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イーロンさんの冒険(5)

民間ロケット会社の作り方

イーロンはロスのLAX空港の南にある1310 East Grand Avenue, El SegundoをSpaceXの本拠地として選ぶ。元倉庫の殺風景なビルではあるが、荷物の移動には都合が良い。とりあえずみんなでDell製コンピューターやデスクを持ち込み、イーロンも一緒になってオフィス環境を整える。ノリはあくまでシリコンバレー・スタートアップである。また、現在にも至るSpaceXオフィスの特徴の一つは、トップレベルのロケット設計者、アイビーリーグの学位をもつコンピューターサイエンスティスト、そして通常はブルーカラーとみなされる様々な技師が、同じ空間で一緒に働いていることである。これは伝統的な航空宇宙企業ではあり得なかったことで、業界のしきたりを破り続けるという、SpaceXのコアDNAとも言える矜持が、この時点ですでに形になっていたのだ。

「会社のカルチャーこそが一番大事である」
ザッポス社創業者トニー・シェイ

さて、そもそも民間のロケット会社なんて本当にできるのか?そしてなぜその時に必要だったのか?当時はそう疑問を持つほうが普通であった。SpaceX当初のコンセプトは「ロケット業界のサウスウエスト航空になる」であった。つまり、従来とは違った小型化・低コスト化したロケットを何回も打ち上げ、プロジェクトを回転させることで利益を高頻度であげていくモデルである。ちょうど業界では数年前から小国、研究調査機関、民間企業による小型衛星の打ち上げのニーズが増えるだろうと言われていたのだが、まさにそこを狙おうとした。とにかくこの業界は50年間変わっていなかったのだ。彼らの言葉を借りれば、毎回フェラーリ級の豪華仕様一点物を作っていたのを、要求仕様を下げ、用途を変え、ホンダのアコードのような物でより広く「民主化」してもいいんじゃないかという理屈だ。この低コスト化を実現するためにいくつかのアイディアもあった。例えばロケットを水平状態から垂直に変形可能でかつ移動可能な発射台を用いれば場所の自由度が増し、打ち上げコストは下げる。またロケット本体の低コスト化も以下のアプローチが可能であると考えた:
・近年の材料とマイクロプロセッサーなどの進化・低コスト化を最大限利用
・政府系プロジェクトにありがちな多重請負構造の無駄を省く
・シリコンバレースタイルでリーンな設計・試験のサイクルを作る

これにより、従来の常識だと250kgの重量の荷物(ペイロード)を打ち上げるのに$30 million(30億円以上)かかっていたのを、SpaceXでは635kgを$6.9 million(7億円以上)で可能にできると予測していた。重さ単位で実に11倍のコスト効率である。こんな事が可能ならば革命的な出来事だ。

ちなみに最初のロケットの名前はファルコン1とイーロン自らが名付けた。スター・ウォーズに登場するミレニアム・ファルコンから取ったというのは有名な話。いやー、やはり格好いい。

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話を戻そう。イーロンのスケジュールの立て方は尋常ではない。会社設立の一年後の5月には最初のロケットエンジンが完成。二台目は7月に完成。8月にはロケットの組み立てを開始するというクレイジーなスケジュールを本気でやれると考えていた。彼の頭の中では自分も含めて全ての人間が物理的に働ける時間マックスで進めるという前提なのだ。シリコンバレーでソフトウェア製品の開発ならそういうことができる場合も確かにあるが、いくらなんでも全く新しいロケットを作るのにこれは無謀すぎる。(そして実際最終的には最初の打ち上げまで4年間かかる結果となる。)実は関係者の一部はこのスケジュールが無理であることは薄々と分かっていた人々もいたが、それ以上に何十年間と何の動きもなかったこの業界に、「早い・安い」のアプローチを持ち込もうとしているプレーヤーがようやく出てきたことにエキサイトする人々のほうが多かったのだ。

 元米国空軍将軍で、その後国防省のコンサルタントとなったPete Worden氏によると、例えば特定の地域の紛争に適した用途特化型の小型衛星を設計し、ロケットで素早く打ち上げ、ソフトウェアの変更により対応するような事が可能になると世界が全く変わる。Worden氏は語る「実現不可能な夢物語を語る輩は仕事上結構会うが、マスクは違っていた。彼は物凄く詳細なレベルまでロケットのことを理解していて、その上でビジョナリーでもあったという印象だったよ。」その他にも製薬会社や科学のための実験をしたい民間の需要もあり、もしSpaceXがこのビジョンを実現できるのならば、宇宙事業は従来とは違った世界になるはずである。しかし、繰り返しになるがそんな事がゼロスタートで民間の会社に本当に可能なのか?

1957年〜1966年の間だけでも米国ではロケットの打ち上げが400件以上あり、そのうち100は失敗していた。ロケットは失敗が普通の世界なのだ。そして一回の失敗の金額的なダメージは大きい。しかし逆に見るとSpace Xはすでに何千億円も費やされたこれらの失敗を経た業界の知見を利用することができ、またボーイングやTRWなどの大手でロケット開発を実際に行ってきたスターエンジニア達がチームにいたのである。できない理由はないとイーロンは考えていた。と、同時にSpaceXの予算ではどう考えてもFalcon 1を打ち上げられるチャンスは3,4回程度である。エンジン開発の総責任者で、イーロンの懐刀とも言えるミューラー氏は言う。「TRWで開発していたときには巨大なチームと政府からの予算があったんだ。それを、より低コストのロケットを全くの新規で少人数で、かつこの程度の予算で作るなんて、皆にクレイジーだと思われていたよ、」

いずれにせよ、イーロンは$100 millionの個人資産を投じ、SpaceXは少なくとも数年間はこのエンジニア達が動ける資金があったのだ。前に進むことに疑いはなかった。しかしそんな時にイーロンの家庭での悲劇が生じる。産まれて10週間の最初の息子であるNevadaが亡くなったのである。

(その6に続く予定)

その0
その1
その2
その3
その4

参考文献
Ashlee Vance著:Elon Musk







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