見出し画像

戦犯から英雄へ


スキージャンプを始めたのは
小学校3年生のときだった。
 
中学時代は全国大会で2回優勝
 
高校でもインターハイで優勝した。
 
 
社会人になると日本代表入りするようになった。
 
ここまで順調にキャリアを重ねてきていたが、
日本代表で大きな挫折を味わうことになる。
 
 
彼自身2度目の出場となったオリンピックでの団体戦。
終盤まで日本は2位のドイツを大きく引き離してトップに立っており、
「金メダルは確実」というムードが漂っていた。
  
彼が105m飛べば日本が金メダルを取れるという条件だったが、彼の記録は97.5m
まさかの銀メダルに終わった。
 
彼はこのことでメディアや一般人からバッシングを受け、自宅への嫌がらせが1年以上続いた。
 
 
その後は世界選手権で優勝し復調。
 
 
世界王者として3度目のオリンピックを迎えたが、国内ニュースでは「本番に弱い」と評され、活躍は不安視されていた。
 
そんな中で臨んだ団体戦。
 
この日は視界が遮られるほどの大雪だった。
 
彼の1本目のジャンプは79.5mにとどまった。
 
最悪とも言える悪条件。
技術的には失敗ジャンプではなかったものの、
多くの国民の頭には4年前の悪夢が思い浮かんだ
 
尚、この1本目のジャンプについてチームメイトは、「他の選手だったら、もっと悪い記録が出ていたと思う」とコメントしている。
 
 
そして迎えた運命の2本目。
 
「両足を複雑骨折してもいい」という覚悟で137mの大ジャンプを決めた。
 
尚、この記録は団体戦出場選手のなかで最長不倒だった。
 
日本は金メダルを獲得。
 
直後のインタビューでは、
1本目のジャンプについて聞かれ、
「またみんな迷惑かけてんのかなと思って、辛かった」
と嗚咽しながら答えている。
 
 
4年前は戦犯扱いされていた男が国民的な英雄になった瞬間だった。
 
 
オリンピックには通算5度出場。
現役を引退した現在は、
全日本スキー連盟の常務理事(執筆時)を務めている。
 
 
 

 
彼の名前は、

 
 
 
 
原田雅彦

以上、「戦犯から英雄へ」でした。

※この記事は彼の半生の極一部を抜粋して書いたものです。

【こちらもどうぞ↓↓】
ゼロからの上京物語〜長崎のニートが芸能界へ〜

記事は全て無料です。よろしくお願いします。