「幸せ」と「興奮」は違う。
「幸せ」を興奮と勘違いしてしまうと、「幸せ」が遠ざかるかもしれない。
刺激を求める世界に入ってしまう。
刺激の頂点を目指すと、映画『ヘル・レイザー』のようなことになってしまう。究極の痛みは究極の快楽、という。もちろんそれを目指したいのであれば、目指せば良いと思う。
何かステータスを変えるような何かがあった。それが嬉しくて、興奮して「幸せ」だとすることはよくある。
希望の大学に受かった。好きな人と付き合えた。結婚できた。子供ができた。昇進した。
それはやはり興奮だ。一つの形ではあるかもしれない。でも、興奮であるがゆえに、それは下降すしていく。
だから、次へ次へと興奮を求めていく。興奮がなるべく止まないようにする。
たいてい人は、人生を進んでいる、人生が発展していくという思い込みが必要になるのだと思う。ただ興奮のみを次から次へと追い求めているなんて思いたくないから。
そして興奮の連続の先に、何か人生の真理や極楽浄土みたいなものを求めていたりする。
今回の興奮こそが人生の真理、極楽浄土に至る鍵だと思って、少し時間が経つとそうじゃないことに気づいてモヤモヤする。
そんなことの繰り返しだ。
「幸せ」は「今」にしかない。なぜなら「今」しかないから。
「今」が充実すれば、「今」が人生全体であるがゆえに、人生全体が幸せで充実するということ。