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時間・意識・動きと空間の関係

「物質とは、空間とは、生命とは、意識とは?」いずれについても最先端の科学においてさえ解明しきれてはいない。こうした基本的なことすらわかっていないにも関わらず、より複雑な人間とは何か、がわかるはずもない。また、人間のことがわからなければ、私たち一人一人は、どのように生きるのが正解かはわからないというのが道理だろう。

それでも今日も私たちは生きる。正解が分からずとも生きる。ある範囲以上のことは、わからなくとも認識から切り捨て、ある範囲においてという仮定の中、それぞれの正解を生きるということだろう。だからこそ、哲学論争に最終解答が出されることもなく、今日も議論は続く。その結果、世界に何も問題がなければ良いのだが、世界は問題だらけだ。とも言える。

私は、「空間のこと・物質のこと・意識のこと・生命のこと」に、ある程度一貫した仮説を持つことができたなら、人が物事を考える際の前提が変化すると考えている。どれだけ議論を重ねても、思考や行動の前提が変わらないなら、私たちは、今と概ね変わらないことを繰り返すだろう。大きな変化を望むなら、思考基盤となるものをシフトさせねばならない。それをパラダイムシフトという。

私たちの思考基盤となる、「時間、意識、動きと空間」について問いを立てることで、私たち自身についての仮説を立てるきっかけとしたい。

時間について

時間とは何だろう。時間は4次元における3次元+1と捉えられたり(客観的時間軸であり通常の実感に近い)、科学に関心ある方は相対性理論から紐解いたり、はたまた、それぞれの人生経験で、楽しい時間が早く感じたり、つまらないことが遅く感じたり、先週が遠く感じたり、まだ2日しか経ってないの?と感じた経験もあるだろう。このことについて考察したい。

私たちの脳は、あまりに当然のこととして、現在という時間にいながら過去と未来をイメージできる。そのため時間というものが実在すると考えるが、これは実は意識が作り出した概念であり、物理的な場所のように時間が前提として存在しているわけではないということができる。人間の逐次認識方式の意識がなければ時間は存在しないと考えても良い。つまり時間とは意識体の中に存在するのだ。

私たちが基準とする時間は、「意識(生涯を一単位と捉えるような長い単一の意識)」の中を「動く」物事を、「太陽を中心とした動きの単位(それを分割した年、時間、秒)」に揃えた中で、太陽以外の動き(正確には地球の動き)を観察するための補助線であり、太陽すらも宇宙全体の中では動くとすると、この時間の単位では宇宙全体を包摂した基準時間というものを設定できないことがわかる。

太陽のない世界にみなさんが放り出されたとした時に何が時間を決定するか考えてほしい。そこにはそれぞれ自己中心的な世界と時間が誕生するだろう。生命が持つ固有の長さ(約百年としよう)を中心とした意識に対して、周囲の動きあるものを観察した際、それらが一定の範囲(観察可能な距離)を動く移動の速さ(百年に対し)が時間となるだろうし、その基準となる速さ(ex 光=運動量を持つものが基準となる場所から動いた距離)から時間が決定される。その時、同じレベルの認識能力を持つが、寿命(もしくは生命固有の振動数)が100年のAという生物と寿命が10年のBという生物がいたとすると、同じ1分をかけて通過する対象をBは10倍長く感じるだろう。基準とする意識が異なるからだ。

逆説的だが、観察する主体意識のないところには動きがなく、動きが一切ないところでは時間は存在しないことがわかった。次に意識と動きについて考察したい。

意識:

意識について。
通常意識というのは宇宙の内側に宇宙の進化と共に現れるものと想定している。宇宙の外に現れる意識が仮にあればそれは神性意識と呼んで良いだろうし、そうした存在が宇宙を作った可能性がある。

宇宙外意識(=神性意識)からすると、我々が見ているものも、見ようと思えば見えるだろう。しかし、例えば一本のひもがアリにとっては大きな道に見えても我々にとっては線に見える(我々にとっては1次元が彼らにとっては3次元)のと同様、より高次元の主体にとっては次元が折りたたまれている。宇宙外意識にとっては、宇宙内のあらゆる変化を宇宙内意識が気にするほど気にしないだろう。また、意識は気にならないもの(変化を感じないもの)には発動しない。何も気にならないならそこに意識の発動はない。意識の上で存在しないものを知覚できないのだ。

宇宙内意識は、宇宙の内側から観察する意識であり、目の届く範囲でこの宇宙の中を観察する。しかしその観察の仕方は発動する意識のレベル(発達度合い、主体意識の覚醒レベル、意識のサイズなど他にも多数あろう)に応じて異なる。これは、宇宙外意識と補完関係にあると言える。宇宙外意識は宇宙内意識を統合した意識と仮定できるかもしれない。これは、クラウドとエッジの関係、ビッグデータと近い考え方だ。宇宙を創造する意識という考え方は、場の理論や、量子意識論からも展開されている。また、仏教での阿頼耶識という考え方とも非常に近くなる。

動き:

動きとは何か?一体何が、どこからどこへ動いているのか?

「東京から大阪へ」などのスケールについては小さすぎてわからないのだが、宇宙外意識、もしくは宇宙を包摂するような意識からするとこの宇宙の中にあるあらゆるものは、ビッグバン(ホワイトホール)から発動し、ブラックホールへ落ち込むまで、相互に重力に引っ張られながら旅をしているのであり、そのプロセスにおいて相対的に相互に観察し「動いている」「止まっている」という認識を意識がしていると言える。動きとはそのようなものなのだろう。観察者から見た相対的動きというのはもちろんあるが、ある絶対的な観点から見ると動きとは、ホワイトホールからブラックホールへの動きの奇跡のことだ。

補足 光:

宇宙の中を動く速度の中で、意識から見える最速のものであり、プランク長(1.616229(38)×10−33 cm)を通るのにプランク秒(5.39116(13)×10−44 s)しか滞在しない。この宇宙の中を一定の速度で動くと言われている。

もし私たちが高速で動くと私たち自身は歳を取らないのに、地球に帰ると皆が歳をとっているという浦島太郎現象が生じると言われる。

また、

まとめ

時間・意識・動き・光をあらためて考察してみた。
みなさんはどのように考えるだろうか。こうしたことを考えた際、私たちは、自分の在り方として何を想い何をすべきだろう。

相対的時間の中、この宇宙の中に発動した意識として何をなすべきか。

そのような考えが心の中に現れないだろうか。
少なくとも私には現れる。

自分を産んだ宇宙に感謝の念が湧く。
その限りあるプロセスの中、最善、最良のことをなす部分でありたいと思う。


WaLaの哲学


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