【小説】桜の奏で その3


桜の奏 3

 「お出かけリストの1番目。明日の日曜日に行くの」作曲を朝までしていた裕樹には、朦朧とした言葉だった。
 「リスト? なんだい? 突然に」裕樹は葉子の手許を覗き込んだ。
 瞬時に葉子は手書きされたA4サイズの用紙をたたんだ。
 「あなたと一緒に行きたいと思っているリスト」
 「お出かけリストか? 結婚する前も作ってたよね。どこどこ美術館だとか、なんとかタワーとか」
 「うん、その地元版、名所旧跡ばっかりだけど」
 「なんかの研究施設なんて入ってないのかな? 例えばJAXAとか」
 「男の子目線は入ってないかも、県内リストだし」
 「僕の希望も入れてくれよ」
 「あたしのリストが、終わったら入れて上げる」
 「何件、リストアップしたんだ?」
 「内緒。でもね、明日はね。三峯神社!」
 「秩父の?」
 「テレビで観て、ネットで調べてみたの、良いところと思うわ。歴史のある神社なのよ。しかも有名、行く価値は十分。埼玉県民としては知らない方が恥ずかしい」
 「と言われても、埼玉に住んだのは君と結婚してからだし」
 「もう3年にもなるんだから、知らないと」葉子は両手を裕樹に重ねてみた。
 「どうやって行く」そう答えてから、3年という時間の符合が頭をよぎった。
 「電車とバス」
 「遠くない? 家から随分な距離だろう」
 「行っていて帰るのに日が変わるような距離じゃないわよ。でも、公共交通機関ではとても時間が掛かるところね。レンタカーを借りたほうが合理的だと思う」
 「明日となると今すぐにでもかな。レンタカー屋さんに電話するよ」
 「タイヤはスタッドレスが良いみたいよ」
 葉子は微笑んでいた。その微笑みに裏にある複雑な心を見透かすように裕樹は、横に座る葉子を抱きしめた。
 「抱いて」葉子の口からぽつりとこぼれた。
 「いまか」裕樹は葉子の首筋に唇を押しつけた。あの血痰以降、キスはしていない。何度も裕樹は構わないと言ったが葉子が拒否をしていた。
 「あたしをみちびいて」葉子は裕樹のセーターの裾に両手を差し込んだ。
  
 厚めの防寒具を後部座席に置いた裕樹はレンタカーのハンドルを握った。
 オフシーズンなのでレンタカーは容易に借りられた。朝一番に車を取ってきてマンション前の細い道に付けて、葉子を待った。
 「今から下に降りる」LINEに入れてから数分で、葉子はレンタカーにやってきて、作ったばかりのお弁当を後部座席に置いて、助手席に滑り込んできた。
 「さぁ、準備万端」
 特別に元気が良く、笑顔も美しく、裕樹は隣の葉子を、しばらく眺めていた。何もなければこんなに幸せなことはない。作曲も順調で、無調部分のコンセプトは取りまとめられ、工藤との関係もうまくいっていた。信頼関係が少し出来てきたと言ってもいい。ただ。明るく元気な調性音楽の部分は相変わらず書くことを戸惑っていた。今の状況では書いてもろくな曲にならない。
 後から、クラクションが鳴った。後の車は無理すれば傍らを抜けないことはない。だけども、擦るかも知れない。向こうは安全を求めるたちなんだろう。こちらは借り物の車だ。無用なトラブルは避けたかった。裕樹は車をおっかなびっくり発進させた。天気は良く、ふたりの無邪気さは、付き合い始めた頃のようだった。あの時は、桜の季節だった。夏が移りゆき、秋が散り、めぐる季節。葉子と過ごす事が当たり前から非日常へのドアの向こうに入りつつある。
 三峯神社までの所要時間は2時間ちょっとと、ナビには表示されていた。
 
 国道に出て、さいたま市を後にした。点在する大手通販などの物流センターや古い工場群がある太い道を1時間も行くと、景色は自然豊かな田園風景になっていく。両脇には山が遠方に広がって、人家さえ疎らになってきた。
 横瀬川横に立てられた山小屋風の道の駅に入って一息ついた。
 「夏は、親子連れで凄く混んでいるそうよ。川で水遊びするのが、避暑的なのかな」
 「僕も子供の時に、山の川につれて行かれた思い出があるよ」
 「お母さんお父さんと?」
 「ああ、それに、おじいさんもいたかなぁ」
 「たのしいそうね」
 「あんまり記憶はないけど、わんわん泣いていたような」
 「どうして?」
 「寒くて怖くてかなぁ」
 「子供の頃だものねぇ」
 道の駅に入って、窓際の席に座った。周囲の客を数えると、4組だった。老若男女が一揃いという感じだった。そのうちでも若い手の部類に入るのだろうかと裕樹は思った。
 券売機でチケットを買って、葉子がカップのホットコーヒーをふたつ貰ってきた。BGMは流行りのJ-POPで、聞き慣れた音楽であった。こう言うPOPな音楽を作曲出来るというのはすごいよなと、裕樹は葉子に話しかけた。
 「あのバラードがあるじゃない。それに、この間、作曲してた曲も充分におPOPだと思うよ。うんうん言ってたけど、なんとか出来たじゃない。プロじゃないから出来映えは分からないけど、綺麗な曲だと思ったわ」
 「ありがと、あの曲はね、100%の出来を求めるのを辞めたから、作曲出来た。力を抜いて作ったていうかな。今作っているゲーム音楽は100%で取り組んでいるから、その格差たるもの激しい」裕樹は笑って答えた。
 「耳触りが良ければ、それで良しの時もあると思うよ。哲学的な意味をこめなくても」
 「今回は、12音階の無調音楽もあるからゲームの世界観を歌い上げないとね」
 「無調音楽で歌い上げるって、変な感じ」
 「それが、僕の作る音楽」
 「ずっと続けてね」葉子は、カップコーヒーを持ち上げながら言った。あたしが死んでしまってもと、葉子は心の中で付け足した。
 「そうするよ」裕樹は言葉の裏にある意味を感じることなく答えた。
 コーヒーを飲み終わって、赤いレンタカーに戻った。ここからはワインディングロードだ。眠気覚ましのコーヒーが効いてくるまで、ふたりはテレビドラマの行方だとか、最近読み始めた小説のことや、時事ニュースの話題に時間を潰した。
 
 両脇に緑が続く山を上がっていった。右側は崖で、裕樹は格別に緊張していた。対向車がとすれ違う時など、久し振りの運転であるからと言うこともあって、ハードルは高かった。ただ、交通量が少なかったのが幸いした。冬の三峯神社は人気がないのかも知れないと裕樹は思った。
 車を駐車場へ駐めた。やはり3割程度しか埋まってないと、フロントガラス越しに見やって外へ出た。山々が連なる景色は神々しかった。
 標高1102mの神社だ。寒さは下よりもはるかに厳しく、裕樹はぶ厚いダウンコートの襟元を寄せた。
 「厚い毛糸の帽子を被ってくれば良かった、ぬかった」裕樹は日取りごとのようにつぶやいた。「これほど寒いとは」
 「ごめんね、こんなリクエストしちゃって」
 「葉子は寒くない?」
 「あたしはカイロを幾つか貼り付けているから。いる?」
 「それじゃ、葉子の身体に触る。身体的には寒さをしのげているから、なんとかなるさ」
 「うんうん。なんとかなるって」葉子は小さな笑い声をたてながら、裕樹の腕に自分の腕を絡ませた。
 アスファルトの道を上って、ビジターセンターの横を通り、しばらく行くと鳥居が出てきた。三ッ鳥居と言うんだってと、葉子はリュックの中から取りだしたタブレットの情報をみながら説明した。
 「鳥居が三つ並んだ、これは日本で唯一なのか」
 「凄いね。それにこの狛犬は狼だって」葉子は、一体を指差した。「期待出来そうな神社ね」
 「楽しそうじゃん。さすが、葉子のチョイス」
 三ッ鳥居で一礼をして、三峯山博物館前を横目で通り過ぎる。今の時期はやっていなくて、入場料300円での内容は分からなくて、とても残念に感じた。
 参道の両脇には、所々雪が残っていた。その雪が弱々しい太陽の光を散乱させているのが蠱惑的だった。
 木々の中をくぐって行くと言って良いような参道の続く灯籠を注視していくと、素晴らしい随身門が表れてきた。神社のホームページには載っていないから、たぶん神仏習合の名残なんだろうかとふたりは話しつつ足を進めて行った。すると、ようやく本殿へと出てきた。階段の一番下に築地市場講と書かれていて、ここが講の聖地でもあると言うことを知った。
 人の並んだ階段を上がって、順番に本殿に向き合った。
 投げた100円玉は銀色の軌跡を描いて、賽銭箱の中に収まっていった。ふたりして礼して手を打ち頭を下げた。
 裕樹は、葉子のことと、自身の作曲について願っていた。
 
 「ここのお守りってユニークって、ネットに書いていたよ。裏はオオカミのデザインなんだって」
 「おお、それは見てみたい」
 「記念に買って帰ろ」葉子は、にこやかな表情を作った。
 本殿の並びに、お札を売っている場所があって、ふたりは行ってみた。ポツポツとした人が買い求めていた。巫女さんは、少ない参拝客に手持ち無沙汰のようであった。
 「ほらこれ」葉子は指差して見せた。
 「気って書いてあるんだ。そして、”勇気””元気””やる気”か。10代にこそ、ふさわしいワードだなぁ」
 「今のあなたにも、必要じゃなくて、大胆な音楽を作る勇気、新鮮な作曲する元気、集中して作曲するやる気とか」
 「うまいこと言うな。そう言われるとそんな気もするかな。しかし、集中してと言われると、いつも気を散らしているみたいだな」裕樹は、苦笑しながら言葉を返した。
 「ゴミの日にたくさんの反故を捨てているから、時には1ミリも書けていないことは、知ってるよ」
 「紙の無駄ではないんだよ」
 「生産性が高い作曲家もいるでしょう」
 「いろいろタイプはいるから」
 「あなたは、どのタイプ?」
 「天才ではない」
 「旦那様が天才だったら、苦労しそうかもね」
 「天才にも妻に優しい人は、いくらでもいると思うけど」
 「あなたは、本当に優しいのかしら」ごちてみせて、「ふたつ買っていこう」と、つなげた。
 「本当だ、裏にはオオカミが刺繍してあるんだ」見本品を手に持った裕樹はじっくりと見やった。
 「なんか魔除けみたいな感じ」葉子はまじまじと見てつぶやいた。
 「病気の魔除けになるといい。僕が買うよ」裕樹は、財布を出して、示された金額を巫女さんに渡した。お守りは何色かある色から、別々の色を選んだ。
 
 登山道と交わる帰り道の景色も見事だった。神的領域の中から徐々に抜けてきているという感じがした。
 屋根のかかった奥宮遥拝殿の横に見晴台があり、ちょっと休憩していこうと葉子は、雪を振り払ってベンチに座り、裕樹にも座るように促した。
 「こんな所に座るのかい」払ったとは言え、雪は氷にもなって残っていた。防寒着の下から冷たい感覚が襲ってくる。
 「三峯神社の中より、景色に面してるここは、さらに気温も低そうね」葉子は手袋をつけなおした。
 「日も傾きはじめているから、早めに帰った方がいいかも」
 「うん。でもね、あなたに話しておきたいことがあったから座ったの」
 「話しておきたいこと?」
 「あなたに秘密にしていることがあるの」
 「どんな?」
 「胸の影のこと」
 「来週検査だったよな。その日は何のスケジュールも入れていない。工藤には事情を話してあるから、突然の呼び出しも無いと思う」
 「ありがとう。ううん、でも違うの日程が」
 「リスケするの? その日以外の日はスケジュールが埋まっているけど、気にするななんとかする」
 「じつはね、キャンセルが出たってS医大病院から連絡があったの。今週に日程を早められますよって」
 「ひょっとして、検査を受けに行って来たの?」
 小さく葉子は頷いた、
 「どうして言ってくれなかったんだ」
 「言いたくなかった。怖かったから」
 「いる方が安心じゃないのか? 僕じゃ不安⁉ すぐに感情的になるから?」立て続けに裕樹は言葉を発した。
 「違うわ。知られたくなかったの。自分の身体のことで、迷惑かけたくないと考えたから」
 「迷惑だなんて! そんなのありか! それで、いつ受けてきたの?」
 「一昨日」
 「MRIも内視鏡も?」
 「そう」
 「結果は?」
 沈黙が横たわった。眺望の良い何もない空間は、次に起きる言葉に悲しみを含めていた。
 「ガンの疑いが濃厚だって」一瞬間合いを置いてから、声を絞り出して葉子は答えた。
 「なんだって? どういうこと?」
 「MRIの画像を見せて貰ったけど、気管支の影がはっきりと見えたわ。肥大しているそれが気管支を圧迫していて、血痰の原因だろうと先生はおっしゃった」
 「まじか」
 「あたしは、あなたと一緒に行かなかったことを後悔してる。帰りは、心細くて仕方なかったし」
 「僕の日頃の態度が悪いのか」
 「そうね、そうかも。でもね、本当にガンか、内視鏡検査で取った生体検査の結果待ちだって。何もなければ、単純にお出かけリストを消費していけるわ。笑っていけるわ」
 「次回はいつ行くの?」
 「来週、先生からのお話を聞くだけだから、短時間。木曜日、いっしょにいける? 最初の予定日とは違うけど」
 「ぜんぜん、大丈夫。たとえ工藤が何と言おうが優先する」愛してるって、そういうことだろうか。そして、この事を工藤に仔細までを伝えておこうと思った。
 
 裕樹はハンドルを強く握りしめていた。車の中は、行きにあった明るさが沈鬱なものに取り変わっている。葉子も何もいわなかった。行きに寄った道の駅で、少し休憩を取った。機械的に何を食べるとか、何を飲むとかが会話が山小屋風の建物の中で、冷たい空気の中で交わされた。
 明るく振る舞うべきだとは思ったが、葉子がトイレに立っている間に、スマホで肺がんについて調べて見た。余命はどれぐらいなのかとか、治療についてはどうなのか。いろんな記事があって、判別が付かなかった。本人への治療での肉体的負担は? 投薬や放射線治療で、髪が抜けたりするのじゃなかったっけ。
 それも、諸説が多すぎた。やるせなさが満ちた。
 「おかえり」戻って来た葉子へ、遠目から裕樹は声を掛けた。
 「あなたも行ってくれば」
 「秩父名物のわらじかつ丼を待っているところ。注文したじゃん、その後で行ってくるよ」
 「そうだった」
 「ふたりで一緒のものを食べるのも、リストのうちに入れたら、もっと、きらびやかになるのじゃないか? プラスしてくれよ。食いしんぼの僕のためにさ」
 「そうね。調べて書き足しておくわ。ああ、楽しかった人生であったと、その時に思い返せるように」
 葉子の言葉を聞いて、裕樹は耐えられなくなった。腕を伸ばし、立っている葉子の腰を抱いた。大粒の涙が落ちた。
 「これじゃ、車の運転は出来そうにないね」裕樹は微苦笑を浮かべた。
 「わらじかつ丼を食べて、元気になろう! 明日、あたしは死ぬわけではないし。来週末もお出かけリストを実行して貰うから」
 「お出かけリストはどれぐらいあるんだ?」
 「前にも言ったけど、それは、内緒。でも、生き残っていたら、リストが尽きたとしても、書き足せばいい話だし」
 「いっぱい書き足そう」裕樹の顔はくしゃくしゃだった。
 「たくさん連れていってね」
 「じゃんじゃん、わがまま言って。神様はきっと、見ているから」涙がテーブルに広がった。
 「きっと、神様はいる」葉子の精一杯の言葉だった。
 
 長すぎると感じる平日が過ぎて、木曜日、広大な敷地のS医大病院を訪れ、呼吸器外科の診察室に入って、安物の椅子に座った。先生の名札には、須(す)田(だ)洋(よう)平(へい)とあった。挨拶をしたが、先生は無表情の人だった。
 先生は、顔を合わせてじっと、裕樹の表情を受け止めるように見つめた。
 「旦那さんですね。奥様のことでは、いろいろとたいへんですね」
 なんだその言い回しと裕樹は、目をむいた。
 「結果はどうだったんでしょうか?」葉子は、伏し目がちに須田医師を見つめた。
 「さいわいながら、悪性ではありませんでした」
 「よかった」裕樹の沈鬱だった表情は、みるみる明るいものになった。
 「しかし、良性でもないのです」
 「どういうことですか?」
 「珍しい種類のガンなのですが、カルチノイドというものです」
 「それは、どんな?」
 「簡単に言いますと、ガンよりも悪性度が低い、遅効性のガンです。ホルモン物資を過剰に産生して、様々な内臓に様々な障害を引き起こしていくカルチノイド症候群をとも言います。腸に出来ることが多いのですが、奥様の場合は、気管支にできていて、患部が膨らんで血痰の原因になったと考えられます」
 「血痰の原因は、それだけですか」であれば、なんと幸運なんだろう! 患部をなんとかすればいいのではないかと、裕樹は素人考えで思った。
 「残念ですが、放置すると転移する可能性があり、その点では、よくあるガンと変わりません」
 裕樹と葉子は同様に落胆の表情を浮かべた。
 「ただ、ごく初期の腫瘍です。発見が早くて良かったです」
 「治療方法はあるのですか」強い口調だった。
 「患部をきれいにします。つまり、気管支のカルチノイド部分を切除します。短くなった気管支をレーザーでつなぎ合わせます」
 「直るのですか?」
 「処置後も転移のリスクがゼロというわけではありません。術後5年間は経過を見ていかなくてはなりませんでしょう」
 「手術の成功率は?」
 「95%です。事例が非常に少なくて、私も初めての手術です。最善を尽くします。ご了承頂きたいのは、最悪の場合は、エクモを使うことを承知願いたい」
 「エクモ?」
 「人工心肺装置です。心臓と肺の機能が失われた時に、代わりをする機械です」
 「そんなに重い手術なのですか?」
 「脇の下から20センチほど切開して、手術に邪魔な肋骨を切り取ります。この肋骨は、取り除いたあと、術後には戻します。その処置をして、ようやく肺が剥き出しになるのですが、ここから、気管支へ辿り着いて切除手術を実施します」
 「手術時間は?」
 「8時間ほどになるでしょう」
 「そんなに」葉子は、絶句した。今までに、周囲で聞いてきた手術で、こんなにかかる手術はなかった。
 「種々の日程を決めなくてはなりません。毎週火曜日が、私の執刀日です。1カ月後ぐらいからなら予定できます」須田医師は掌のボールペンで軽く机を小突いた。
 「いつが良いんだろう」日程は、早ければ早いほど良いと、葉子は思った。
 スマホを開いて、スケジュールを眺める。3月末だった。経理としての年度末処理があった。
 だけども、課長は、少々、不満足な顔を浮かべて、有給休暇を認めてくれるだろう。命には替えられないと、真剣な顔で葉子を見つめながら。社風をありがたく思った。
 1カ月後を裕樹に指し示し、確認をする。
 「いつでも良いよ。プロデューサーには、内々に話をしておいたから。今からなら、いくらでもスケジュールは組める」手術に失敗して、死す可能性が5%あるとは、とてもじゃないけど工藤には言えないと裕樹は思った。
 
 お出かけリストは、淡々と消化されていった。葉子は前日から、よりをかけたお弁当を作り、感染症に罹患するリスクを少しでも減らすために公共機関を避けて裕樹は予約したレンタカーを毎週末に出して、さまざまなところへと出かけた。埼玉県内だけでなく群馬、栃木へもと足を伸ばした。
 もう一度、ウェディングドレスを着たいという葉子の望みに、写真館を探し、久喜に良い写真館を見付けた。吉祥寺にある有名なフォトグラファーの息子がやっているとホームページには、書かれていた。
 「すてきですね」「いいですね」「とびっきりの笑顔ですね」と、フォトグラファーは連続で言って、シャッターが何枚も切られていった。
 その写真はアルバムへと仕上がる。裕樹は、5%の悲劇が起きたら、そのアルバムを果たしてみられるんだろうかと、最後に、キスしている写真を下さいと言うフォトグラファーの求めに応じながら思った
 5%だけじゃない。転移のリスクだってある。涙混じりのキスがあった。

 1ヵ月後。
 「3Dプリンターで模した患部で、何度も手術の練習をしましたから」安心させようというのだろうか、執刀前に葉子とふたりいる病室にあらわれた須田医師は、しかし、緊張した面持ちで言った。
 「ありがとうございます。これからなんですね」葉子はかすれた声で、須田医師を見た。
 昨日、話しすぎたと裕樹は感じながら、葉子同様に頭を下げた。
 この医師がゴッドハンドなのかそうではないのか。
 「お別れの台詞は言わないからね」
 こくんと葉子は頷いた。
 「手術エリアの前までは、送れますが、行かれますか?」須田医師はふたりの表情をくみ取った。
 「ええ、もちろんです」それだけが言える言葉だった。
 手術エリアまで、無言で進んでいって、葉子は。ありがとうをつぶやいた。
 裕樹は何度も頷いた。自動ドアが開き、看護師に囲まれた葉子が手術エリアの中に消えていった。
 唐突に、裕樹の頭にマーラーの交響曲8番〟千人の交響曲〟が鳴り響いた。〟われらが肉体の脆き弱さを、絶えることなき力にて強めたまえ。そが光にてわれらが五官を高めたまえ、われらが心に愛をそそぎこみたまえ〟歌詞が何度もリフレインした。
 
 手術を待つ人たちのために控え室が用意されている。
 そのソファーの一角に、裕樹は座っていた。昼食の時間を過ぎても空腹を感じず、壁時計が針を回していくのをただ自覚しながら。周囲の同様に手術を終わる人たちがどんどんと消えていくのは感じながら、8時間を待った。
 まるで正確な時計のように、天井スピーカーが名前を呼んだ。
 ぼうっとしていた感覚を正して、裕樹は小走りにICUに向かった。入り口で看護師が待っていて、防護服を服の上から着るようにと指示された。
 汚れひとつない廊下を歩いて行き、そして、そこには、酸素マスクやチューブがつながった葉子が麻酔で眠っていた。
 「手術は成功しました。完全に除去できました」須田医師は疲労の中に微かに達成感を浮かべていた。
 須田医師に、裕樹はお礼の言葉しか知らないかのように、何度も頭を下げた。
 「2週間ほど入院です。良くなりますよ」と須田医師は告げた。
 裕樹は、深く頷いて、ゴッドハンドなんだと、自分の結論を導いた。
 「もう、春ですね」唐突に、須田医師窓の外を見やった。「桜が咲いていますね。今年も」満開間近の桜を見やった。
 「桜ですか」視線を辿ると、桜があった。「ああ、桜だ」窓ガラスの額縁の一角に広がっていた。
 「来年の春、奥様とも、きっとお花見を楽しめますよ」
 「ならば、どれだけ嬉しいか」
 「保証は出来ませんから、たぶんです。術後にまた検査を受けてもらいますから、その結果で話さなくてはいけないのですがね。いい手術でした。書類をまとめなくてはならないので、では、私はこれで」須田医師は足早に去って行った。
 ああ、桜。葉子と出会ったのは、桜が舞い散るころだった。いま時期よりも少し後の頃だった。
 会った途端に僕は君に恋して、君は夕方に僕に恋をした。ふんわりと舞う君の髪は夕陽に輝いていた。桜が風になびいて、ひとひらが髪に落ちた。
 当時の記憶が鮮烈になった。同時に裕樹の頭に、燃え上がるような美しい旋律とコードが鳴った。
 オーケストラで鳴らすのが一番だ。そっと、手掛けている音楽の中に持ち込んでいこうと思った。
 「ありがとう。君のためだけの音楽を奏でられる」眠っている葉子の耳元へそっとささやいた。その途端に大粒の涙が溢れてきた。
 くしゃくしゃの涙を葉子に向けて、裕樹は、改めて恋をしてると思った。
(了)
  

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