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冬の朝

起きたいのに布団からなかなか出られない。もう少しだけ布団の中にいたい。土曜日の朝。一週間の中で一番好きな時間。何かに急かされることがなく、何でもできそうな自由な時間。意を決し、がばっと布団を剥ぎ取る。身体を包んでいた暖かい空気が霧散した。上半身をゆっくりと起こす。頭はまだぼおっとして身体の動きがぎこちない。寝る前に触っていたはずのスマホはどこだろうと枕もとを探る。枕の下に黄色いカバーが見えた。スマホを掴み、立ち上がる。
寝室のドアを開けて、リビングに足を踏み入れた。寝室よりもしんとしている。ぶるりと身体を震わせ、壁の照明のスイッチに触れる。カウンターキッチンへ足早に近付く。確か、暖房のリモコンがこの上にあったはずだ。積み上げられた郵便物を払いのけるが見当たらない。食卓の上を見渡す。どこに置いたのか見当もつかない。カウンター下の本棚だろうか。しばらく探していると、真ん中の段の本の間にリモコンが隠れていた。オレンジ色のボタンを押すと、グウゥゥンと低い音が部屋に響く。時計に目をやれば、まだ6時になっていない。カーテンを一気にがばっと開ける。窓ガラスにはびっしりと水滴がはりついている。指先でそっと触れると、ひんやりとした感触が伝わってきた。
外はまだ薄暗い。思い切って冬の朝の境界線を飛び越え、ベランダに出た。足の裏がピリッとする。コンクリートの地面は無情だ。ゴオォォン、ゴオォォン、ゴオォォン。遠くからお寺の鐘の音が聞こえた。最近ずっと聞けていなかった。何だか得をしたような気分になる。見渡せば、明かりがついている家はほとんどない。目の前には動き出していない生まれたての世界。まだ自分だけのもの。真っ新なこの空気を独占だ。全部吸いこんでやろうと大きく吸い込む。

玄関で靴を履きながら、スマホのウォーキング用のアプリを開く。ここ一ヵ月ほど歩いた記録がない。外の寒さを想像すると腰が急に重たくなった。えいやっとドアを開ける。冬の空気がぶわっと襲ってくる。スマホで気温を調べると5℃を示している。アパート前の階段を下りながら、ふとカナダの冬を想う。カナダではこの時期はいつも0℃以下だっただろうか。体感的には日本もカナダも変わらないような気がする。僕が住んでいたmaritimeエリアは雪が降るから視覚的に寒かったのかもしれない。はあっと息を吐き出す。白い靄がフワっと広がる。先週久しぶりに体調を崩してしまった。寒さはそんなに苦手ではなかったはずなのに。身体的に寒暖の差が苦手なのかもしれない。ポケットからマスクを取り出して耳にかける。土曜日の朝ということもあり、人影はない。マスクを下げて口を出す。新鮮な空気。頭がだんだんとはっきりとしてくる。Spotifyのプレイリストでお気に入りを探す。再生を押すと同時に耳に音が飛び込んできた。グッと身体にエネルギーが入る。
家の前の道に沿って歩き始めた。小学校の校舎がだんだんと見えてきた。冬の空の下、校舎の白い壁が余計に寒々しさを増している。そのまま学校を通り過ぎ、公園に入る。公園から繋がるトレイルを目指す。夏には青々としていた樹々は、色を変え、葉を落として違う姿を見せる。モミジの葉が赤く染まっている。日本でよく見られるイロハモミジ(ムクロジ科カエデ属、Acer palmatum)。カナダのMapleとは親戚みたいなものだろう。小さく切り込んだ葉。鮮やかな赤色。地面に落ちている葉を一枚おみやげに持って帰ろうと腰をかがめる。拾った葉には薄く霜がはっていた。しばらく歩いていると、折り返し地点に決めていた公園前に辿り着く。公園前のベンチに腰を下ろす。鉄のひんやり感がお尻から伝わってくる。温まった身体から熱が徐々に逃げていく。横断歩道を渡ったところのローソンでコーヒーを飲んで温まろうか。そう思っていると、犬を連れた夫婦が目の前を通り過ぎた。しまった。世界がもう動き始めた。よいしょとベンチから腰を上げる。そう言えば、昨日の夕食のお皿をシンクにつけたままだった。帰ったら一気に洗ってしまおう。お風呂も温め直して髭をゆっくり剃りたい。足早に今来た道を戻り始める。


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