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2021年が始まりました。

 コロナウイルスの感染が止まらず、首都圏の緊急事態宣言が出る予定の年明けになりました。世界のコロナウイルスでの死亡者が184万人を超えていると聞いて驚いているのですが、100年前のスペイン風邪では世界全土で5千万人も亡くなっているとのことで、その数字には愕然とします。スペイン風邪は、にもかかわらずおそらく世界でもほとんど記憶されてない感染症であったというのは、当時原因がウイルスだとわからなかったにしても、現象そのものがほとんど忘れられていたことは、現代の目から見るととても奇妙なことには思えます。

 この年末年始は今月94歳になる母親と二人で過ごしていました。4連休の中ではお互いに荒れる日もあるかと思いましたが、幸いおおむねそうはならず、ごく静かに、自分自身は好きなものに触れてた大晦日であり、また年明けでした。ただ、コロナの全国の状況は気を揉んではいましたが。

 大晦日、そして正月は少し贅沢しておせち料理を奮発したのと、昨年に続いて自分でお雑煮を作り、そこそこうまくはできたかなと。母親も雑煮を残さず全部食べてくれたのはよかった。お互い昼夜二食のお雑煮と、私はおせちの残りを副食にしていました。母が生もちをのばして頬張っている姿を喉に詰まらせないか少し意識しつつ食べる様子を見ていましたが、しっかり頬張っている姿を見て安心でもあり、この食欲ならまだまだ結構な長生きはしそうだなあと改めて思った次第。体重も一時期食べなくなり2キロくらい減りましたが、また0.8キロくらい戻ってきました。

 昨日4日から平常に戻り、昨日は訪問看護師さん、今日は1日母はデイサービス。デイサービスに関しては、昨年2月下旬から6月上旬まで休ませたことで何度か書いた通り認知症を悪化させてしまったのですが、新しい小規模通所施設(デイサービス)は認知症対応施設なので、症状前提のお付き合いをしてくれることでいつの間にか昼にお風呂に入ることを常に拒んでいた母も入浴をしてくれる様になり、訪問に来てくれる専門家が月、火、木、金の4日あるので、薬も飲ませてくれ、その点でもとても頼りになるところ。私に対しては強く我を張る母ですが、基本的には(子供としては認め難いですが)本人、操作されやすい傾向になっているので、専門家の誘導で助けられているわけです。

 「操作のされやさ」は、大きな目で見れば認知症者の大したことはない日常で、小さい目から見れば異常な行動や言動ということになるのでしょう。子から見れば前述のように、「自我意識」の衰え、おぼろげさとでもいうべきものがあって、それは時間意識の喪失(あるいは記憶のザルのような短期消失)、もしくは失見当識と呼ばれる「場所の不透明感」という訴えで出てきます。時間感覚や場所感覚、或いは人間の関係の感覚がおぼろげであるがゆえに、人の善意による誘導、悪く言えば「操作のされやすさ」となって現れるのでしょう。それは本人の肉体的健康にとっては間違いなく良いことです。でも、子どもとして、母親に小さい頃に養育されてきたものとしては(それこそトイレトレーニングから始まって)、やはり見るに忍びなく、或いは苛立ちが心のどこかにあり、時折半分無意識・半分意識的に「操作されるなよ」という態度を母親に対してとってしまうのが子供の悲しさです。

 いずれにせよ、日々母親の「時を超える老婆」の発言で、死んだ祖母・祖父が実存している前提の質問が飛ぶのが日常で、1日一回は夜に祖母祖父、叔父叔母の誰かについて、どうしているのか。上で寝ているのか、食事はしたのかと。僕の名前を忘れて、叔母の名前や叔父の名前で階下から呼び掛けられるのが日々の日常です。まあでも、このパターンで半年近く行けているので、ここから大きな変化がなければ94歳は超えて95歳も同居は可能かもという気がします。しかし、この一年も何があるかで状況は簡単に変わると思います。もちろん、直近はコロナ感染で、今日もうっかりマスクを毎回やり取りするデイのファイルに入れ忘れ、やんわり指摘のメモが入っていました。

 本当にデイサービスの職員の人たちも緊張しているでしょうし、この冬に安全を考えて通所させないという選択はもう無い選択なので、ここから先はコロナにかからないことにかける賭けになりますね。あとはもちろん、自分も感染するわけにはいかない。

 母のかかりつけ医の話だと、かつて大きな病気をしたことがなく、食事が取れる、むせることがないなどの条件で、90を超えるとかなりの割合で100までの目があるとか。だから転んで足の骨折だけは避けて欲しい。階段の登り下りを日常して、転んで寝たきりにならないこと。そうすれば100までいけますよとのこと。基本的にはめでたい話なのだけど、脳の老化の方はかなり進んでいるので、いつまで僕が見ていけるか。というか、今年還暦になる自分があと5年をかりに親を看るとすると、これはこれで「俺自身の人生はどうなるのであるか?」という深刻な問題もあるわけです。

 ただ、こういう話は今後は中年や初老男性の普通な話になると思っていて、それは「ひきこもりの8050」などという小さい限定的な話ではなく、未婚離婚が普通のこの時代、男性一般の8050、或いは女性にとっても。つまり親介護は世間において悩ましい話になっていく。それは目前には2025年に必ず社会問題の前面に出る。・・・と、想像の確信を深めていたら....

いち早く、コロナ禍でこの高齢社会問題が先取りしたところでやってきました。どこでも高齢者はいて、それが院内感染、施設感染、家族内感染が広げるということは、感染そのものの「数の問題」というよりは、「高齢者、基礎疾患者の重症化、死亡の問題」という形で先鋭化してるわけです。まさにこのウイルスは現代先進社会に最も適合的な感染症としてやってきて、21世紀最初の世界的現代パンデミックになったわけです。僕はこの点に注目している。

 なぜなら、人間社会の人口が増加して土地に釣り合わないくらいの人口になった時,今まで人間は疫病か戦争で(無意識にか)人口を減らしてきました。日本は国土に平地が極めて少ないので、それに大して人口は過剰に多かった。適正人口に人が減るのが僕は正しいと思っているので、だからこそ、日本人が天寿を全うして人口が適切に減っていくのが先進国の最先端モデルになる名誉を得られる。そのための物質的進歩。経済システムの変容を、と思っていたのだが、今後はたびたび新しい「21世紀以後型」の疫病が続いていくのかもしれない。そういう想像は当たってほしくはないし、もしかつてなかった先進国における超高齢者の集団生活の中で疫病蔓延の時、日本的に言えば「姥捨山」で今後の世代たちは行くのか。そんな原罪的歴史を作らないために予防医学的システムがここに至って再び光を当てねばならないだろうと思います。その予防医学は成人病予防という緩めな話ではなく、新たな感染症対策ということになるのだと思う。

そして社会的には後期高齢者の社会的介護ということ。本音ではこの、できれば向き合いたくはない難問に向き合わなくてはいけない。

 そのためには、社会保険システムによって賄う故の医療と介護の職員の給与体系の限界が存在する。では先走って言えば、社会保険システムの限界で考えるべきか?否、そうではなく、感染症対策の必要のたびに、医療介護に適切な財政投資が必要だろう。

 その時削るのは何か?軍事費やカジノ、オリンピックなど不要不急の財政経費になるべきと思う。日本の生産の歪みはゼネコンシステムがまだ大きく残っていることにある。それが今の政治、つまり内閣と行政を生き長らしめているとともに共存共栄している。このウワモノ経済システムを大転換するシリアスな、人間が人間と向き合う関係の人間社会を作れるか。これは僕自身にも突きつけられる大きな問いです。少なくとも戦後の日本はモノと娯楽に彩られた社会のために富もうとする経済システムでずっと人々は過剰に働き、そして今、そこに底流に置いて生理的についていくのはもうトゥマッチな感じが人々の間に起きていると思う。

 やれやれ。すみません。ウチの話というミクロな話から、今後の社会構造というマクロな話まで風呂敷を広げてしまいました。ただ、2025年問題はコロナ禍を先駆に、今後遠くなく大きな社会問題になるだろうという確信は自分の中に強く意識し始めているというのが一つの年頭の結論です。

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