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【紅の豚_考察】生の世界・死の世界・ジーナの存在【雑記】

こんにちは、けんけんです。
金曜ロードショーで「紅の豚」やってましたね。「かっこいいってこういうことだ。」私も大好きな映画で、セリフまで覚えているくらいです。

いつもはマーケティングについて書いている私ですが、今日は私なりの「紅の豚」論を書いてみようと思います。息抜きにお読みください。

■作品を象徴するのは1つのジーナのセリフ

一般的に紅の豚の名台詞、といえば「飛ばねえ豚はただの豚だ」だと思いますが、私はそれ以上に象徴的なセリフがあると思っています。それは「飛ばねえ豚はただの豚だ」の前にジーナが発する以下のセリフです。

「あんたたち飛行機乗りは、女を桟橋の金具ぐらいにしか思ってないんでしょう」

このセリフに込められたこの物語の構造を解説します。


■ポルコロッソはどんな人(豚)?

このセリフを解説する前に、紅の豚ポルコロッソことマルコパゴット大尉はどういう経歴の持ち主なのかをおさらいします。

17歳のころから飛行機を乗り回し、イタリア空軍の大尉でエース・パイロットとして活躍していた。退役した現在は、全体を艶やかに赤塗りした飛行艇サボイアS.21試作戦闘飛行艇に乗って空中海賊を相手にする賞金稼ぎとして生きている。豚の姿に身をやつしている理由は作中では明らかにされないが、戦争で友を失った悲しみや国家への幻滅が示唆されている。
<wikipediaより一部抜粋>

空軍のエースパイロットとして華々しい活躍をしていたポルコは、戦争によって友を失い、そしてさらに戦争を続けようとする国家に失望し、地位と国家を捨ててアドリア海の空で、賞金稼ぎとして生活しています。自らの意思でエースパイロットの地位を捨て、国家から追われるような立場になったわけです。

■ポルコにとっての「海と空の世界」と「陸の世界」

地位や名誉や国家での生活を捨てて、海と空の生活を選んだポルコ。そんな過去を持つポルコにとって、それぞれの生活はどのようなものだったのでしょうか?ポルコにとっての「過去の生活」は「生としがらみの世界」であり「今の生活」とは「死と自由の世界」であると思います。言い換えれば、

ポルコにとっては陸の世界は生としがらみの世界であり、
海の世界は死と自由の世界であると言えます。

ポルコは海の世界で多くの友を失いました。ジーナの元夫であるベルリーニもなくなった友の一人です。また、ただ一人だけ生き残ったことを「そうして独りで飛んでいろと神様に言われたような気がしたよ」とももらしています。

そんな死の世界で、ポルコはマンマユート団をはじめとする空賊たちと日々交戦しているわけです。(作中の描写はマイルドですが、命の奪い合いをしていることには変わりありません)

■ポルコにとってのジーナの存在

そんなポルコや空賊たちが唯一同じテーブルにつき、安息を得られる場所。それがジーナが経営する「ホテルアドリアーノ」です。普段は命の奪い合いをしている空賊たちとポルコが、同じ料理を食べ、同じ酒をのみ、同じ音楽を聞く場所です。

いわば、「死の世界で暮らす彼らが、唯一生の世界の繋がっていられる場所」と言えるでしょう。その店の象徴であるジーナはポルコを唯一、生の世界と繋ぎ止めている存在なのです。


ここで、思い出してください。ジーナのセリフを。

「あんたたち飛行機乗りは、
女の桟橋の金具ぐらいにしか思っていないんでしょう」

まさにジーナは「陸の世界と海の世界」「生の世界と死の世界」を繋ぐ、ポルコにとってはかけがえのない懸け橋なのです。


■まとめ

いかがだったでしょうか?紅の豚には「昼と夜」「自由としがらみ」「死と生」「赤と青(豚の飛行艇とカーチスの飛行艇)」など多くの二項対立の構造がでてきており、一本の見事なストーリーが織り成されている名作です。

この構造を理解すると、最後にポルコがジーナに頼む、
「フィオをカタギの世界に戻してやってくれ」というセリフに込められた寂しさと別れがより深く感じられますよね。


今日は以上!やっぱり映画っていいですねえ。

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