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田中康雄さん(児童精神科医)インタビュー前編・4

アンビバレントな感情の行く末


杉本:そこで連想でお尋ねしたいんですけど、アンビバレントな感じっていろんな形があって、いま起きている現象って、「出たいけど、出れない」とか、「出なければいけないけど、外出できない」とか。例えば依存症などもそうですね。「やめなければいけないと頭では分かっているけれど、やってしまう」。覚せい剤とかをやってしまう、やめられないとか。それは昔からあるんだけれど、ひきこもりにしてもどうしたらいいのかわかるけど、やっぱり身体がそれに乗れない。それはやっぱり「包摂されないに決まっている」という感覚じゃないかと思うんですよね。自分がどこへ行っても、自分の精神でやっていける世の中とはとても思えないというか、いろんなおとなの理屈は飛び交っているけど、その理屈で言ったら、あなた自身が本当にそう思っているの?みたいなね。自分がその姿を見せられるか。僕は全く自信ないし、それこそ「語り」で言うと、政治状況を見るととってもそれを守っているとは思えないことをやっている。そういう現実が起きているので、頑張って外に出たら、それ相応に外的に報われて、内面的には自分がやっていることに対して主体性が感じられるような自己一致感。自と他の一致感をつかめるか?といえば、それはやはりあきらめざるを得ない時代に入ってしまったと思っているのですが、どうでしょう?

田中:うん。そうですね。社会的にたぶんいま、本当にあきらめムードが大きいとも思うんですよね。いわゆる政治に対する不信感とか、社会に対する不公平感とか、不満は沢山あって、まあそれはSNSで流す程度であって、大きなうねりとなって世界を転覆させるとか、動きとなるエネルギーまで持ってこれるだけのひとりひとりの気持ちにはなっていない。これは今回のコロナ以前から安倍政権になったおかげでさまざまな不備な点というものがあからさまになったとき、その収拾の仕方が非常に幼稚な収拾の仕方になってきて、「裸の王様」のときに真実を言えたのは大人じゃなくて子どもであったのと同じように、一番ピュアな子どものほうが今のこの日本社会に対する不信というより、「絶望」というか、「見切り」をし始めているんじゃないかという気がしちゃうんですね。そこで見切った人が大きなうねりになって転覆するというのではなくて、それが矮小化してひとりひとりの世界に没頭していく。個人主義化しているので、そこでまた結局私ひとりだけ良ければいいね、みたいになって。いま『集まれ、動物の森』の売れ行きが非常に好調というのはそこにとどまることで、「誰かが何とかしてくれるんでしょ」みたいなところへ今なっちゃっているのが弱点かなという気がしますね。でも、じゃあ俺が立ち上がったところで何ができるんだ?と言われたならば、「そうだよね、何が出来るんだろうね」という風になってしまう。この袋小路感というのは大きいんじゃないでしょうかね。

杉本:ですので、先生が言われる意味での、大きな父親の決断と責任。それに伴う「責任を取る」という意志のもとに動くというのは、確かに場合によると日本に限らず、アメリカなんかも見ていると確かにそうで、幼児が大統領をやっている状態ですよね。

田中:はい。

杉本:とても幼稚な外交的なふるまいもするし、それを止められない周辺と、支持する熱狂的な国民、みたいなことが起きている。父親の役割は確かに時には権力的である。昔の保守的なリーダーは「保守の権化だ」と言われるのは、分かっていたと思うんですよ。何かを切り捨てて、何かをその人の世界観の中での絶対数を取るために少数派を切り捨てる、というのは。自分の責任においてやるんだと。ちょっと古いかもしれないけど、そのためには命を引き換えにしても構わないくらいの気持ち。まあ言ってしまえばボス猿ですよね。要するに自分たちのテリトリーを守るための行動として「ボス猿をやる」と決めるような。そこが全部ハリボテの人に、「殿、どうぞ」と、ちょっと能力のないお殿様がロボットのような口調でモノを喋っているみたいな感じに日本はなってますけど。場合によっては女性リーダーのほうが自分の言葉で喋っているからより良いように聞こえる。それは単によどみがないだけで。そういう倒錯した、まあかつてを知る人から見ると倒錯だし、現代にとってみるとどうなのかな。それが新しい社会の構築のされかたになるのかな?という風にもひっくり返していくとそうやって社会を女性が引っ張るようにもなるし、みたいな風にも語れるかもしれないけれども。人間の歴史から行くと、そういう発想は長いトレンドから見てそうなるのか、そういう発想自体が「短兵急」なのか。
 そこでちょっと話が飛躍して申し訳ないと思うんですけど、「外に出るのが怖い」というちょっと日本文化の中で起きている若い人の現象みたいな。草食化とか、いろいろ言われますけど。かつてを「取り戻す」べきなのか(苦笑)。安倍さんももしかしたら空想上はそういうかつてのボスをとり戻すみたいなことをしたかったのかもしれないけど、まあご本人が到底そういうキャラクターではないから。そのスローガン自体がむなしく響くわけですが。

田中:そうですね。僕は垂直の究極は「支配」だと思っているので。

杉本:はい。

田中:それが突き進むと国が衰退するときに現れる救世主待望論みたいなところに出てきて、それは歴史的にもナポレオンがそうだったし、ヒットラーがそうだったので、彼らのようなある意味見境のないほどの支配力と統制力とカリスマ性を持って一致団結するというのは、ある意味で宗教的なパワーだと思うのですが。

杉本:そうですね。

田中:それが国を興すときには必要な時期もあるけれども、それが多大なるデメリットを生むというのは歴史が証明していると思うんですよ。ただ、これは国というものを守るときの一時期は本当にそれくらいの発想を持たないと。その歴史の過程ではそういう人が登場してくる必要もあるでしょう。田中角栄が持っていたのは日本を改造するという、到底できもしない発想ですけれども、それくらいの大きな視点で動かないと、支配できないと思うんですね。
 ヒットラーのように、とんでもない発想を持って汚点を残すんだけれども、ナポレオンもそうですね。ムダな行進をして沢山の命を落とす。でもそれもひっくるめての強大な支配力じゃないと一時期歴史が動かないというのがきっとあるのだろうと思うんです。ただそれはあの時代であって、田中角栄までがギリギリで。その先、我々は情報を手に入れることができたわけです。世界中で起きている情報が手に入った時に、取捨選択ができて、比べることができたので、われわれ民衆はバカじゃないという風になってきましたから。いまここで誰かが何かを言っても、安倍さんが何か強行的なことを言っても、それが正論として鵜呑みできない、という賢さを僕たちは情報として持っている。それでも,まだまだ問題は沢山あると思います。ここではこれ以上,政治的なことにはふれませんが,僕は新型コロナウィルスが創り出す恐怖心に対してNHKの番組で*ハラリさんが、「不確かな情報に惑わされず」に「コロナウイルスに対する人間の最大の強みは、ウイルスと違い協力できることです。ですから、パンデミックへの現実的な対抗策は隔絶ではなく、協力と情報共有」だと語ったことは、まさに正鵠だと思っています。


垂直な関係の難しさ


杉本:さきほどの水平性と垂直性の話とつなげていくと、やはり水平性って民主主義と親和性が高いと思うんですよね。

田中:そうですね。

杉本:で、明らかにいま民主国家のヨーロッパにコロナが飛び火して、ロックアウト、都市封鎖ということをやっちゃいましたよね。アメリカもやりはじめたし、これは僕が知る、物心が付いてから生まれて初めてのことで、成人してから初めて民主主義の国家の中で起きたある意味で危機的な強権発動ですよね。だから先走る人はこのまま行ったらある種の独裁になる、と。

田中:うん、うん。

杉本:それを許しかねないんじゃないかと。僕はそう思いませんが、ただ生物的な危機を前にして、正体も分からないウイルスを相手にしたとき、やはり各リーダーの判断でグラデーションはあるけれど、スパッと「封鎖だ」という判断をした。移動の自由を奪い、お金も封鎖している間は渡すから経済活動はともかく、「家から出るな。ひきこもれ」と(笑)。ひきこもり人間が、初めて普通に日常仕事していた人たちのひきこもっている状況を見ているわけですが。端的に「家から出るんじゃない」とやっているわけですね。これは水平性というものが、いったん水平性だけが正しいとは言い切れない状況もあるのだと。だから垂直なリーダーシップで、まあ戦争の比喩さえ使って。やはり人間として集団社会で生きているとこういう局面もあるんだなと。これは民主的に話し合いで決まったリーダーがもう時間もないし、だからそのことで怒って首相を糾弾して、解散しろと叫ぶ人間もない。解散したらえらいことになってしまう。

田中:そうですね。

杉本:僕は何を聞きたかったのかな(笑)。別に誰かが悪意を持ってやってるわけではないんだけれども、「ああ~話し合いだけではすまない社会が現出するときって、この自然の中に生きている人間の中にはあるんだ」って思ったところでしょうか。僕もやはり相当ビビってますからね。

田中:そうですね。

杉本:本当に理性と感情のバランスをとって、かつ意志。意志が強くないとなかなか「言い切る」って現代においては難しいですよね。いまはいろんなツッコミどころが拡散していくし、SNSなどだと文脈の一部だけをとってきて、「こんなムチャクチャなことを言ってる」とか。でも、かつての世代の人たちって(もちろん政治家はそこで叩かれたりするんですが)、ざっくばらんすぎる乱暴な言いかたを父親的なリーダーとして許されていた気がします。しかしいま、喋ることもすごく気を使わなくてはいけなくなっている気がします。デリカシーがすごく必要であって、それはすごくいいんですけど、逆に先の危険を予知してモノを言うようなことはなかなか出来ない。そんなことを言ってしまったら「暴論だ」と言われかねないことを察知して、叩かれるから言わないとか、そういう風にだんだん世代的にはなってきている気がします。その意味では、上の世代のほうが世間耐性のない、もっとすっきりと自分の考えや思っていることをズバズバ言えていたかもしれません。ですが、残念ながらそれは特殊な局面では大事なことかもしれないと、歳を取って思うようになってきたかもしれないです。特に今は医療などはそのためいろんなことを考えなくちゃいけない局面じゃないですか?まず最悪の予想を立てて動かなくちゃいけないので、いろんなルーティーンで済んでたことがすまなくなってくる。ですから、先取りしてやれる人は動き出すだろうし、出来ない人もいるだろうと。同じ医療者でもいるかなと思ったりしますけど。

.リーダーシップを抱えるときの重さ


杉本:本当の意味のリーダーシップというのはおそらく結果が見える世界においても通用することでしょうけど。いちばんの日常世界である家族生活みたいな、お互いのやり取りをしていく中ではどうかな?と大きな話とくっつけつつ、どうなのかな?と。そっちの話に引き戻したい(苦笑)。
 僕はリーダーとして一番すごいなと思ったのは、*中村哲さんのような人だったんですよね。おごらず、たかぶらずなんだけど、現場においては「こうしなくてはいけない」という自分の判断で、責任を取るときは全部取って、責任を背負いながら先に事を進めていくことにためらわない。アフガニスタンの哲学はすごく父権社会だと思うけれどもそれはそれで、そういう文化、カルチャーがあるんだということで認める。
 ビン・ラディンみたいな人間も客人である以上は迎えなくてはいけないという文化であることを解らなくてはいけない、みたいなことをちゃんと仰っていてね。これはなかなか怖いことだと思うんです。普通の人に伝える中では。とうぜん中には「とんでもない、そんなテロリストを迎えるカルチャーじゃ駄目だろう」と言われかねないようなことでも、いや、そういう文化なんだ、客人文化なんだと言う。すごい人だと思いましたけれども。ああいう人たちが、昔はけっこういたかもしれないですね。

田中:そうですね。今聞いて思ったのは、リーダーシップなり、実行するときにその大きさをどこまで自分が抱えられるかなんだろうなという風に思って、あまりにも大きなものを背負うときというのは、背負いきれないものもあるんだろうなあという風に思いつつ、う~ん。だから準備が必要なのかなあという風には思っていて、何かこう、枝葉を切り捨てるほどドカンと決断して「こうします」という人が登場しないのは、確かに今の時代は枝葉にされてしまった人だって主体性を持ってコメントを出せる時代になってきてるので、多様性と平等性の中で覚悟を持って国を背負った発言を責任を持って行うというのはかなりの勇気と、ある意味での孤独に耐える力がないとできないだろうなあという風に思ってます。
その強さとはどうなんだろうと思って。でも少しミニマムな部分で言うと、中村さんがある意味異邦人の孤独に耐えながらでも、そこで必要なものごとを行える決断をされてきた。これは勇気ある行動、意思だと思います。最初からそういうようなことをしようと思って彼はしている人ではなくて、そこから逃げようがなくなってきてせざるを得なくて。そうするとどんどん、どんどん広がってきて、やらざるを得なくなるという意味ではやはり中村さんは「医師」なんですよね。
 中井久夫さんなんかも何かの本に書いていたけれども、医師は、ともかく呼ばれれば出なくてはいけない。行ったらどうなるかは分からないみたいなことでも、呼び鈴がなったら馬車に乗らなくちゃならないという風な言いかたをしていて。たぶん目の前の対人サービスに奔走する医師の役割感と、大局の部分での考えかたは仕分けして考えなくちゃならないと思うんだけど、それでも目の前のことからじわじわ広がってきて、やらざるを得ないことがどんどん増えてくるので、中村さんのように医療なのか、地域づくりなのか、福祉なのか、いわゆるコミュニティ作りになっていくのか分からないけれども。でもきっと基盤は医療というベースの中で“人が健康に生きるとはどういうことか”みたいなことですよね。
 そこでは今、この国が目に見えないウイルスと闘っているときにウイルスだけコントロールしていくというのは、じゃあワクチンはどうだとかという話になるのだけれども、その間の経済的部分とか、人の気持ちのコントロールをどういう風にやっていくのか?あるいは教育の不備、不足をどうカバーして行ったらいいかという、手に余るような事態になってきている中で、一番我々が苦手としている異職種が自分の立場を死守しながら手を携えて連携していくというか、仲間を作って行く。その部分を組織していくのは,やはり弱いのだろうなと。これがある程度水平的になればいいのだけれども、いまはちょっと垂直的になっちゃっている。新型コロナに関しても、結局いわゆる政権主導の各部署の発想になって来ているので、結局ボトムから持ち上げて良い話を持ってきても、トップダウンで垂直の中で淘汰されてしまう。もう少しそこで水平の関係になってきて、ある程度それぞれのスペシャリストが言っている内容に対してそれを懐深く聞いたうえで、「じゃあそれで行こう」という風になれるのが本当のリーダーシップなのだろうと思います。いわゆる、わからない部分について相手をどこまで信じられるか。そのスペシャリストが厚労省ならばそういう人だったら君に任せたという風に言うのか、文科省が言うならOKだと言うのか。それを信用しないで、「封鎖します」とか、「休ませます」となると、リーダーシップとしては「現場の声を聞いてない」ということで最低の対応となる。結果、俺たちは何を言ったところで無理じゃないかというあきらめムードになってしまう。士気を高めつつその人の問題意識を持たせていくためには、水平の位置に垂直の人が降りてくるか、逆に人を引き上げていかない限り、水平にはならないだろうとは思ったんですけどね。

杉本:やはり水平な世界をどう構築するのか?というのは同じように大切だということなんでしょうね。

田中:うん。でもやはり難しく、同時に寂しいんですよね(笑)。いま、いろいろ聞いていて思ったのは。リーダーシップとはすごく孤高なので。

杉本:ああ。でしょうね。

田中:ええ。孤独だろうなと。だからどんなに力がある人も,よく「軍団」を作ってしまう。この名称も男性社会で日本的ですが(笑)。でもそういうのはやはり寂しさに耐えきれなくて徒党を組むのだろうなあと。その徒党を組んだときに多様性の水平を作れればいいんだけれども、いわゆる選別し、意に反した人たちを切っていくということになると、ただ肥大した垂直関係だけが残るので、水平にならない。だから一番上に居たい人の話を聞けるかどうかになっちゃうんでしょうね(笑)

杉本:専門家も何というのですかね。この人はすごく誠実じゃないかと見える人から、何かこう、普通の人たちのことを考えてはいるのだけれどもやはりちょっと組織的な動きの中で動かなくちゃいけないから、何かモヤモヤしたものの言いかたをする人もいて(笑)。きっと良い人なんだろうけど、置かれている立場上何かもやもやしてしまっているなあみたいな人もいる感じで…。
 そうなると、やはり意志力みたいなものが強くないとキツイのかなあ、と。学力とか能力だけではこういう危機的な状況になると難しい所があるのかもと思いつつ。で、やはりヨーロッパのリーダーの人たちってけっこう強いというか。また、それを許す土壌なんだろうなというか。逆にあまりにもダメだと潰す、という。「刃」がいともあっさりと民衆から突き付けられるというところがあるのかもしれませんけど。

田中:ああ~。そうですね。

杉本:両方、分かってるのかなあ、みたいな。民主主義的な、「大衆が怖いぞ」ということも分かってるし、同時に危機だ、というときには「俺の鶴の一声でやるんだ」ということに対してそんなに「寂しい、友だちが欲しい」とか、思わないのかなあとか(苦笑)。

田中:ふふふ(笑)

杉本:何かそんなね。文化論にしてしまってはいけないかもしれませんが。でもフランスのマクロンなんかね。若い人が暴動起こしたら途端に自分の政策変えちゃったりするという、ある意味敗北宣言みたいなことやれちゃうところもありますしね。何か一回こだわっちゃったら忖度させてでも行政の人間でもなんでも全部ごまかしに走らせてでも、「殿守れ」みたいなことはあまりやってないような気がしますね。

田中:そうですね。

杉本:批判にさらされても。まあそれはドイツの首相もそうでしょうが。

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*ハラリーユヴァル・ノア・ハラリ (1976年 - )。イスラエルの歴史学者。ヘブライ大学歴史学部の終身雇用教授。世界的ベストセラー『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』、『ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来』の著者。著書では自由意志、意識、知能について検証している。新型コロナ拡大期には、NHKの特別番組でオンラインインタビュー出演などをしている。

*中村哲ー中村 哲(なかむら てつ、1946年9月15日 - 2019年12月4日)は、日本の医師(脳神経内科)。福岡県福岡市出身の脳神経内科を専門とする医師である。ペシャワール会の現地代表やピース・ジャパン・メディカル・サービスの総院長として、パキスタンやアフガニスタンで医療活動に従事してきた。アフガニスタンでは高く評価されており、同国から国家勲章や議会下院表彰などが授与されており、さらに同国の名誉市民権が贈られている[8]。日本からも旭日双光章などが授与されている。また、母校である九州大学では、高等研究院にて特別主幹教授に就任した。2019年、アフガニスタンのナンガルハル州ジャラーラーバードにて、武装勢力に銃撃され死去した。死去に伴い、旭日小綬章や内閣総理大臣感謝状などが授与された。(Wikipediaより)

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