゃ寝してましたなんていえますか、神様! 天罰が当たるに違いない。
 そのとき、予鈴が鳴った。サユリはこれが、最後の審判を予告する悪魔の合図だと感じた。とにもかくにも、扉を開けなければならない。っていうか、なんで私、ここにいるんだろう? だって、ハマが勝手に、入学させたんじゃんか。ひっそりと老婆になってから通うんでもよかったのに。
 いいや、逃げよう。
「――あれ、もしかして君はサユリさん?」
 振り向いた瞬間に、後ろに自分よりも一回り大きい女性が立っていた。サユリは、女性が持っているファイルを瞬時に確認した。クラス名簿だ。ということは、この女性がこのクラスの担任の先生だろう。
「ハマさんから聞いているわ。大変だったわねえ。うん、入っても大丈夫よ」
「え、私帰ろうと――」
「なあに言ってるのよ。せっかくここまで来たんじゃない」
 先生はにこりと笑って、扉を開けた。隙間から、男や女の快活な笑い声が一斉に聞こえてきた。サユリは恐る恐る中を覗く。机に座って談笑する者、テストに向けて勉強している者、窓の外を眺めている者、様々な人間がいた。サユリは再び、吐き気を催した。この21人全員が、それぞれ〈主人公〉の素質を備えていた。
「大丈夫?」後ろに立っていた先生が優しく言った。
「いえ――」
「いい治療法を教えましょうか」先生は言った。サユリは、驚いた表情で先生を見上げた。先生は優しく――しかし不敵な笑みを浮かべていた。サユリは瞬時に、この先生にどす黒い〈闇〉を感じた。この先生も〈主人公〉なのだった。サユリは両手で慌てて口を押さえた。
「ほら、気をしっかりもって」
 先生はサユリの背中をさする。すると、幾分か吐き気が引いてくる。
 そして、先生はサユリの右耳に口を近づけ、そっと呟いた。
「自分こそが〈主人公〉だと思いなさい」
 それは、刹那の出来事だった。
 サユリの頭の中に、複数の絡まった紫色の糸のイメージが現れた。〈両親が蒸発〉〈捨て子〉〈屋根裏部屋に隠れ住む〉〈不明瞭なアイデンティティ〉〈突然の通学〉――自分を構成する属性が、次々とほぐれていった。紫色の糸の中に、一本の黄色い糸が紛れていた。〈ハマ〉だと思った。サユリは〈ハマ〉の糸もほぐし、他の糸に整列させた。それからサユリは、その糸と直交するように、一本の赤い糸を置いた。〈主人公〉の糸だった。サユリは、とたんに吐き気が引き、頭を支配していた気持ち悪さが抜けていった。背筋を伸ばし、シャンとして教室の真ん中を勇んでゆく。誰もが、サユリの突然の登場に驚いたが、話しかける間もなく、先生が大声を出して、号令の合図を学級委員に求めた。
「起立!」学級委員と思しき生徒は鋭い声で言った。21人が一斉に立ち上がる。一瞬、静寂が教室を支配する。学級委員の生徒は深く呼吸をしてから、叫んだ。
「礼!」
 よろしくおねがいします!
 ――こうして、サユリの学園生活の幕が開いたのだった。

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