森元斎さん(長崎大学大学院准教授) 『国道3号線』インタビュー・2

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            西南の役に宿る豊饒さ      

杉本 そうですね。だから地図を反転するような感覚でこの本を読むといいのかな、という気がしたんですよ。どうしても僕ら中央思考というか、僕も北の人間で、北海道ですから東京というものを中心に見てしまうんですけど、何回か読み直してみると、地図を反対にして国道3号線であれば、南九州から門司の方まで概観するのがいいと思ったんですよね。そこで、まずは鹿児島なんですけど。一番最初に、なぜ南九州なのかというのを先の形で捉えた上で、まあ西南戦争ですね。日本近代の黎明期、最初で最後の内戦ということでいいかなと思うんですけど。ここらへんをざっくりと、西郷、それから*宮崎八郎とか、そのような人物の考え方を伺えればと思います。中央政府で、西郷さんはいわば陸軍大将だし、維新の立役者なわけですけれども。なぜ郷里に帰っちゃったか、という。いずれにしてもその時には西郷に付いていった人たちもたくさん居たわけだし、その辺はいろんな思惑もあれば、例えば新しい考え方を宮崎八郎という人は持っていたでしょうし、それは中央の政府にとって見るとなかなか容赦ならぬみたいな感じの対立点がピークに達しちゃったんだろうと思うんですけれども。


 西郷に関してははっきり言って、全然わかんないんです(笑)。


杉本 なんか、多くの人は「分からない」って言いますよね(笑)。


 正直言えばあまり興味もありません。西南戦争そのものは興味があるんですけれども(笑)。西郷そのものには興味がなくてですね。もちろん書く上では一応、読解は試みたのですが、難しくてわかりませんでした。何を言いたいのか全然わかんなくて。


杉本 西郷語録みたいなものも、ということですか?


 そうです。おそらく陽明学を前提として文章を書いているんでしょうけど、僕は全然東洋哲学には明るくありません。専門外だし、それを前提にした上でちゃんと西郷という人を読解してあげたほうがおそらく良いと思うんですね。社会情勢とかいろんな周りの機運とかで西郷が立ち上がったというのはもちろんあるでしょうけども、じゃあ実際何で「遺韓論」とか「征韓論」とか、その時、西郷自身が死ぬ気で韓国に行こうとしたのかは、これはよく分かりません。


杉本 やはり多くの人が分からないという感じですよね。それぞれの思惑の中で語られている印象。


 もちろんざっくり教科書的に、「近代と反近代」みたいな形で腑分けはできるとは思います。もちろんそれだけでは収まらない形で何か彼の思惑はあったのではないかと思われるけれども、その辺はちょっと、未だに、宿題です。それよりも、やはり僕はこの本で一番意識したのは二項対立じゃなくて、それらから漏れ出てくるものについてなのです。例えば近代明治政府と、反近代西郷という戦いの中にも、実は宮崎八郎みたいな人がいたということが重要です。宮崎八郎自身はやっぱり反近代も近代もぶち壊したかったのではないか。彼は西郷軍と共に戦いながら、一旦は明治政府を倒し、そのあとに西郷と主義の戦争をしようと考えた。ある種の「二段階革命論」を唱えていました。これってすごい面白い。しかもそのかん、「山鹿コミューン」というおそらく東アジア最初の自治民主地域政府を立ち上げに尽力していました。実際は2ヶ月くらいしか続かないわけですけども、パリ・コミューンにしてもそんなものだったことを考えればそれに比類すべきものが日本の、九州の、熊本の、山鹿で実現したのはすごいと思います。こういうことはちゃんと取り上げて、シェアしたかったというのはあります。


杉本 そのコミューンなんですが、宮崎八郎という人は、中江兆民の本でルソーを学んだりとか。西洋の最新の学問も取り入れつつの人なので、いわばインテリと言っていいでしょうか?あの時代の中では。


 あっ、そうです。反官の家庭に生まれていつつも、武士の家系。当時の白川県(現在の熊本県)の奨学金を得て、東京へ遊学しに行っていたようです。


杉本 ああそうですね。東京にも行かれてるんですもんね。それでそのコミューンなんですけれども、学んで東京から帰ってから何か私塾を開くんでしたか?


 私学校のうちの一つとして植木学校というものを作りました。


杉本 植木学校。そこで山鹿というところでコミューンを作るというのは、そこに住んでいる人たちを「動かして」という形になるんでしょうか。それとも全体的にそういう機運がちゃんとあったと?上からの民主主義みたいなものではなく、下からの総意で同意できる形のものだったと捉えてよろしいのでしょうか?

               日本的なコミューンの燭光

 そうですね。一応その地域の総代(戸長)というのが基本的には元々その地域にいた庄屋のおっさんとかが担っていましたが、基本的には県の要請に従う人たちだったり、天下りしてきた人だったり、要は、地域住民の意向などほとんど聞くことがないような人が代表として選出されていました。それではせっかく近代がやって来たにもかかわらず、ある種の封建制度が維持されたままではないか。それに対する反抗もあったし、今までの状態というのが決して良かったわけでもないわけです。だったらちゃんと自分たちで勉強してしっかり運営できる人に任せたほうがいいだろうということで、野満長太郎という人を皆で総代に選出し、県の意向とは異なる仕方で、自治空間を創出しました。


杉本 なるほど。


 インテリ層だけではなくて、むしろ農民たちが立ち上がっていってこうしたことが実現したわけですが、明治維新以前もそれは歴史に埋もれちゃっているかもしれないけれど、数々のいろんな研究をみると面白くて、いっぱいあったわけですね。そういう元々の機運もあっただろうし、ルソーのことも勉強して、「何だこれ?ウチらと一緒なんじゃないか」みたいな仕方でだんだんだん、良い意味でエスタブリッシュされていったんじゃないか。ここに関しては完全に予想になってしまうかもしれませんし、もう少し掘りさげたかった反省もあります。


杉本 なるほどね。で、そのあと「熊本共同隊」というものを作って西南戦争に参加されて、宮崎八郎は殉死されるということですね。


 そうです。

              水俣の闘いから生まれた表現者たち

杉本 わかりました、ありがとうございます。これは一つひとつが深い内容になりますので、ここで少し北上して、熊本県の水俣に飛びますが。まあチッソの話ですよね。有機水銀を垂れ流すことによって、水俣病というものが不知火海、そこの漁民の人たちを中心にして、当時は奇病と言われた水俣病に罹患したり、胎児性の水俣病患者のような人が現れて、それを起点として様々な、何というんでしょう?表現者が現れたというか。やっぱり一般には石牟礼道子さんなどがすごく有名ですけど。正直言って『苦界浄土』もまだ途中までしか読んでないんですよ(苦笑)。むしろ僕は緒方正人さんという人の、『常世の舟を漕ぎて』という本を読んで、これはすごいなあって思ったんです。この緒方さんへの聞き書き書は、石牟礼さんのような巫女さんのような語り口ではなくて、いわば近代人として普通に生きていた人だけれども、自分の中で、ご本人は「狂った」という表現をされてますけれど、ものすごい大転換を経る経験をされた。そういう意味では、この本は本当にすごい。緒方正人さんという人はすごい人だなぁと思ったのですが。

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 他にも、原田正純さんのような*「胎児性水俣病」を発見されたと言っていいのでしょう。そのような医師の方とか、原田さんはのちに三池炭鉱の炭鉱爆発があった後の*「一酸化炭素中毒症」においても活躍される人だと思うのですが。こちらの方で何か見解があれば。


 そうですね。水俣病という契機に際していろんな側面からいろんなことを言える人たちが出てきたというのは、これはすごいなあと思います。もちろん医学的・疫学的レベルでは原田正純さんの言説というのはすごいし、しかもその中でも闘争があるわけですね。御用学者がいたりとか。同じ熊本大学の中でも。


杉本 ああ。

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 「水俣病、どうでもいいや」という人もいれば、原田さんのように熊本大学の中でも神経系の病気に対して立ち向かっていく人もいて、なおかつ原田さんに関しては認定申請をサポートする側で診察をして行ったという意味では無茶苦茶すごい人。その意志は今でもいろんなところで受け継がれているわけですよね。同時にまた石牟礼さんももちろんすごい。石牟礼さんそのもののの書きっぷりというのは誰も真似ができない。それこそまさに巫女さん的というか(笑)。何かがとり憑くわけでもないでしょうが、本人が巫子さんになってしまう。


杉本 まあ資質なんでしょうね、おそらく。詩人的というか。


 言葉の使い方も独特ですし、本を読んでいてもだいたい話がずれていくし、「この人、変な人だなあ」と思います(笑)。ズレの美学というか。緒方さんに関しては地元でずっと自然と対峙していた。原田さん以上に、あるいは石牟礼さん以上に。


杉本 ええ。水俣病当事者である漁師さんですよね。


 そうして生きてきた。海の波を読んで生きていく。そういう人です。そしてその自分の恋人みたいな海が荒らされて、ああいうことになってしまったということに対しては、猛烈な怒りとかが彼の中ではマグマのように沸騰し、でもその考えが、ポーンと突き抜けて、自分だってチッソじゃないかと。「私はチッソである」というふうに考えることができるじゃないかと言うふうに突き抜けていくわけですね。生きるレベルの言葉の扱い方というのにも非常に長けていて、象徴的に「毒を押し返す」ということで、「常世の舟」という木舟を作って、それでチッソにさかのぼる。他の人についても、書けませんでしたが、もちろん*ユージン・スミスさんみたいな人がいたり、*土本典昭さんみたいな映像作家がいたり、他にも語り部となってきた*杉本栄子さん、有象無象の活動家の姿があって、やはり人が集まると、語弊があるかもしれないけれど、こんなに面白いというか、こんなにも創造的な活動が生まれてくるのはひたすら驚いています。水俣なんて九州の田舎だと言われるような場所かもしれません。だけれども、こういうことが実現していったというのはすごく衝撃を受けましたね。


杉本 企業論理が、現代では考え難いくらい高度成長を支えていると、もしくは高度成長へと進む段階といったらいいのかな?それを自分たちは支えている側だという論理。問題が現前する前からすでにチッソでは有機水銀を流していて、有毒性を知っていてもなお止めずに流し続けてたのは、多少の犠牲が出ても日本の高度成長のためにはやむなし、ぐらいに最初は思っていたのかな?と思われる感じもするので。そのような考えに対する怒りとかは石牟礼さんも本でそこかしこに書いてあると思いますけど。やはり普通の漁民の人とか、例えば原田良純さんの本を読むと認定患者の最初のかたは満ち潮になると自分の家の窓から魚が取れるぐらいのところに住んでた人でそれが一番最初の患者であったみたいなことも伝えているわけで。あえて倫理がどうのこうの言わなくても、どう考えてもメチャクチャに非対称的的なことが起きていることを考えると、それに対する憤りとして闘う人間って出てきますよね。ここまで非対照的で企業論理が貫徹してると。


 そうですね。あと、他に石牟礼さんが書いている西南の役に関してなどでも、水俣のじいちゃんばあちゃんに聞き取りをしていて、すごく印象的な言葉が冒頭にあります。西南戦争があったときに、「天皇家なんか知らんしね」みたいな話。会ったことも見たこともないわけです。あとは西南戦争を喜んでいる農民の話とかがあります。上が闘って潰しあってくれるから、俺たちの税金取るような人たちがいなくなってくれるけん、やったね!といった発言もあります。普通に税金払え、ということばかりやらされていて、それ嫌だったから、それがなくなるなら、嬉しいことこの上ないという民衆の真理がかいま見えるのが面白い(笑)。


杉本 (笑)まさに。


 ヤなことする人が消えてくれるんだったら、それで嬉しい。


杉本 お互いに潰し合いをやってくれたらありがたいという(笑)。

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*宮﨑八郎ー嘉永4(1851)年、宮崎政賢の二男として、現在の荒尾市で生まれた。文治元(1864)年、元服して父・政賢と共に長州征伐に出陣。熊本の時習館(じしゅうかん)に学び、明治新政府の専制政治への怒りと日本の将来への危機を感じ、自由民権をかかげて活動を開始。そのころ、中江兆民の『民約論』に感銘し、明治8(1875)年、自由民権思想をかかげた植木学校を設立したが、教育内容の過激さゆえ、県によって半年で閉校させられた。その後、民権党の同志たちと熊本協同隊を結成し、西郷軍に加わるが、実際には西郷と思想が一致していた訳ではなく、一端は西郷に天下を取らせ、その後西郷と戦うつもりだと述べたと言われる。明治10(1877)年4月6日八代にて27歳で官軍と戦い、戦死。彼の自由と平等を愛する精神は他の滔天ほか、三兄弟たちに引き継がれた。(宮崎兄弟資料館HPより、編集)
*「胎児性水俣病」ー水俣病は有機水銀(おもにメチル水銀)で汚染された魚介類を摂取したことで発症する中毒症状であるが、母親が妊娠中に摂取した有機水銀が胎盤を経由して胎児に移行。結果、母胎内で有機水銀に侵された場合を胎児性水俣病と呼ぶ。妊娠中や出産時には異常は観察されないが、成長に従って精神や運動の発達が遅れ、気づくことが多い。重症の場合は、幼くして死亡したり寝たきりの重度心身障害児となったりする。おもな症状として、首がすわらない、歩行困難、けいれん、よだれを流すなどがある。臨床的には脳性小児まひと診断される。当時は胎盤は毒物を通さないと信じられていたところ、熊本大学医師の原田良純氏などによって、水俣病のメチル水銀のような有機毒物は胎盤を通すことを立証した。(イミダスを中心に、原田良純の論文冒頭を加え編集)
*「一酸化炭素中毒症」ー一酸化炭素を吸入したことによって何らかの症状を起こした状態を指す。一酸化炭素は、血中で酸素を運搬するヘモグロビンと非常に強く結合するので、酸素がヘモグロビンと結合できなくなり、身体の臓器に酸素が行きわたらなくなる。一酸化炭素の濃度が高いほど、またさらされた時間が長いほど重症となる傾向にあり、重度であれば痙攣(けいれん)や意識障害、また一酸化炭素中毒で特徴的なのは、現れた症状が一旦改善しても数週間後に意欲の低下や認知機能障害、歩行障害などが現れる点にある。このように遅れて症状が現れるものを間歇(かんけつ)型一酸化炭素中毒と呼び、死亡を免れても遅れて精神神経障害の後遺症を残す場合がある。1963年11月9日に起きた三池炭鉱事故では、約1400人が坑内におり、458人が死亡、839人が一酸化炭素(CO)中毒となった。CO中毒患者らが提訴した「三池CO訴訟」では、会社の過失を認めて損害賠償を命じる判決が、1998年に最高裁で確定している。
*ユージン・スミスー(1918-1978)。ドキュメンタリー写真家。グラフ雑誌『ライフ』を中心に「カントリー・ドクター」、「スペインの村」、「助産師モード」、「慈悲の人」など数多くの優れたフォト・エッセイを発表し、フォト・ジャーナリズムの歴史に多大な功績を残した。 とりわけ日本とのかかわりが深く、17歳のときニューヨークで偶然出会った日系写真家の作品につよい感銘をうけ、写真の道を志すきっかけとなった。太平洋戦争に従軍して、戦争の悲惨で冷酷な現実をカメラで世に伝えんとして自らも沖縄戦で重傷を負う。戦後日本経済復興の象徴ともいえる巨大企業を取材した「日立」、その経済復興の過程で生じた公害汚染に苦しむ「水俣」の漁民たちによりそった取材が有名。本年2020年には、ジョニー・デップ主演の映画『MINAMATA』が公開され、ユージンスミスの水俣での日々や果たした役割に再び光が当たる予定。
*土本典昭ー日本を代表する記録映画監督のひとり。社会的な弱者に目を向けた多くのドキュメンタリー映画を発表した。水俣病問題をライフワークとしてあわせて17本の映画を制作した。1965年、30分テレビ番組の水俣病特集の為に訪れた水俣病患者多発地区の水俣市湯堂で患者家族から言われた「なして(フィルムに)撮るか」「撮ったって少しも体が良くならんばい、この子は。人を見せ物にして」という言葉が「茫然自失」となるほど深く突き刺ささる。その言葉は今まで「撮り逃げ」していたのではないかと自問し、魂の入った作品を制作することを決意させることとなる。その後、本格的に水俣に入り、家を借り現地の人々と生活を共にしながら撮影を行い、1971年「水俣 - 患者さんとその世界」を発表した。
*杉本栄子ー1939(昭和14)年、水俣市茂道の網元の一人娘として生まれ、3歳の頃から父・進さんに漁業を教え込まれ、最年少の網元になった。1959年、母・トシさんが「マンガン病」と報道されてから約15年、周囲からいじめを受け続けたが、網子として唯一残った雄さんと結婚、5人の男の子を授かった。
69年、水俣病第一次訴訟原告団に加わったが、70年頃からは自らも発症、夫婦ともども入退院を繰り返し、74年に水俣病患者として認定された。その後も3年間の入院生活を余儀なくされたりした。
95年には水俣市立水俣病資料館で語り部として語り継ぐとともに、地元小学校などに「ファイア節」の指導に当たったり、胎児性患者・障害者の共同作業所「ほっとはうす」を運営する「さかえの杜」の理事長を務め、幅広い活動を展開した。「のさり(賜物)」や「もやい直し」などの水俣弁を駆使した語り口は多くの人たちに感動を与えた。時として、自らも感極まることもままあった。2008年、68歳で死亡。(WaPPAホームページより)

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