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現代建築家宣言 Contemporary Architects Manifesto【6】私たちは〈可食性〉を咀嚼し、 反芻する動物である

建築界のこの底知れぬ閉塞感と、夢のなさを肌身で実感する平成生まれの
20代建築家が、それでも建築に希望を見いだす術を模索した痕跡。
*『建築ジャーナル』2020年6月号からの転載です。

著者・若林拓哉

〈現代建築家〉は、無数に存在する「正しさ」を可能なかぎり摂取しながら「誤り」を享受する存在である。そしてそれは他者を「食べる」存在でありながら自己もまた「食べられる」存在だと認識することへつながる。そこで第五回の終わりに現代的な問いのキーワードの一つとして〈可食性〉を提示して幕を閉じた。そもそも人間において、食=食欲は睡眠欲・性欲と並ぶ三大欲求のひとつとして、また生活の基盤である衣食住のひとつとして、常に重要な位置を占めてきた。そこでまずは〈可食性〉への補助線として、「食」あるいは「食べる」ことを取り巻くいくつかのテーマを俯瞰しよう。
 
 初めに「食」の概念の壮大な歴史を振り返ってみたい。生物の原初形態は約四十億年前の原核生物、つまり細胞核のない単細胞生物と言われ、深海の熱水噴出孔のあたりで生まれたようだ ❖1。初期の生物は硫黄やアミノ酸といった物質を取り込んで化学合成することで生きていた。だが次第にほかの生物を食べることで栄養をとる生物が生まれる。これが食の起源だ。当時の生物は単細胞生物のため、捕食者は自分の身体すべてを用いてほかの生物を丸ごと飲み込んだ。一方で、捕食者に飲み込まれても消化吸収されない機能を発達させたのが、後のミトコンドリアと葉緑体である。そして、十九億年前になると、体内のミトコンドリアや葉緑体と〈共生symbiosis 〉する真核生物が生まれたと言われている。その後、真核生物は捕食者からより身を守りやすくするために多細胞化を進める。こうして動物、植物、菌類が生まれた。
 これらの多細胞生物の各細胞はそれぞれ役割をもち、相互に依存し合っているため単独では生きられなくなった。元来、アメーバのような単細胞生物は自己分裂して増殖できるが、多細胞生物のうち動物などは子孫に受け継ぐ生殖細胞と一代限りの体細胞から形成されているため、有性生殖せざるを得ない。その結果、私たち人類は死を迎えるのである。そしてそれは身体に数十兆個も存在する細胞によって運命づけられている。また、われわれの身体を構成するのは細胞だけではない。寄生虫もいれば細菌やウイルスなども棲んでいる。

私たちは個人であるより以前に、無数の微生物と〈共生〉することで成立しているのだ。

 次に、「食べる」ことの、その文字通りの意味について考えたい。私たちはつねに肉や魚、野菜などといった食物を摂取することで生きている。外部から栄養を摂取しないかぎりエネルギーを生成できないためだ。そしてそれらは食物である以前に、意識をもち、身体をもち、無数の細胞や微生物からなる他者であったとみなすこともできよう。私たちは、他者を食べやすいように変形させて摂取しているのである。哲学者レオン・R.カスはこう述べている。

 何かを食べることは、食べたものを物理的・化学的に変容させることを意味する。食べることは複雑な他者を専有し、合体し、変形させ、均質化して単体化し、吸収することにほかならない❖2。

 被食者は捕食者によって完全に変容させられ、捕食者の体内へと取り込まれるのである。これは至極当たり前なプロセスであるが、初めは私たちと同等に他者であった、という認識の価値については後述したい。ここではまず「食べる」行為のもつ宿命にだけ触れておく。
 人間は文字通り〝何でも食べる〞。もちろん生まれた地域によって消化しやすい食物に対する差異はあるものの、基本的には何でも口にする。これは生物界では異常だ。大抵の動物は健康に良い食物を摂取し、健康に良くない食物を拒絶する。それが生存戦略として当然の結果だろう。しかしながら、人間は健康に良いかどうか以上に、嗜好に合うかどうかという味覚で選択する傾向にある。言い換えれば、ほかの動物種と比較して、人類は食物に対して極めて自由であるともとれる。この〈雑食性omnivorousness〉は、その歯生状態❖3にも現れている。哺乳類のうち、ネズミのような齧歯類は、木の実や種をかじるためにノミのような形状の二対の歯を肥大化させた代わりに、犬歯がなく、大臼歯は数が減少し機能も縮小している。一方でライオンのような典型的な肉食獣は、肉を引き裂くために犬歯が発達し、隣接する切歯および小臼歯まで尖った形状になっている。またウマのような有蹄類を有する草食動物は、植物繊維をすりつぶすために大臼歯が顕著に大きくなった代わりに、犬がなく、切歯さえないものもいる❖4。これらと比べて、人間の歯はあらゆる能力を備え、ほぼすべての種類の食物を食べることを可能にしている。どれかの食物にあわせて歯生状態を特殊化せずに自由に選択できるようになったのは、生き残るために狩猟と採集を経てきた進化の過程の産物かもしれない。しかしながら、何でも食べるとはいえ、すべてを栄養として吸収できるわけでもない。したがって、他者の同化は部分的にしか行われない❖5。消化吸収できなかった部分は廃棄物として必ず対外に吐き出される。ゆえに、確かに

私たちは食べた他者によってできているが、すべてが他者によってできているとは言えない

のである。
 また別の観点でいえば、〈雑食性〉を支える「食べる」自由に対して、「食べない」自由もまた存在する。地球上の食をめぐる文化的な分類や差異の結果として、食物は大きく以下の3つのカテゴリーに分けられる。(1)食物として認められ、正常の食事の一部として摂取される食用可能な物質。(2)食物になると認められてはいるが、禁止されているか、儀式などの特別な条件のもとでのみ食べることを許される食用可能な物質。(3)文化と言語によって、まったく食物とは認められていないが、食用可能な物質❖6。つまり、日常的に栄養源として摂取する食物以外にも、文化風習や宗教など何らかの条件下でのみ「食べる」ことを認められたり、タブー視され
「食べない」ものになったりするのである。イスラム教などにおける豚肉を食べることの禁止がその分かりやすい例だろう。
 また、自然人類学者スティーブン・レは植物に対して、摂取された際に人体に与える影響を基準に、次のようなウィットに富んだ6つの分類をしている。(1)敵:決して食べてはいけない植物。(2)ドッペルゲンガー:美味しい植物と間違えて食べて中毒症状を引き起こす。(3)魔術師:通常は薬剤として使われるが、過剰に摂取してしまうと人体に被害をおよぼす。(4)狼男:ある段階で食べると安全だが、それ以外の段階で食べると危険なもの。(5)頼みの綱:一時的な手段として食べるのはよいが、長期的に食べるにはふさわしくないもの。(6)同志:適切な下ごしらえをすることにより、長期的な摂取にも適した食物❖7。植物はこれらの差異が比較的顕著であるが、人間の〈雑食性〉に対して、何でも「同志」のカテゴリーに分類するのは性急である。こちらの「食べる/食べない」とは別に、そもそも友好関係を築けない食物や摂取する節度を守るべき食物が存在することも事実である。そしてまた、

誰かの同志はほかの誰かの敵かもしれない

ことを忘れてはならない。食物アレルギーやトラウマなどによって受け付けられないものが常に存在する。
 
 ところで、「食べる」ことと「食う」ことの差異を考えたことはあるだろうか? レオン・R.カスは次のように表現している。

超然と直立していた一人の主人(ホスト)が、同じ境遇にある食物摂取者と出会い、沈黙のままにせよ、彼のために飲食物を提供する気持になることは、多くのことを物語っている。したがってそのことは食うという単なる動物的行為を人間らしくする。主人が客に食事を与えるとき、食べるが食うに取って代わる❖8。

 この「食べる」と「食う」の関係はちょうど英語の「eat」と「feed」の関係に合致する❖9。単一の人間は食物を摂取する行為において、ほかの動物種と何ら変わりない。それは食物を文字通り「食う」ことになる。しかしながら、個人が他人を想い、食事を振る舞うとき、その摂取行為は「食べる」へと昇華するというのだ。この指摘は非常に示唆的である。ここでは、ともに食事を摂ることの間で重要なコミュニケーションが生じている。したがって、「食う/食べる」の境界上には、何を食べるか以上に、いつ・どこで・誰と・

どのように食べるか

が問われるのである。カスの言うところでは「自己抑制、他人への思い遣り、礼儀正しさ、公平さ、寛大さ、気配り、洞察力、趣味の良さ、友情あふれる会話能力、などは全て身に着け食卓で実行できるもの❖10」だ。食事の場をともにしているにもかかわらず、なりふり構わず自己のためにのみ摂取するようであれば、それは動物の「食う」行為と相違ない。カスは「食べる」行為をより文化的なものとして認識しているが、とはいえ食事の場をともにしない、個人による摂食行為がすべて「食う」ことになるかと言えば、そうではないと考える。遥かなる他者、つまり食物と化した他者を想起すること、初めはそれらも私たちと同等に他者であったと認識すること、そしてそれらに礼節を尽くすこと、これらも「食べる」ことにつながるだろう。また、自己を想い、自分自身に食事を振る舞うこともまた「食べる」ことになるのではないか。なぜならば、

私たちの中にはつねにすでに他者が棲んでいる

のだから。

 ここまで〈可食性〉への補助線として、「食」あるいは「食べる」ことについてのいくつかのテーマを眺めてきた。そこから、食物を摂取する行為において、他者をどこまで設定するか、その射程距離あるいは想像力が極めて重要であることが見て取れるだろう。そもそも、人間は「食べる」存在である、というのは人間中心主義的(アントロポセントリック)な思考であると言える。今となっては人間同士の争いしか基本的に生じないが、それでも稀に〝熊に襲われて人が食べられてしまった〞のようなニュースがあると身につまされる。いつの間にか忘れてしまっているが、われわれ人類は食物連鎖の中ではさほど上位にいるわけではないのだ。人類学者・石倉敏明は現状を次のように指摘する。

少なくとも進化論的な時間の中では、ヒトはあくまでも一個の霊長類であり、可食的な動物であるという特性を失ってはいない。私たちは、このように自分自身が有機体の循環の一部であり、現実に可食的存在として生きているという認識を取り戻すことから、動物と人間の関係をめぐる他者性の問いを、現代に再構築してみなければならないだろう11 ❖。

 あるいは宮沢賢治の有名な著書『注文の多い料理店』のように、自己を食事する側=捕食者だと思っていたらいつの間にか食べられる側=被食者と入れ替わってしまっていたという、その「食う側の身体と食われる側の身体の双方にまたがる感触12 ❖」のリアリティを思い起こさねばならない。そしてもう一つ忘れてはならないのが、私たちは体内に膨大な他者=微生物を抱え、それらに食べられながら生きている❖13ということである。私たちはかれらに食べられることなしに、生きることはできない。
 したがって、人類を捕食者とした場合の他者の射程だけでなく、人類を可食的存在=被食者の射程で認識することが肝要である。ここにおいて、文化人類学者エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロの提唱した〈パースペクティヴィズム〉、つまり「世界は人間と非人間からなるさまざまなたぐいの人格たちが住まい、それぞれは異なった観点から現実を知覚する❖14」という視座が求められる。現実世界はわれわれ人類から見た視点だけでなく、それ以上に遥かに多く存在している。他者からの視点によって支えられている。また、第四回で言及したように、カストロは「カニバリズム(食人)」を「他者の視点から自らを捉え、自己を他者としてつくりあげるための営為❖15」として描いている。それを踏まえれば、これまでの「食」あるいは「食べる」ことに関するテーマをメタな次元で捉え、他者との関係性を再構築することもまた可能である。つまり、

他者の視点に立つ=他者を食べることによって他者の視点を獲得する

のである。

 その前提として、生物学者フォン・ユクスキュルが提唱した「環世界」の概念が重要だ。それは、個々の生物が周囲に広がっていると感じている環境を知覚することで立ち現れる世界のことである ❖16。一方で、現状、ほかの動物種の知覚手段を理解し自己に落とし込むことは不可能であり、たとえ存在することを理解していたとしても、異種間で「環世界」を知覚的に共有することはできない。そしてそれは他種間だけでなく、こと人類においては同種間でもすべての知覚を共有することはできないと指摘しなければならない。
 認知科学の分野では「個体のなかで主観的に立ち現れる感覚意識体験のこと」を「クオリア」と言うそうだが、大雑把に説明すれば、それは自分の意識の中に生じる諸々の感覚の「この感じ」のこと ❖17である。どんなに言
葉を尽くしても、その感覚を完全なかたちで他人と共有することはできない。人間の「環世界」は「クオリア」によって支えられており、私たちは互いの「クオリア」の最大公約数によって辛うじてコミュニケーションを取ることしかできないのである。この「クオリア」をほかの動物種に敷衍して考えることもできよう。したがって、私たちはつねに無数の他者からの視点に晒されていると同時に、それら全てを共有することは到底できないという前提条件に立っているのである。人間は人間同士とも、ほかの動物種ともわかりあえなさを❖18通して紐帯しているのだ。

 それらを踏まえたうえで、いくつかのテーマを再考したい。第五回で、私たちは他者からの引用・模倣でできていると考える〈他者性の囚人❖19〉の概念について言及したが、私たちは「食べた他者によってできているが、すべてが他者によってできているとは言えない」とするならば、必ずそこにはフィルターが存在する。どんなに他者を食べようとも、すべてを消化吸収することはできないのである。ゆえに、完全に他者によっては生成され得ないのだ。また前述で、食物の自由に対して3つのカテゴリーを、植物を食物と見たときの6つの分類を挙げたが、それを〈パースペクティヴィズム〉の観点から思考すれば、そのまま他者の視点の理解の仕方、あるいはわかりあえなさに直結する。人間は〈雑食性〉であるにもかかわらず「食べない」他者が存在するだけでなく、状況に応じてその他者を食べるべきか否かの間で揺れ動くことがある。また自己にとって「食べる」存在が他者にとって「食べない」存在であることもある。そして何より、他者をどのように「食べる」かが問われる。わかりあえないことを前提に、それでも真に他者を理解しようと努めるのであれば、

決して他者を「食って」はならない。

どのように食べるかは他者とどのように向き合うかを表す鏡である。
 これまで見てきたような視点は昨今、「マルチスピーシーズ人類学」として体系化されつつある。それは「他種をたんなる象徴、資源、人間の暮らしの
背景と啓と見ることを超えて、種間および複数種間で構成される経験世界や存在様式、ほかの生物種の生物文化的条件に関する分厚い記述❖20」を目指す学問であり、「人間と人間以外の存在という二元論の土台の上で繰り広げられる、人間と特定の他種との二者間の関係ではなく、人間を含む複数種の3+n者の『絡まりあい』とともに、複数種が『ともに生きる』ことを強調する❖21」ものである。自然環境において、複数種の中に人間という動物種がいる、というこの視点は人間中心主義(アントロポセントリズム)を超克し、人間を複数種の中に後景化する認識論であるとも言えよう。〈可食性〉
は自己の内部における微生物との〈共生〉から、他者から食べられる存在であることまでを広範に包摂している。つまり、他者を「食べる/食べられる」存在である人間は、一人では生きられないこと以上に、

人間だけでは生きられないのである。

この捕食者/被食者の関係性について、学術運動家・逆卷しとねの言葉を借りれば、生物どうしが捕食者/被食者へと生成することもあれば、互いを共生生物として抱き込むこともありうる。生きるための捕食は生きるための存在自体の変容を伴うため、捕食者/被食者を予め区別することはできない。それらの差異は、接触領域のただなかで偶発的に生じる役割の分化に過ぎない❖22のだ。この捕食者/被食者の関係性の揺れ動きにおいて、生きるために食べ合うことと、ともに生きることの狭間で、私たちの生と他者の生は互いに〈癒着〉❖23し合っている。この生を取り巻く緊張関係の只中に「生命」の確からしさ❖24を感じるのであり、その〈不安定性precarity❖25〉によって私たちは支えられているのである。そのリアリティを享受することが〈崇高さsublime❖26〉につながるとも言えよう。

200507_挿絵2

「循環する捕食者」 絵:若林拓哉

 この文章を書いている2020年4月現在はまだ、世界中が「新型コロナウイルス=COVID-19」の感染拡大によって混乱の渦中にある。では、この「COVID-19」と言う名のウイルスに〝勝つ〞ことが、果たして目的化され得るのだろうか? その価値意識に疑問を呈したい。私たちの身体はすでに膨大な微生物と〈共生〉していることは前述の通りだが、その中にはウイルスも含まれる。ウイルスとは、その捏造された悪しきイメージに反して、種類によっては人類と友好関係を結んできた。ウイルスを生物ととるか無生物ととるかは議論が分かれるところではあるが、少なくとも、

人類がウイルスと〈癒着〉している

ことは間違いない。とはいえ「COVID-19」が人体に悪影響であることは否めないし、インフルエンザウイルスと同じように、駆逐することも避けることも現状はできないのである。私たちは常にその目に見えない他者に「食べられる」ことを想定しなければならない。その緊張関係を念頭に置いたうえで、人類vsウイルスという安易な対立関係を煽動するのではなく、人類はウイルスと共存する道を探らなければならないのである❖27。加えて、「COVID-19」は人獣共通感染症である。したがって、その感性経路の可能性を踏まえても、人類とウイルスだけでなく、他の動物種も含めて思考を巡らせなければならない。私たちは「食べられる」存在、つまり動物の健康、そして生態系の健康までも射程に入れた〈ワン・ヘルスone health❖28を思慮すべきなのである。これは、人間と動物のあいだの免疫学的、細菌学的な構造は同型であり、人間医療と動物医療のあいだに境界線があるべきではないと主張した病理学者ルドルフ・フィルヒョウの立場に拠っている❖29。捕食者/被食者の間の健康が相互に依存しているのならば、「人の肉体はみずからの内に完結することなく、世界に向けてかぎりなく開かれながら、その世界との相互依存性を生かされている❖30」と捉えることもできよう。ここで言う世界は、無数の他者がうごめく外部環境のことであり、人間の身体は外部環境に存在する他者によって成立していると考えることができる。つまり、外部環境は私たちの身体における内臓をひっくり返したような、〈外臓〉の❖31ような環境なのではないだろうか。そう思ってあたりを見渡してみれば、これまでとは別様なパースペクティヴを獲得できるはずだ。
 
 〈可食性〉の視点は、自己は無数の微生物によって成り立っていると同時に、複数種とその生態系を含めて自己の身体の延長として成り立っているという認識をもたらす。そしてそれらの他者をどのように食べ、どのように食べられるかという価値意識を生む。リテラルにもメタにも、捕食者/被食者のあいだの摂食行為と消化吸収における解像度が問われているのである。そこで、その現象において切っても切れない〈分解〉の概念を、現代的な問いのキーワードとして提示して、今回は幕を閉じよう。

❖1│ 以下の文章は、辻村伸雄著「肉と口と狩りのビッグヒストリー―その起源から終焉まで」『たぐい VOL.1』亜紀書房、2019年、p.82-84を参照
❖2│ レオン・R. カス著、工藤政司/小澤喬訳『飢えたる魂 食の哲学』法政大学出版局、2002年、p.29
❖3│ 歯の数と形と配列形式を指す
❖4│ ❖2に同じ、p.115
❖5│ ❖2に同じ、p.30
❖6│ 赤坂憲雄著『性食考』岩波書店、2017年、p.115
❖7│ スティーブン・レ著、大沢章子訳『食と健康の一億年史』亜紀書房、2017年、p.135-136
❖8│ ❖2に同じ、p.148
❖9│ ❖2に同じ、p.28
❖10│ ❖2に同じ、p.320
❖11│ 石倉敏明著「複数種世界で食べること―私たちは一度も単独種ではなかった」『たぐい VOL.1』亜紀書房、2019年、p.53
❖12│ ❖6に同じ、p.98
❖13│ ❖11に同じ、p.51
❖14│ レーン・ウィラースレフ著、奥野克巳・近藤祉秋・古川不可知訳『ソウル・ハンターズ シベリア・ユカギールのアニミズムの人類学』亜紀書房、2018年、p.150
❖15│ 久保明教著『機械カニバリズム 人間なきあとの人類学へ』講談社選書メチエ、2018年、p.5
❖16│ ユクスキュル/クリサート著、日高敏隆・羽田節子訳『生物から見た世界』岩波書店、2005年
❖17│ ドミニク・チェン著『未来をつくる言葉 わかりあえなさをつなぐために』新潮社、、2020年、p.24
❖18│ ❖17に同じ、p.196
❖19│ 現代建築家宣言:第五回〈 可謬性〉の海を漂うことは〈誤配〉に身を任せることであり、それは〈偶然性〉の暗闇で迷うことであり、それは無数の〈模倣〉の連鎖であり、……『建築ジャーナル』2020年3月号を参照
❖20│ 奥野克巳著「人類学の現在、絡まりあう種たち、不安定な「種」」『たぐい VOL.1』亜紀書房、2019年、p.6
❖21│ ❖20に同じ、p.7
❖22│ 逆巻しとね著「喰らって喰らわれて消化不良のままの「わたしたち」―ダナ・ハラウェイと共生の思想」『たぐいVOL.1』亜紀書房、2019年、p.60
❖23│ 東千茅著『つち式二〇一七』2018年、p.34
❖24│ 現代建築家宣言:第四回 ぶきみなきみをきみはわらう『建築ジャーナル』2019年12月号を参照
❖25│ 現代建築家宣言:第二回 〈弱き者〉の不安定性、あるいは〈可塑性〉の享受『建築ジャーナル』2019年6月号を参照
❖26│ 現代建築家宣言:第三回 人類、崇高さ、死―表象
不可能性の先へ投擲せよ―『建築ジャーナル』2019
年9月号を参照
❖27│ この議論は「シリーズ『COVID-19〈 と〉考える』|TALK 01|奥野克巳×近藤祉秋|ウイルスは人と動物の「あいだ」に生成する―マルチスピーシーズ人類学からの応答」『HAGAZINE』ウェブマガジンにその多くを依っている。
❖28│ ロージ・ブライドッティ著、門林岳史監訳、大貫菜穂、篠木涼、唄邦弘、福田安佐子、増田展大、松谷容作共訳『ポストヒューマン 新しい人文学に向けて』フィルムアート社、2019年、p.245
❖29│ ❖28に同じ、p.245-246
❖30│ ❖6に同じ、p.256
❖31│ 東千茅×奥野克巳×石倉敏明「生命の〈からまりあい〉に生きる」『つち式 追肥 〇一』2019年、p.21

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