見出し画像

友近賞受賞作「県民には買うものがある」(3/5)

 今日は春の陽気でよく晴れた。彼が運転している間、私は助手席でがさがさ袋をあけ、買ってもらったツナマヨおにぎりを食べる。林田くんはツナもだめらしい。ふと車内で見る海苔の黒さになんだか驚いてしまう。エアコンの下についている時計を見ると、時刻はまだ12:30だった。
「……琵琶湖でも見てくか」
 ぎこちない声を出しながら林田くんはくるくるとハンドルを回し、道を逸れた。ホテルのサービスタイムが始まる13時までの30分をつぶす為だが、滋賀県民はその所在ない時間を「琵琶湖を見る」のに費やすことが許されている。湖岸道路を走れば常に琵琶湖は見えているけど、この場合はその脇に点在している駐車場に停めて一息つくことを言う。林田くんと会うようになってから学んだことだ。
 ローカル局のびわ湖放送ではアイラブマザーレイク、守ろうマザーレイクとしきりに謳われていて、実際に滋賀県民はわけもなく琵琶湖が好きだったりする。私だって好きだし、そしておそらく運転する彼も同じだろう。それにヒロミちゃんも。私たちは三人とも、住む街が琵琶湖から離れている。
 県外の人には滋賀ならどこからでも琵琶湖が見えると思われがちだけど、私たちの生活にただようその気配はとても薄い。だからこそ琵琶湖は、幼少期から近場のレジャースポットとしてたいへん重宝する。親戚と湖岸でしたバーベキューのにおいや、家族とのドライブで通った夜の琵琶湖大橋のきらめき、そういう浮かれたりさみしくなったりという滋賀県民のちょっと特別な記憶は、たいてい琵琶湖と結びついているものだ。
 たとえ何もない滋賀でも、このどうしようもなく広い湖を前にすると私たちは心がすこし柔くなって、そのままの自分を抱きしめられてるような心地になった。ただ、自転車や電車でここまでたどり着くことは難しい。だから毎週末、琵琶湖のそばまで連れて行ってくれる男の車へ乗り込むなんてことをしてしまう。終いにはセックスしてもいいような気にすらなる。琵琶湖の空気は、そんな風に私たちを狂わせる。
 高校に入ってから確信したことだけど、琵琶湖が生活圏内にあるところで育った子とそうでない子では、人間の質が違う。どちらが良い悪いではなくって、そうでない子にはほんの少し、普通にしていれば気付かないくらいの憐れさがあるのだ。琵琶湖が遠くにあるということに由来する、底のほうにある揺らぎ。信じるものが確かではないような感じ。
 大人になれば消えてしまいそうなものなのに、林田くんにはまだかすかにその憐れさが残っている。

「めっちゃ晴れとる」
 シートを深く倒し、林田くんは頭の上で腕を組んでいた。車内にはBluetoothで林田くんセレクトの音楽が飛ばされていて、アニメのエンディングになっていた男性ボーカルの曲が小さなボリュームで流れている。目の前の琵琶湖は陽に照らされ、ひそやかに白い輝きを放っていた。
「明日から大学やろ」
 カフェオレを飲もうとビニール袋に手を伸ばすと、林田くんがすでに先回りして袋の中から探り当てていた。それを手渡しながら大して興味がなさそうに聞いてくる彼に、まあ何とかなるんちゃうーと私は間伸びした声で答える。ストローを飲み口へでたらめに突き刺す。
「ほんまお前、アホっぽいな」
 そう言って林田くんは、今日初めて私に笑ってみせた。いつものように口もとをヒッと吊り上げ、目は白目を見せつけるように見開いた、いびつな笑い。わざとなのか気付かずそうなってしまうのか、どっちか分からないけど、この顔を見るたび私は心がひゅんと縮む。
「アホ、ちゃうし」
 低い声を出すと今度はにやにやした顔に変わり、彼は私の頭を撫でた。浅黒い手のひらは必要以上にしっとりしている。カフェオレがこぼれそうになるのがわずらわしく、ドリンクホルダーにいったんおさめる。林田くんはそのままのっそりと私のシートに身を運んできて、首に噛みつくようなキスをした。
 彼は私をとことん馬鹿にしてからでないと、「いちゃいちゃ」へ導くことが、できない。

 林田くんと抱きあうといつも、給食に出た黒糖のパンを思い出す。林田くんの身体のにおいはやけに甘い。服からするのだと最初思っていたけど、性器からも同じにおいがしたから、どうやら彼そのものから放たれているらしい。
「林田くんいつも甘いにおいすんなぁ」
 すべてを終えた私たちは、ホテルのベッドで寝転がりテレビを眺めていた。シャワーを別々に浴びた後で、火照った身体がシーツの中で冷まされていく感覚が心地いい。なんとなく気分も緩む。
「そうけ? 自分ではわからん」
 林田くんはくんくんと自分の腕を嗅いだ。ラブホテルって窓がなくて電気も暗いし、いつ来ても夜みたいに思える。昼のなかにある夜っぽさは、ちょっと不健康な感じだ。
 テレビでは外交問題について大人たちがしきりに議論しているところだった。中国、ギリシャ、ロシア、韓国、アメリカ、国の名前が次々に飛び交う。何を言うてんねん、という関西弁の怒号も。ふと冷やしておいたエクレアのことを思い出し、ベッド脇の冷蔵庫を開ける。薄暗いオレンジ色の灯りに照らされたエクレアを見ると何となく食べる気が失せてしまい、やはり家へ持ち帰ることにした。林田くんはごくごくと喉を鳴らしながらC.C.レモンを飲んでいる。
 テレビを見ながら彼は、外交問題について自分の意見を主張しはじめた。いかにも、私には到底理解できないだろうと言いたげに。滋賀から出たことのない私に、滋賀から出たことのない林田くん。私たちは今だって同じベッドの上にいるのに、驚くほどばらけている。
 ホテルには3時間半滞在したのち、チェックアウトした。

 湖岸道路、近江大橋、その側で煌々と輝くイオンモールを通り過ぎ、国道1号線を走り抜ければ私の家の最寄りの駅へはすぐに着く。この帰り道こそが、林田くんと会う時間のなかで私にはいちばん重要だった。夕暮れどきの琵琶湖を車の窓越しに見るとつい、隣にいる林田くんのことを昔から知っているような感じになってしまうのだ。親戚としたバーベキューの記憶に、林田くんという人のかたちがいつの間にか浸透して、まじりあう。湖岸の風に乗ってただよう炭のにおいが思い出される。私にとって林田くんは、ノスタルジーを発動させてくれる便利な装置になっていた。
 駅前に着くと私たちはあっさり別れる。エクレアの入ったコンビニ袋を手にさげ、つかつかヒールを踏みしめ、ロータリーを歩く。
 スマートフォンを取りだしてインスタグラムを開くと、ヒロミちゃんが夕空と電信柱を写した写真をついさっきアップしたところだった。

4につづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?