杉本賢治
慶應大学助教 木下衆先生インタビュー 認知症ー介護者と要介護者の関係捉え直しに向けて(後編)
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慶應大学助教 木下衆先生インタビュー 認知症ー介護者と要介護者の関係捉え直しに向けて(後編)

杉本賢治

前編からの続き

介護者の認識の変化

杉本 今までの一連の話を受けて、少し恥ずかしいですが、自分の話をしてもいいですか?

木下 はい、もちろん。

杉本 私も母が要介護認定を受けた年あたりから思ったことなんですけど、私、いろんな意味でひきこもったりした結果、キチンと社会人と言えることはやっておらず、バイトしかしないで来た中で情緒的に受け止めてくれたのが母親だったんですよね。で、80くらいまである意味母親を心の支えにさえしていたんじゃないかと(苦笑)、恥ずかしながら思うような次第で。流石にこれはまずいかもしれないと思った頃から、本人も徐々に力が落ちてきたんですけれども。介護認定受けてから、今までできていたコミュニケーションの連続性の中に非連続的なものが徐々に増えていくわけですよね。
 こちらは今までの母親像で接していたし、もっと言えば「接したい」という欲望がある訳です。それに対して母親が応えられなくなって時々変なことを言うとか、応え方がおかしいことで、むしろこちらのほうが「正論はこっちだ。現実原則はこっちだ」ということを何度も母親の側に押し付けていくと、母親は「知らないよ!」とか、「わからない!」と突き放されたり、「あんたはすぐ怒る」とか。ただ道理を言ってるだけだと思ってるんだけど、そういうふうに感情的にポーンと「怒っている」とか「わからないことを言ってる」みたいに言われた時、やはり相当ショックで、その現実には当時私のほうも自分の情緒がかなり不安的になりました。母親がこのまま分からなくなっていく形になるのだろうか?と。
 どこかで了解してもらえると思ってくれる分水嶺があると思っていたのかもしれません。

木下 いやでも、何でしょう。さっきの話は当時を振り返って思うんですよね?

杉本 ええ、そうです。

木下 私がすごく印象的なのは、杉本さんがお母さん側に現実を「押し付ける」と言ったコミュニケーションをされていたとおっしゃった。それはとても重要な表現というか、「認識の変化」だと思うんですよね。やはり介護している人の何がすごいって、どこかで見方が変わるわけです。現実は常に「こちら側」にあるはずじゃないですか。あなたの言っていることはおかしい、あなたの言っていることは記憶違いである。でも、それを言うのは自分が正しいからではなくて、ある段階で僕はあなたに現実を押し付けていたと。だから押し付けるんじゃなくて、お母さんの「知らないよ」というのを受けて、多分このコミュニケーションの取り方ではダメなんだなと。やり方を変えていかなきゃいけないというそういう変換を自分の中で辿られていく。それってすごいことだと思うんです。「私は現実だ。お前は現実ではない」というのではなくって、そこで折り合いをつけていく。分からなくなって、相手に対して不安になっていく。でもその不安は自分だけじゃなく、相手も抱えていることなんだ。そこでやり方を変えていこうと。

 先ほど、学ぶとか知識の共有みたいなことが自分はできるけれども、相手は難しくなっていくというお話をされていたと思うんですけど、じゃあ何もしなくなるかというとそうでもないと思うんですよ。ある種の「相互行為」を試みていくと思うんですよね。単純に「あなたはおかしい」というのではなく、相手と話を合わせてみたり、昔の話をあえてしてみたり、何か食べさせてみたり。介護が必要な人との間に認知症の知識を介在するとか、介護を受けている人の知識であるとか、いろんなものを背景にしながら、「じゃあこの人と一体どういうふうに関係を結んでいったらいいか」「どう結び直していったらいいのだろう」ということ。どこかでそういうふうに物事の捉えかたを変えていくということは、やっぱり多くの介護者の中で起こっているものですよね。私、それはやはり研究者の立場としてすごいなあと思うところですね。何か物凄く雑駁な感想で申し訳ないですけれども(笑)。


介護者と要介護者の関係の捉え直し

杉本 いえいえ、とんでもないです。自分でいうのも気恥ずかしいですが、こういった形でインタビューをお願いすることも含めて現在でも悪戦苦闘中なわけですよ。今まで私をある意味情緒的に支えてくれた親を、逆に自分が介護しなくちゃいけないということの逆転的な部分も含めて。それを受け止めなくてはいけない気持ちの定まらなさのようなところから始まり、今は典型的な認知症状を持つ親から、思い切り変化球みたいなものが飛んでくる(苦笑)。それにどう合わせて言ったらいいだろうかというふうに関わりのモードは確かに変わってきてますね。
 そうすると自分自身のアイデンティティもすごく別の角度で保たなくちゃいけない。自分自身の好きなこととか、趣味とか、あるいはこのようなインタビューも含めてなんですけれども。自分を支えている社会的なものや、趣味の世界とかとの関係を切れないようにしていきたい願望も同時にありますので、それを要介護の親と日常付き合うための精神安定剤にしていかないとと、考えるところがあります。その両面があって成り立つことだなっていうふうにも思いますね。

木下 他方で僕が自分の本の中で書いたのは、やはり要介護者と介護者の「あいだ」というか、関係の問題がやっぱりこの認知症ケアの問題ですごく浮上してくると思うんですよね。先ほど杉本さんも、例えば自分を情緒的に守ってくれたお母様との関係を捉え直した上で認知症ケアを改めて捉え直していったと思うんですけど、ぼくもインタビューさせていただいた中ではやはりそれぞれのかたが自分の家族関係を捉え直すわけです。以前あったのが本でも少し書きましたけど「自分は仕事人間だった」みたいなことを語る男性がいらっしゃったりする。そうすると家に帰るのが非常に遅くなっていたと。するとその間に大事な認知症初期の段階で、妻がひとりで孤独に症状を進行させていたんじゃないかということを後悔されているかたがいらっしゃったりする。で、僕はやっぱり社会学者としても思いますし、これから介護に関わる専門職の方は特に、介護家族のかたに「あなたのせいじゃないですよ」というふうに言っていかないとだめだと思うんですよね。つまりそういう家族のかたというのは、日常の些細な変化を自分は「見逃してしまった」ということをすごく気にされているわけです。例えば家計簿の計算が合わなくなったとか、ちょっとした買い物がうまくできなくなったとか、トイレを流し忘れていたとかね。でもそんな些細な変化って日常一緒に暮らしてたらいくらでも発見できてしまうじゃないですか。そうすると「いつから変化がありましたか」と言えば一緒に暮らしてたら、いくらでも遡って辿れてしまう。だから日常の些細な変化はどこまでも遡って辿れてしまうのだから、もうそれは発見できなかった、自分のせいだなどと思う必要はないんですよ。あなたのせいではないですよということはいま苦しんでいる介護家族の方にはまず言わないといけないんじゃないかと思います。


認知症になっても一人で生きていける介護制度に

木下 もう一つは、先ほどおっしゃっていた「守る/守られる」とか、あるいは距離のありようみたいなことを考えたとき、ぼくは最近すごく思うのは、やはり介護保険制度の次の目標として、認知症の人がひとりになっても生きていけるということをきちんと出していくことだろうなと思うんですよね。残念ながら私の調査に協力してくれた人の中には、介護の必要なご家族を残して亡くなられた人もいるんです。当然それはそういうことがあり得ると思うんですよ。あるいは単身で介護が必要になるということもあるわけですよね。だから家族がいたとしても特別面倒を見なくてもいいということを徹底すべきだと思うんです。何か一緒にいた方が楽しいというか、苦労もあるけれどもよりよく生活できるからそれを選ぶと同時に、ちょっと一緒にいるとしんどいから離れて暮らそうということは選べるように。いろんな人に守られていろんな人にコミュニケーションがとれて、いろんな人がその人らしさを尊重してもらえるという前提があれば、たぶんいま介護している側の人も安心して死んでいけると思うんですね。あるいは安心して自分が認知症になれると思うんです。

杉本 そうですね。ですから認知症に関する次のことは、私も想像します。私自身結婚をしてないですし、子供もいませんから。自分も還暦になりますので、流石に少し老後というものを考え始めてるところがあって、今度は自分自身の問題として認知症になる。なったらどうするか。後見人をどうするか、というようなことを考えます。

木下 学生でもそういう感想を書く子がいるんですよね。つまり認知症ケアの問題を取り上げると、「やはり結婚した方がいいんだろうか」とか、「子供がいた方がいいんだろうか」みたいなことを書く子がいて、でもそれ自体もおかしな話というか、つまり介護するために結婚するの?介護要員として結婚するの?と。

杉本 それは昭和の発想ですよね(笑)

木下 そうじゃないよねと。でも現状私たちがどこかでそう不安を抱えた時に「家族」というものがまた浮上してしまう。すごく思うのは結婚していないとか、あるいは子供がいないというのも別に良い生き方じゃないかと言える社会のほうがいい社会だと思うんです。

杉本 もちろんそうです。

木下 それぞれが本当に良い生き方だったということが大事だと思うんですよね。で、僕たちが結局認知症みたいな病気への社会的対応のまずさを媒介にして、ある種復古的じゃないですけども、それまでの人生を「結婚しなくてもいいじゃないか」「子供がいなくてもいいじゃないか」と考えて生きてきた人が、そこで不安になってしまう。そこで何か後悔するようなことがあったりするのなら、それはもうこの社会として絶対許してはいけないことだと思うんです。結婚してない大いにけっこう。子供がいない大いにけっこう。認知症になったら、大いにけっこう。みんなで支えていこうじゃないかと。ぼくはそれこそが民主主義社会であり、自由主義国家であり、そして経済的にもそこそこやってきたこの国の次に目指すべき方向じゃないかなと思うんですよね。

杉本 おそらく介護保険を導入するときの理念というか、理想はいま先生がおっしゃったような形の社会として構築されるべきじゃないかということだと思うんですよね。

木下 そうですね。介護保険はやはり家族関係がどういうものであれ個人として尊重され、個人として介護を受ける権利、個人として介護が必要となる際のリスクを回避する社会保険として、個人の権利として介護を受け、支えられる。どこで暮らしていても専門職が来てくれる。あるいは自分も選ぶことができる。家族がいても面倒を見なくていい。つまり「家」という空間は元々の資産であるとか、あるいは家族関係によってばらつきがあり、場合によっては虐待を受けたりDVがあったりとか、人によっては危険な関係というものもあるんだということ。

 だからこそ介護保険というのはあなたがどんな人で傷ついていたとしても、あなたの個人の権利としてそこに専門家が行くよ、決して一人にはしないよ、そういう制度だよと思うわけです。一人であっても、家にいても、その人が結婚していようが、子供がいようがいまいが、病気になっても最後まで安心して暮らしていける。そのために専門職をちゃんと養成していく。そこに専門性の意味があるし、とはいえ、やっぱりいろいろ整備しても家族は関わらざるを得なくなったり、おっしゃったように引きずられていったりするメカニズムはあると思うんですよね。それをわかった上できちんと支えていくような公的なシステムを鍛え直していくということ。それは介護家族の方がなされてきた経験の中にそのヒントがたくさんあると思うし、それらを経た上で改めて作り直していく必要というものもあるだろうと個人的には考えます。

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杉本賢治
札幌で人文社会系のインタビュー活動をしています。自由と社会を軸に考えつつ、時々、道外にも取材に行っています。マガジンも充実中。 「インタビューサイト・ユーフォニアム」運営。サイトURL https://www.kenjisugimoto.net/