三日坊主日記 #3

昨日は他人の恋愛話、今日はどうやら自分の恋愛話らしい。そして激重回なので注意してほしい。

noteに日常を残す時は決まって夜にするつもりだったが、指が止まらない。それがネット依存症であると言われる方がまだマシなのだが、今すぐ何かの形でこれを振り払いたいような、複雑かつ絶望のような気分を味わっている。いくつになるかはわからないが他の話題も含めて残すことにする。


帰りに、私は私の彼女を含めた友人や後輩たちと寄り道して帰った。彼らとは、たまに会っては近況を語ったり雑談に耽ったりしている。今回も例外に漏れず他愛のない話をした。今日、その話題は一貫して同じものではなかったが、共通して「特定の人物の本心、裏」に関していた。私はその中のいくつかの話に面喰らってしまった。
聞くとどうやら、私がかねてより親しくしていた後輩が謙虚さを失い、自分の力を過信し暴走しているらしい。自分の力が大きく評価されたために増長してしまったようだ。


わかっていた。その恐れるべきあってはならない可能性には私自身気づいていたのだ。だがそうなると信じきれなかった。万に一つの最悪のケースだと思っていた。だが、今さらそれを知ったところで私は彼を導くだけの力と機会を持っていないのだ。いや、機会があったとしてもそれだけのことができるのか。
これだけで、70%くらいメンタルを持っていかれた。私が心配性なのがよりダメージを増やした。しかし本当の地獄はそこではなかった。


私には、現在彼女がいる。惚気話だと思うのならいますぐこの記事を閉じてほしい。
付き合いはじめてからもう一年以上たつ。そのくらいになると、喧嘩も些細ないざこざも減り「安定期」と言われる期間に入る。山越え谷越え、心を痛めるような経験はかなり味わった。そして彼女は、私を励ましてくれる、心を支えてくれる存在であった。


そんな彼女がその後輩の、いや、後輩に限らず話題に上がった人物の性格と本質(性質というべきか)について語りだした。
世間には「○○さんは○○な人」という人の性格と本質について語る機会が多い。洞察力の高い人間は特定の人物の行動と言動からその原理を読み解こうとし、自分の感じたその人の本質を探り、次々に述べるのだ。彼女はどうやら洞察力が高いらしい。彼女もまたそれらについて語ったのだった。

彼女の語りは、鋭く強くかつ合理的であり、納得させられるようなものだった。

私はそこにとてつもない恐怖と焦燥を感じた。付き合った当初、彼女はそんな芸当ができるとは思えないような性格だった。彼女は私と同じ、「世間の右も左も分からない子供」だったはずだ。不器用でサポートが無ければなにをしてしまうか分からない人間、だったはずなのだ。そこに私は惹かれたところが大きかった。シンパシーというものだろう。

ところが彼女はいま、左右が分かり世渡りをなんなくこなす「勝手を掴んだ大人」なのである。彼女は世を渡る人間として多大な成長を遂げた。これが成長なのかは分からないが成長であるならば身勝手ではあるが私はより一層深い絶望を感じることになる。

なぜ、そんなに人の「裏」を的確に突けるのか。これは常々昔から私が他人に対して感じてきたものだった。考察された裏をそのまま存在するものと仮定したとき、確かに疑いようのなくその人を説明できてしまうのだ。感覚的にこの疑問を感じ取るうちに、学業を積んで語彙が増えていくにつれそれを言語化できるようになった。いや、してしまったのだ。


私は、人の善し悪しがわからない。


早い話が人をみる目がないのである。自分の目で見える物理的なものしか信じきれない所に原因があるのだろう。だが、なぜ彼らはあらゆる事象が存在するこの世の中からどうしてたった一つを射抜けるのだろう。そしてどうしてそれを惜しげもなく、恥ずかしげもなく説明できてしまうのだろう。事実、周りもそれに共感、賛同しているのだ。

この感覚を言語化した途端、霧が晴れて視界が開けたと同時に自分の立っている場所がとても不安定で両足をくっつけて立つのがギリギリであるように見えた。すぐにでも落ちてしまいそうな不安がそこにはあった。精一杯飛んでも私の届かない場所にいる彼女の足場は、とても広く、頑丈にみえる。あの頃、霧の見えない中、隣同士身を寄せて立っていると思っていたはずなのに。なんなら、私が先導して先を探っていたと思っていたはずなのに。同じ境遇に同じ立場に立っていることに私は安心感、幸福感を抱いていたのかもしれない。これは最早いまでは、独占欲なのだろうか。


彼女の見解は、いつの間にか理を備え付け鋭利化していた。一年前ならあんなことは言わなかった。私も彼女も、理なんて持ち合わせていなかった。代わりに、人を癒す慈悲が彼女にはあった。それとは見劣りしてしまうが、それに似たような許容は私も持っている。少し表現すべき部分を削ぎ落としてしまうが、「優しさ」という言葉に変えられるだろう。私が強い共感を彼女に感じ、彼女に惹かれたのはこの深い優しさだった。


今日の彼女の思考と言動には、あの頃の優しさが見えなかった。まるで別人かのような、人が変わってしまったような、そんな感じだった。

ものすごく怖かった。あんなことを平気で見抜く、発言できるような人間だと思っていなかった。思いたくなかった。


何度でもいう。私は愚かな人間だ。身勝手な話をしよう。
彼女は、強くなっていた。私は置いてかれてしまった。以前私は彼女を力の限り支えていた。だがもう彼女は私の支えは要らない。現実でもLINEでも相談を受けることももうしばらくない。日常的に相談しあってお互いを支えていたあの日々もない。なにか私が彼女にとっての答えを見つけるためにアドバイスする前に彼女はもう答えを知っている。逆に私が彼女に支えてもらおうとすれば、私は聞きたくのない、慈悲のない真実の答えを突きつけられてしまうのだ。もしかしたら、私は同じことをしていたのかもしれない。しかしそこを考えてもどうしようもない。

彼女は私に助けを求める素振りすらもみせなくなった。どこか冷たい身振りをする。スキンシップもしなくなったし人目のない場所で手すら繋ぐことも減った。そして、彼女からの愛情表現も気づけば少なくなっていた。

もうこれは激重感情といっていいだろう。世間一般で言われるところの、「面倒くさい男」にあたるような気がする。しかし面倒くさくなりたくてなったわけではないのだ。私が人生で背負ってきた鉛を降ろしてくれる(当然私も彼女の荷を降ろす。)存在そのものが、また新たな鉛になってしまったのかもしれない。

面倒くさいことは考えるな、いちいち考えるな、そういう助言をする人はいる。しかし思考の停止は私にとっては呪いなのだ。その呪いは私をずっと苦しめ続けてきた。ネガティブなことを考えるななんて言うが、ネガティブに考えなければならない要因を作ってきたのは誰なんだ。暗くなるな、は私にとってこの世で一番無責任な発言のである。一方で、明るくあることが恩恵をもたらすことを私は絶対的に支持する。明るい方が人生楽しいのだ。私はポジティブにもネガティブにもなってきたがポジティブのとき無敵感はとてつもない。全てが上手くいくような心地がする。
そしてここまでさんざん内心を長文に渡って打ち明けたが、私はいま実生活においてポジティブだ。身のまわりのものは上手くいってる。交友関係も良好だ。
ただ、いまみてはならないものをみてしまった。そこに悲嘆している。という状況だろう。

なぜだろうか、なにも解決していないのにこうして思いを書き連ねていくうちにいま私の心は穏やかになってきた。荒波は過ぎ去った。生きている心地が体全身を波紋のように伝わる。

だが、私の彼女に対して感じるざわめきだけはまた飛び出す機会を伺うかのように底を漂っている。

私は善に悪にもなりきれない。
きょうはもう寝よう。


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