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どうしても私は恵まれていると感じる。

Noteで様々なブログのポストを読んでいて思う。
生きづらさを感じる人の多さ。

日本という国の概念や制度に生きづらさを感じる人。
性に関連して生きづらさを感じる人。
学校や職場での生きづらさを感じる人。
キャリアについて生きづらさを感じる人。
家族関係で生じる生きづらさを感じる人。
恋愛で生きづらさを感じる人。
自身のステータスや立場について生きづらさを感じる人。
自身の性格について生きづらさを感じる人。
この世界や人生というものに対して漠然と生きづらさを感じる人。

これらはすべて関連してもいるし、被ってもいる。
「生きづらさ」は彼らの「悩み」になっている。

私は彼らが羨むものを必ずしも持っていない。それでも、彼らのように「悩んで」はいない。
もちろん持っていて、それに悩む人もいる。

私にも「悩む」時はあった。これから先、悩むことがあるかもしれない。
でも、今は悩んでいない。もう1〜2年くらい悩んでいない。様々なことを「考え」はしても、「悩む」ことはなかった。
それは外的なものが変わったからではない。外面的な人生の状況はむしろ、(人から見たら)「悪化」している。だから、人から心配もされることもある。外面的な状況にもかかわらず、私が「人生を楽しそうに過ごしている」ように見えるからこそ、無理していないかと、少し心配になるのだと言う。

肉体的に何も大きな問題はない。確かに、体の状況は数年前よりも脆くなっているかもしれない。それでも、基本的に「健康」な状態と言っていい。

特に外的なものについて、私は特別恵まれているとは思わない。
それでも、ブログのポストやSNS、友人の話を聞いていると、内的に彼らが感じているだろう「悩み」のない私は恵まれているのだと感じてしまう。
私よりも外的にはるかに多くのものを「持っている」人も、生きづらさを感じているのを見ると、みんな楽になったらいいなと思う。
(ただ、楽になることがその本人たちの望んでいることかどうかはわからないので、この想いは一方的な押し付け。)

私がその状況にあっても気にしないだろうことがある人の「生きづらさ」であり、「悩み」ともなる。
見聞きしていると、そんなことばかりだ。
でも、私が「生きづらさ」を感じないからといって、その人の「悩み」は大したことではないことにはならない。
また、自分が前に「悩んでいた」ときの感覚を通して彼らに近づこうとするのも安易だと感じてしまう。
「理解」なんてできるわけがない。

彼らの「生きづらさ」「悩み」を前に、理解しようとするのでもなく、ただそれに向き合って佇むことしか私にはできない。

こうやって比較が生まれると、恵まれていると感じてしまう。感じざるを得ない。
でも、その比較から喜びや幸福を引き出しているわけではない。そこから引き出したとしても、それは脆い。

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