ゼビウス-03

シューティングゲームと強制スクロール

 プレイステーション4で『グラディウス』を久しぶりに遊んで、シューティングゲームについて思うところがあったので、ちょっと書いてみます。

 しばらく前からあれこれ直したり書き足したりしているうちに収拾がつかなくなりまして、結局まとめることをあきらめて考えをすべてダラダラと羅列しました。

(ヘッダー画像は『グラディウス』のフライヤーを持っていなかったので、代わりに『ゼビウス』を置いてみました)

強制スクロールシューティングの特異性

 『グラディウス』をプレイして改めて思ったのが、強制(オート)スクロールって本当に独特な遊びだなあということ。

 「カメラのフレーム内=動ける範囲」で、それが勝手に移動していく。たとえるなら、移動する箱のなかに自分だけが閉じ込められて、そこで戦い続けるゲーム。ギミックや敵がドンドン過ぎ去っていくなか、それらを待ったなしで処理していく遊び。

 この手のゲームは過去に散々遊んできたし、自分でつくってもきたのに、今さらこんなことを書くのは変だとも思うのだけど、じつに不思議な感覚だった。SF的な言い方をすると、センス・オブ・ワンダーを体感したとでもいおうか。

 何なんだろう、この独特のルールで成り立った奇妙な世界は?

強制スクロールが日本に定着した経緯

 『グラディウス』から時代をさらにさかのぼって、少し考えてみたい。たぶん、歴史的には「シューティングゲーム(以下STG)」+「スクロール機能」で必然的にスクロールSTGというジャンルが生まれたのだけど、当時はマニュアルスクロールだと制約が大きかったりゲーム性の担保が難しかったりで、自然と強制スクロールが増えていったのではないだろうか(※注1)。

(※注1)今回、スクロールSTGの定義として、単に演出として背景が流れているだけのゲームは含まないものとした(『ギャラクシアン』等)。地上ターゲットの類いも含め、敵の動きがスクロールの影響を受けたり、地形ヒット(障害物)があるなどの、遊びに絡むスクロール相対のオブジェクトが存在するものを指している。
 当時の強制スクロール型STGの代表的な例としては、『ゼビウス』『グラディウス』『R・タイプ』『究極タイガー』『ダライアス』などがあり、マニュアルスクロールSTGには、『ボスコニアン』『ディフェンダー』『ファンタジーゾーン』『メタルソルジャーアイザックII』『ラストミッション』などがある。

 マニュアルスクロールSTGはその性質上、操作と画面(視界)の動きをどう連動させるかの仕様だったり、クリア条件などゲームルールの決めごとも増え、煩雑になる面があるし、自由度が高いため、うまくつくらないと遊びとして間延びもする。

 何よりスクロールと射撃が多方向に広がるほど、「狙い撃つ(エイミング)」「敵弾をかわす」という基本的なアクションの難易度が高くなっていく。とくに全方向型のSTGの場合、当時はツインスティックが一般的ではなかったので、操作系との親和性がよくなかったということもあったと思う。

 黎明期にも名作・佳作はあったのだけど、手間の割に成功率が低くて労力に見合わないのか、強制スクロールほどは広がっていかなかった。

 また、強制スクロールゲームは、否応なしに場面が進んでいくので、無意味なプレイ時間の引き延ばしがしにくく、つくり手にとって——とくにアーケードにおいては——「プレイ時間何分のところでどれぐらい難易度を上げる」みたいな計算がしやすい、ということもあったのかもしれない。

 ただ、これについては、マニュアルスクロールでも制限時間を持たせるという解決方法も実際にあったわけだけど、そちらの方がバランスチューニングは難しい。自由に動ける分、人それぞれプレイの振り幅は巧まずして大きくなるため、適切な時間の予測は困難になるので。

 あと、強制スクロールSTGの持つ「与えられた課題を順序も考えながら効率的にこなしていく」というゲーム性が、日本人の好みに合っていたのかもしれない(それはプレイに創意工夫が不要という意味ではない。むしろ逆だろう)。

 逆に海外、とくに欧米では古今、強制スクロールSTGが日本ほど流行ることはなかったという印象がある。これについては後述したい。

シューティングの難しさ≒強制スクロールの難しさ?

 SNSをながめていると、「STGはなぜ主流から外れていったのか?」という議論って定期的に出ていて、そこで挙がる意見はだいたい興味深く、また納得できるものが多いのだけど、自分も説を一つ挙げると“強制スクロール”にも大きな原因があるのではないだろうか。

 STGの難しさって、弾避けだったり、一発死にのシビアさももちろんあると思うのだけど、それらと同じぐらい、もしかしたらそれら以上に、強制スクロールという遊びによるところが大きい。

 反射神経と器用なコントローラ(レバー)さばきが必要な上、視界を含めて刻一刻と状況が変化する複雑な“パズル”を、限られた時間のなかでこなしていく高度な遊び。

 多彩な敵やギミックが混在して、記憶すべきことも多く、とんでもなく複合的なのにゲームが一切止まらない。この“止まらない”というのが大きい。もちろん、この高度さゆえにゲームファンからは高評価を受けてきたという面もあるわけだけど。

 ぼくらの世代が強制スクロール型のSTGにハマってきた理由を考えてみると、そこにあるのは「時間との戦い」というアクションゲームの本質そのもののおもしろさなのだと思う。

 限られた時間をいかにうまく管理して、効率的に攻略していくかというおもしろさ。逆にいうと、本質的でおもしろいけどシビアで難しい。

 これに比べると、たとえば『スーパーマリオブラザーズ』のようなアクションはマニュアルスクロールなので、プレイヤーに立ち止まって考える時間がたっぷりあって、しかも構成として目の前の一つのギミックに逐次対処するのが基本なので、ずっとわかりやすい。実力に応じた遊び方がしやすいといってもよい。

 STGの弾避けが難しいのであれば、もっとギミックやパズル性のおもしろさに比重を置いた遊びにシフトすればよいし、一発アウトが辛ければライフ性にすればよい。実際、そうしたゲームはたくさんあったけれど、STGが主流で居続けられるだけの原動力にはならなかった。

 もちろん、同じ強制スクロールでも、ゲームによって複雑さの差はある。例として挙げた『グラディウス』はとくに高難度の遊びであって、ほかのもう少しシンプルな横シューや、地形ヒットのない『雷電』『首領蜂』型STGなどであれば、強制スクロールのプレッシャーはずいぶん小さくなる。

 でも、やはりゲーム側で制御されたタイミングで次々と敵やアイテム類が出てくるわけで、プレイヤーはそこから逃げたり自分で戦いのタイミングを選ぶことはほぼできない(選択の幅は小さい)。その点で、ニアリーイコールではないだろうか。

 また、『雷電』『首領蜂』系ゲームの特徴に、空中物と地上物という異なる二つの座標系を持つ敵の混合でゲームを構成しているというのがあって、これも強制スクロールSTGの特異性を形成する大きな要素になっている。

 その意味で、そこから地上物の概念を排した『ゴシックは魔法乙女』などは、日本のSTGが持つ特異性をかなり弱めたプリミティブな遊びに原点回帰しているといえるのかもしれない。

縦シュー・横シューではない強制スクロールゲーム

 今でもアーケードなどでよく見るガンシューティングものも、考え方としては強制スクロールみたいなものだけど、あれは相当遊びやすく単純化されており、『タイムクライシス』のような少しひねった例もあるけれど、縦シューや横シューとはほぼ別物だ。

 また、前述の『スーパーマリオブラザーズ』の話にちょっともどると、あのシリーズにときおり挟まれる強制スクロールステージの独特の圧迫感は強烈だなといつも思う。

 足場のあるゲームで強制スクロールってホントにどうつくってもシビアで、たまにあるからおもしろいのだけど、もしもマリオが全面あの仕組みで進んだら、ストレスが大きくて長く遊ぶのは辛いだろうと思う。

 スマホの『スーパーマリオラン』は、強制スクロールではないのだけど、マリオが常に走り続けているという遊びで、少しそれに近い。

 でも、つくり手がノンストップ型ゲームのシビアさをとてもよくわかっていて、小さな敵は触れてもミスにならずそのまま踏み越えられるとか、残機制の発展形であるバブルのリトライシステムとか、難易度以前のミス関連のシステムそのものから仕組みをいじっている。ここまでやって、やっとちょうどよい感じで遊べるゲームになっている。

 強制スクロールのアクションだと、昔『ワンダーボーイIII モンスターレアー』というゲームがあったけれど、あれも難しかった。ぼくは好きだったけど、強制スクロール+ジャンプアクション+シューティングという組み合わせで、ワンダーボーイ・シリーズでは一番遊ぶのが大変だったんじゃないかな。

 同じく『チェルノブ』なんてゲームもあったが、あれもじつに癖のある愛すべきとんがりゲームだった。

 余談になるが、『チェルノブ』や『スクランブル』のような、画面のスクロール速度とプレイヤーキャラクターの移動速度が等しいゲームは、強制スクロールゲームのなかでもとくに独特のプレイ感覚が発生する。

 これらのゲームでは、バック移動しようとしたときにプレイヤーキャラクターが‘’世界に対して静止‘’する。それに気づいたとき、自分は何て不思議な物理世界で戦っているのだろうということを再認識させられる。

 そういうことも含めて「強制スクロールという縛りの中でプレイヤーに何かをさせる」というのは、かなり高度なリテラシーが求められる仕組みなのだと思う。

海外では強制スクロールシューティングが普及しなかった?

 海外に目を向けた話になるけれど、たとえば『メトロイド』や『悪魔城ドラキュラ』のようなジャンルが、いまだに海外で“Metroidvania(メトロイドヴァニア)”と呼ばれ愛され続けているのに対し、日本であれほど熱烈なファンを生み出してきた強制スクロールSTGは、国外では昔も今もそれほどメジャーなジャンルではない。これもとても興味深い。

 現代の海外でも強制スクロール的なゲームはもちろんあるのだけれど、ウケたものを見ると、たとえばスマホ等で出ている『Flappy bird』『Subway Surfers』『Geometry Dash』『RollingSky』『 Chameleon Run』等のように、すごくシンプルな遊びが目につく(どれもSTGではない)。

 Steamなどでインディ系を探していると、海外でもオマージュ的に東亜プラン系STGのクローンっぽいゲームをつくる開発者もいるし、横方向の強制スクロールSTGもたしかに見つけることはできるので、強制スクロールSTGが完全に日本でしか好まれない、ということではないと思うのだが、少なくともあまりメジャーではない。

 最近、ブラジルの開発チームがつくった強制横スクロールSTG『Squadron 51』(開発中)が少し話題になったが、これにしても珍しい例なのではないか。

 思うに『Battlefield』や『Call of Duty』などに代表される、海外で人気のジャンルであるFPSは、ある意味立派なマニュアルスクロールSTGだし、また、STGではないけれど無双シリーズのような近接格闘的な1人用の遊びは今でも需要があり、これもマニュアルスクロールだ。

 ぼくが不勉強で知識が偏っている面もあると思うけれど、今でも海外でリリースされるいろいろなSTGを遊んでいると、その多くは『Robotron2084』の系譜である『Geometry Wars』シリーズや『Assault Android Cactus』『Nex Machina』等だったり、『Defender』の系譜ともいえる『Resogun』のようなマニュアルスクロールだったり、もしくは『ギャラガ』シリーズやインベーダークローン系のような固定画面だったり。とくに欧米では伝統的にそうした系譜が好まれている印象がある。

 これはあくまで想像にすぎないけれど、欧米(世界中?)の人から見ると、強制スクロールSTGは少し窮屈な印象を受けるような気がする(それは、ぼく自身も思ったということなのだけど)。時間的にも空間的にも展開が厳密に制御されていて、その定められたレールの流れに完璧に乗らないといけない。

 そのレール上ではいろいろな工夫ができるのだけど、“シューティング”という呼び名から受ける豪快なイメージとは裏腹に、かなり繊細で、つくり手の“さじ加減”を的確に読み取ることが求められる遊びという色彩が強い。つくり手のルール世界に、受け手がどれだけ寄り添える遊びかといってもよい。

 もちろん、そういう要素はどんなゲームにもあるのだけど、とくに強制スクロールSTGの場合は、ここまでに書いてきたような独特の物理とルールがゲームのメインシステムを形成しているということが一点。

 そして、二点目として、激しく時間に追われるなかで、多くの課題への同時対処が求められ、そのプレイの最終形は寸分たがわぬパターンづくりへと帰結することが多い。そうしたことの複合が、一種独特の繊細さを生み出してきた気がする。

日本のシューティング黄金時代は、果たして歴史の必然だったのか?

 たぶん、昔の感覚だとSTGは遊び手にとってかなり自由度があって工夫し甲斐のあるゲームジャンルだったと思うのだけど、現代の感覚だと、場だけ提供されてそのなかで自由に遊ぶ、いわゆるサンドボックス系のゲームとは正反対に近い(それがよくないとか、おもしろくないということではなくて)。

 ぼく自身、先日久々に『グラディウス』をプレイしたとき、「スクロールに押されるプレッシャーってこんなに大きかったっけ!?」「画面が狭くて、すべてがあっという間に過ぎ去ってしまう!!」と感じてビックリした。

 もちろん、それは攻略パターンを忘れていて対処が追い付かない、つまりゲームが下手だから受ける印象なわけだけど、昔はいろんなSTGを遊んでいてそんなことを(たとえ下手でも)思ったこともなかったので、軽い衝撃があった。

 最終的には何とか攻略法を思い出して最終ボス直前までは行けたのだけど、やっぱり近い印象は残った(1周できませんでした……)。長年の間にいろんなゲームを遊び、強制スクロールSTGへの感じ方が相対的に変化したのだと思う。この辺はかなり個人的な感覚かもしれないけれど。

 少々極端な仮説ではあるが、ビデオゲームの歴史がほんの少し違う方向にズレていたら、強制スクロールSTGというジャンルは、日本においてもこんなに多くのフォロワーを生み出すことのない、より傍流の遊びであった可能性もあったのではないか。

 雑なifだとは思うけれど、地形ヒットのある強制横スクロールの『スクランブル』、地上ターゲットのある強制縦スクロールの『ゼビウス』、この2つの大ヒット作がなかったら、日本のSTGの歴史は相当違うものになっていたかもしれない。近いアイデアの似たゲームがほかに出ていたとしても、それだけでフォロワーがわんさと生まれることはない(※注2)。

(※注2)『スクランブル』と『ゼビウス』以前にも、これらと似たシステムのゲームは発売されている。自分の知っている(思い出せる)範囲で挙げると、『スクランブル』については、『シークレットベース』(1978年/セガ)が、やはりサイドビューで敵基地を爆撃する遊びで少し似ている。『ゼビウス』については、トップビューの地上/空中撃ち分け型STGとして『ミッションX』(1982年/データイースト)が有名だ。

 もしも『スクランブル』が生まれていなかったら、その後のコナミのSTG史はどう変遷しただろう。『グラディウス』は生まれず、『ジュノファースト』の系統が進化したかもしれない。その世界線のアイレムは『R・TYPE』に行き着いていただろうか。

 もしも『シャイアン』(『ゼビウス』の試作バージョン)を遠藤雅伸氏が引き継がなかったら、『スターフォース』や『ツインビー』は生まれていただろうか。そして、地上/空中の撃ち分けを廃した画期的なゲーム『スターフォース』が存在しなかったら、東亜プランは現代弾幕STGの原点となる数々の名作を生み出すことができただろうか。

 ぼくらはとても不思議な巡り合わせの力で、日本のシューティング黄金時代を体験できたのかもしれない。

 海外のゲームに話をもどすと、前述のとおり、『Geometry Dash』(※注3)などのように海外にも強制スクロールのヒット作はあるのだけれど、日本の強制スクロールSTGほど複雑な対応が求められるゲームはなかなかないのでは? 少なくとも自分はあまり思い浮かばない。

(※注3)『Geometry Dash』と『Geometry Wars』という、似た名前のゲームが何度も出てきて、ややこしくてすみません。それぞれまったく別の人気ゲームです。前者はプラットフォームゲーム、後者は全方向ショット型シューティングゲームです。

 もう一点思うのは、欧米の開発者のプログラムの組み方はずっとPC文化が基本ということもあって、昔からフレーム単位の処理にこだわっておらず、描画がまったく追いついてなくても自由度の高い広い世界を模索してきたという歴史が一方にある。

 他方、カリカリにチューニングした1/60秒に近い速度を至上としてきた日本のプログラムの組み方に対し、描画エリアが完全に制御できる強制スクロールはとてもマッチしていた、ということもあるのかもしれない。

 まあ、これは日本の開発者が強制スクロールSTGが好きだということの説明にはなっても、プレイヤーが好きということの説明にはなっていないのだけど。

今、シューティングゲームのポジションには何が収まっているのだろう?

 先ほど少しFPSなどの話に触れたけれど、今、高度な遊びでしかもノンストップで進むゲームのポジションに収まっているのは、対戦系のゲームなのかもしれない(格闘でもFPSでも何でも)。

 ちょっとおかしな比較かもしれないけれど、最終的に求められるスキルレベルがそれなりに高く、下手でも何でも“待ってもらえない”、という点では、強制スクロールSTGとよく似ている。 実際、アーケードにおいて当時のSTGプレイヤーの多くが対戦格闘にシフトした歴史的経緯は今さらな指摘なわけだし。

 また、たとえばRTSやタワーディフェンスゲームの類い。目新しい指摘ではないだろうけど、これらもSTGの後継的ポジションに収まっているといえるのかもしれない。やはり比較的ゲーム慣れした人たちに好まれるジャンルだ。そして、仕組みとしてはノンストップ型であり、シューティング要素の強いゲームが多いことも指摘できる(遊びとしては全然違うものだけれど)。

 でも、どれもノンストップ型ではあっても、強制スクロール型ではない。

エピローグに代えて

 ——本当にとりとめのない文章になってしまいました。視点がズレていたり、思い違いもあるかもしれませんし、飛躍があるのもご容赦ください。より適切な指摘・分析のできる方がいらっしゃったら、ご意見をお聞きしてみたいです。

 途中でも書いたとおり、強制スクロールはアクションゲームの魅力が凝縮された一つの形であり、今でも精力的にSTGをつくられているかただったり、プレイヤーとして情熱を燃やしているかたはたくさんいらっしゃるわけで、そういう流れを否定する意図は一切ありません。自分自身、拙いながらSTGをつくってきた人間ですし。

 思いとしては一つで、こんな話からでも、何か新しいゲームづくりのためのヒントや発見があったらよいなということだけです。 了


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