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15. I spin

インターネットで盛んに渋谷に現れた『透明な絶望』のことが噂されている。

メキシコシティで麻薬カルテルの下働きが警官に銃殺される。

ハラワタのはみ出た死体がエンバーミングの為に縫合される。

万里の長城で若い女が年上の男の頬を叩く。

カンボジアで物乞いの少年が餓死をする。

オーストラリアで寄生虫に脳を侵された狼が人を襲う。

仙台で何者でない人が街角で初めて会う女と笑い合う。

東京証券株式取引所で破産宣告寸前だった企業の株価が最高値を更新する。

渋谷駅宮下公園前ではヒクイアリにダンゴムシが噛み殺されている。

私は少しだけ、キュイジーヌで溜息をつく。

開店前の予約リストにはなかったゲストが急遽来店する。

止められた時間を呼び戻すようにして絢辻冬里が歓迎の意を示す。

「いらっしゃいませ。手塚様ですね。御連れ様が既に奥の席でお待ちしています。クロークに預ける荷物はございますか」

「急な予約に対応してもらって済まない。食材に関しては事前に連絡してあるとおり冷凍庫に保管してあるものでよろしく頼む。手荷物は、今日は何一つないんだ、彼女が先に着いてもう待っているんだね」

手塚崇人は、予定が変更されつつあることを予め頭の中で組み込んでいた一五六三二通りのパターンの修正案から一つを拾い出し、突然流れが変わり始めた時の流れとの整合性をとるようにして選択し直すことで渋谷神山町のとある一軒家で営まれる小さなフランス料理店の予約を取り付けて予定にはなかった時間を無理やり割り込ませるようにして旧知の友人との食事をとりつける。

綾辻冬里にテーブルまで案内されて、『ダンテの小舟』が飾られた壁面の左側の奥の席に灰色の長髪と二つの黒い眼の左にもう一つだけ赤い眼を持つ女性が座っている席に案内される。

「後ろを振り返ってはいけないことは知っているわね。もう終わりなのよ。あなたの我侭は。とにかく食事をしましょう。世界があなたの思い通りに動くことのないように」

『黄泉比良坂』に出会ってしまったら、過去はもう積み重ねられた死体に成り果ててしまって目の前に立ち塞がることすらなくなってしまう。

手塚崇人はいずれこの時が来るのをわかっていたように彼女の正面の席、左手の壁面に『パブロ ピカソ セリンティーヌ』が飾られた席に座る。

「こんばんは。たぶん最後になる食事だということをあなたは知って来てくれた。ずっとぼくのただの我侭に付き合ってくれていた。世界を半分だけ明け渡すことになることをあなたは予め知った上であなたの瘴気で世界を満たし続けてくれていた。何もかも最初から知っていた。子供の頃を描いていた夢のこと思い出してしまいますね」

テーブルには蒼龍が注がれたワイングラスが置かれていて、『黄泉比良坂』はグラスを口に運ぶと命があちらこちらに散らかってしまうのを抑えるようにして喉を潤す。

手塚のグラスにも同じだけの時間がゆっくりと注がれてまるで生と死が等価値であるかのように錯覚をさせる。

会話の中に挟み込まれていた記憶が胃袋の中に収められていく。

「そうか。彼がこの場所に来て引き返すことの出来ない坂道を登ろうとするのか。よくわかったよ、『スタンドプレイ』」

彼らが来たこと自体が予期せぬことであるのだろうということは静寂ではなく騒めきを添え始めて空気の流れが変わっていることを『紫峰鳴海』と『カミブクロ』のテーブルに運ばれた虹色の光で包み込まれたメインディッシュは告げてくる。

「『不浄英志』、史上初めて産まれた『虹のエーテル』の持ち主。『魔術回路』が有用さという点で意味を為さなかった美の結晶。虹の光を生成出来る視覚制御の虚言癖。私たちは嘘を決して表には出すことがない。真理で幾重にも包み、マスを彫刻し続けている」

光を、反射を、鏡像を、概念を、不可視の現実を、テーブルに運ばれた虹の肺胞は細やかな歪みが枝分かれして表層を覆い隠すことで表現し続けている。

きっと、ナイフとフォークで簡単に壊れてしまいかねない刹那の芸術は、嫌味と嫉妬を媒介にして分子結晶まで至るほどに高度な思想の具現化に成功している。

例えば、歌は始まりから終わるまでの時間を現在から切断している。

例えば絵画は確認と遮断までの空間を現実から切開している。

例えば、文学は再生と停止の連続を思念から抽出している。

洗練の美学によって瞬間性を破壊し尽くすことでしか得ることの出来ない生命のオーケストラは故にこそ一分の乱れも許されることなく金の縁取りで装飾された陶器の上でのみ世界を完結させようとする。

「私にも出来ないことがあるのだとすれば、深い霧の中でも尚、出口があるのだと信じて疑わない薬理効果を生み出すことだろう。死が常に横たわっているのであれば、希望は最早、病そのものでしかない。夢は閉鎖空間でのみ実現可能な境界線上の狂気だと私は断言させてもらうよ」

『紫峰鳴海』と『カミブクロ』はほぼ同時に右手にフォーク、左手にナイフを持って虹色の光を霧散させ、到達点に関する誤差を修正しようとする。

「たぶん、その途端にあなたは私を必要としなくなるのかな。視覚だけが私の全てじゃない。けど、たぶんあなたが私を選んでいるのはそういう私を私以外と隔てている何かだと思うから」

芹沢美沙は真っ赤な木苺が『蜂』の口の中に運ばれていく様子を見つめながら答えを探そうとすることを停止する。

砂糖の量にだけ目の前のクレメが存在する気がしてしまい、明確な目的を手にすることがいつの間にか失われていくように既に口の中で溶けてしまっていることに囚われないように慎重に逃げ道を決定する。

もし、迷ってしまったらまたこうして木苺の甘酸っぱさを思い出せばいい気がしていることにちょっとだけ目眩を感じてしまうけど不明瞭であることそのものに留まり続けることを選びとる勇気を持とうとして会話を始める。

「彼女の名前をあなたが知る必要がないわ。けれど、『第七頸椎』が最初からなかった彼女を求めた理由は食事をすれば気付くことが出来るのかもしれない」

手塚と『黄泉比良坂』のテーブルにはいつのまにか『第七頸椎』と夏野菜のテリーヌが蒼龍の注がれたワイングラスと一緒に楽しんでもらえるように置かれていて二人が邂逅する瞬間を待ち構えている。

「二十一歳にして全てを理解していたと彼女は言われている。けれど、今こうしてぼくの口元に彼女のゼラチン質の憎しみが運ばれることまで理解出来ていたかは疑わしい。だから、ぼくはこうやって君に会いに来たんだ」

『黄泉比良坂』はにっこりと微笑みながら三つのテリーヌをナイフとフォークで丁寧に切り分ける。

僅かに残った髄液がバルサミコソースと混じり合う。

きっとその味を彼女は理解したいと思わなかっただけなのかもしれない。

「ねぇ、私は魔界に住んでいるから快楽の全てを享受出来るわ。あなた達人間が手に入れてしまえば狂い壊れ形を維持出来なくなるほどの享楽の全てを。あなたはとても優秀な人間ね。だから私を未だに手に入れたいと思っている」

「虚数の話を現実に当て嵌めてみるのは難しい。想像の領域にある数値を扱えることとあなたの実存を保証出来る術を少なくともいまのところぼくが知りえていないことを同じテーブルで話すのはとても難しい」

「私にはね、今、『非可聴領域』の奥底で奏でられている弦楽三重奏が聴こえていてテリーヌに最高の瞬間を添えているの。あなたには零れ落ちる髄液の憎たらしい苦味を与えている。この料理の完成形はいったいどちらかしら」

鼓膜が空気の振動を感じ取っている。

ガトーショコラの甘みにいっそのこと溺れてしまいたいと願うけれど、目の前の黒い眼帯の芹沢美沙とは白いテーブルクロスの分だけ離れていて彼女に触れたいと願うことすら疎ましく思い、そういう類のチョコレートソースの甘さが口の中に広がっていて、少しだけ深い酔いを覚ますようにしてホットコーヒーに『蜂』は口をつける。

カチャリ。

フゥー。

スタッ。

クチャリ。

カタッ。

ゴクッ。

ねぇ。

サッ。

クサリッ。

ピシッ。

なあに。

クチャリ。

カタッ。

「きっと余計なお喋りをしてもすぐに消え去ってしまうだけね、きっと今は」

『虹の魔術回路』を持った肺胞の欠陥は、『紫峰鳴海』に、『不浄英志』が誰かに伝えるべきことなど彼女は実は持っていなかったことを知らせようとしていて、微かな迷いで彼女の正常な肺胞を揺らし透き通った空気で肺を膨らませると、胃袋をネチャリとした肺胞の食感が吸収して『不浄英志』の生きてきた時間を『カミブクロ』の栄養分として血液中に循環させようとする。

「彼は街角で紙芝居でもする様に子供たちに『虹のエーテル』が作り出す奇跡を見せて回って生きたそうです。生涯、富には恵まれることなく紙芝居をみる子供たちの笑顔だけが彼の生き甲斐だった」

「薬物中毒患者は常にその幻の中を生きている。奇跡にすがりついていることすら忘れている。『不浄英志』は最も高純度の麻薬を配り続けていたんだ、少しずつ街中に死が侵食していってくれるように」

「そうですね、私たちはきっとマスが自己の意志を持って生きることを望んでいません。こんなことあなたに打ち明けてしまうなんてご迷惑かしら」

「私は一向にかまわん。正直に快楽に準じた生き方をすべきだ。何故なら私たちは持たざるものとは違う人種の生き物だからな」

気を張っていた『紫峰鳴海』の表情が少しだけ緩む。

『不浄英志』の最後の魔法が彼女にも届いてしまう。

マルゴーの赤い液体が彼女の喉を潤す。

『カミブクロ』の右腕のTAG HEUER Carrera Mikro Tourlbillonsが二十一時十七分を示している。

予約とは違う来訪者が割り込んできて青髭の思考に悦楽に関する小さな誤解と発見を産み新たな知覚の扉が強引にこじ開けられたことを理解する。

「絶望を誤解して給仕するところでした。謝罪します。西田様は後五分ほど遅れるそうです。最後のテーブルに最高のサービスを持ってご案内させて頂きます」

巨軀には不釣り合いなセットアップのスーツを着た『ゼツ』が黒いポーラーハットとスネークウッド製の杖を綾辻冬里に手渡す。

「いや、死織の言う通りならば、遅延は然るべき処置だと考えておこう。前菜は予定通り彼女の到着後によろしく頼む」

『『Cogito ergo sum』』のテーブルが埋まる。キュイジーヌで青髭が全霊を込めてテーブルを彩る決意をする。

少しだけ遅れて、西田死織が扉を開ける。

真っ赤な長袖のワンピースと赤いハイヒールに真珠の首飾りをした彼女が銀色のハンドバッグを『ゼツ』をテーブルに案内したばかりの綾辻冬里に手渡してクロークに預ける。

「ちょうど今し方お連れ様をテーブルにご案内したところです。私の本日出来るお手伝いはこれで十分でしょう。最高の食事とワインをお楽しみ下さい。きっと今宵は紛れもなく唯一無二の夜となることを保証させて頂きます」

「そうやろうな。実はこんなドレスは滅多にきーひんからウチは歩く速さですらまだちょっと慣れてへん。星の位置が変わってしまうだけでこんなに影響を受けてしまうやなんて考えつきもしーヒンかったわ。けど、お腹は空いておるよ。楽しみにしていますよ」

店内右奥のテーブルが埋められて青髭の提供するフルコースを食すべきゲストが揃いきる。

彼の調理する食材は常に人、人間である。

彼が路上で確認した人間を狩猟し、生命を奪い、その人間が持っているたった一つの部位を切り取って、彼が持っている調理に関する全ての知識と技能を持って対峙することで、狩り取った人間の思想、嗜好、知覚、認識を凝縮した流れそのものをウネリの中に封じ込めて提供する。

だから、『Cogito ergo sum』はこうして彼の食事を食べるべき時に、食べるべき人が集められた時にしか開かれない。

つまり、青髭が理解しているこの街の運動法則がカチリと噛み合ったその瞬間にだけ木製の青い扉は開かれる。

そして、その日最後の客である西田死織がテーブルに着席する。

「ぼくのほうが少しだけ早く着いた。君はいつだって遅れて登場するんだ」

「わかっていたことやロ。この色はそういう奴だけが身につけていい最強の証なんや」

たぶん、もしかしたら、この二人が人前で、表情筋を弛緩させて喜びを溢すのを見せるのは初めてのことかもしれない。テーブルには二人しかいないけれど、いつだってこの二人の食事はいつも誰かがどこかで見ているんだってことを今日だけは忘れることが出来ているのかもしれない。

「未完成であることを怖がるなんてあなたらしくないじゃないですか」

『黄泉比良坂』は三等分された『第七脊椎』のテリーヌの一切れをフォークで突き刺して頭の後ろに回すと彼女の灰色の髪に隠れた首筋が縦に割れてゼラチン状の神経素子をゆっくりと噛み砕いていく。

彼女の首の裏側にはおしゃべりで乱暴なことばかりを吐き出しているもう一つの口が目新しさばかりを気にして食事をしようとしている。

はしたない口に騙されるようにして、運命と呼ばれたまま絶命し冷凍保存された女性の切り取られた『第七脊椎』が『黄泉比良坂』の二つ目の口を満足させようとする。

「恐らく彼は大学時代の記憶を探すことにすると思うわ。何もかもを失ったと思ったその瞬間がずっと後をつけてきているの」

「例え、あなたであってもそれは身勝手な想像に過ぎない。結果がどうであれ、ぼくは『非許諾周波数』を解放し続けるだけです。飼育した蛾の話を食事中にするのはマナー違反ですか?」

「いいえ、そうは思わないわ。少なくともあなたは美しいものの話をしようとしている。喪失は常に食事の席に置かれて然るべき食材ね」

「けれど、京都はたった一夜にして変革を選び取った。この街もそうならない保証はありません」

「あなたはそれが怖いのね。とても珍しいこと。あなたが私ではなく人間であった証拠ね」

「あなたは機械にも人間にもなることができないから。ぼくたちはきっとこれからも自分たちを複製し続ける。あなたにはそういう生物学的問題が発生することはないでしょう」

手塚崇人は少しだけびっくりしたけれど、彼の言葉で『黄泉比良坂』の三つ目の瞳がちょっとだけ濡れていてそれが涙なのか別の現象なのかを理解する前に白いテーブルクロスの上が片付けられてコーンポタージュが用意されている。

とてもオーソドックスで基本的なスープをズズっと『黄泉比良坂』はスプーンで掬い取り灰色の血の気の失われた唇の元に運ぶ。

彼らのテーブルに笑顔ではなく血液と魂の問題に関する主題が運ばれて来るのは青髭が決して緊張の糸を途切らせることなく合流した運動法則を定義し続けたからなのだろう。

「あなたはとても酷い人。私はいつまで経っても苦しいままね」

十二分に、余白と停滞がもたらす緊密な時間を堪能したことを芹沢美沙と『蜂』は目を見合わせて了解し、席を立つ。

「ねえ、あと少しだけお酒を飲もう。たぶんね、夜は私たちがここから抜け出すお手伝いをしてくれると思うの」

芹沢美沙は少しだけ暗い雰囲気が夜を真似て追いかけてくるのはもしかしたら『蜂』がこっそり仕掛けた音と音の連結している様子が耳の中にこっそり侵入したからなんだろうと考える。

だとしたら彼女たちに必要なのは食事を始めた時から感じている触覚に関する不確かな憂鬱で『蜂』は芹沢美沙の鼓動からそれを感じ取り指先を重ね合わせて手を繋ぐ。

「タクシーはもう呼んであるわ。追いかけてくる時間からしばらくの間身を隠しましょう。鬼の仕業ね、心拍数が早くなってきている。後はゆっくり眠るだけ。それまでのちょっとしたお楽しみに堪能することにしましょう」

またテーブルが一つ開く。

何もかも充足した状態を少しでも避けていられるように不完全なものがこの場にいることを許容出来るように、芹沢美沙と『蜂』は『Cogito ergo sum』を二人で手を繋いだまま退出する。

「それで珍しく赤いドレスなんて着る理由がデートに遅刻する為だけだった訳じゃないんだろう。君がぼくに会いに来る時には明確な目的が存在している」

「そや。『ガイア』は3C279の高赤方偏移環境を通過中。だから、うちは今、惑星干渉領域に入っていて能力的には普通の人間とは完全に隔絶されている。魔人と呼ぶのが適切やナ。『ゼツ』、お前と食事をして人生を楽しもうとするのならば確かにベストなタイミングかもしれへん」

「つまり君は誰かと恋をしたくなっている。乱雑さに向かわずにぼくを思い出した理由はどうしてなんだい」

「声が聞きたくなったから、と言ってしまえば、お前はいま口にしようとしているテリーヌを夢の形に合わせようとするやロ、そんな夜はもう何度も過ごしたはずや。どちらせよ西田新天流の奥義はまだ二つも残っているンヤ、地上でできることをまだ終えてへん。地下深くまで戻って誰も知らないところで息をする必要はないと思っとる」

テーブルの上のオードブルを丁寧にフォークとナイフで切り分けて口に運び、洗い流すようにして透明な葡萄酒が胃に運び込まれる。

細胞の一つ一つが呼応するようにして活性化する。

生命のやり取りを青髭の提供する料理を通じて堪能している。

此処にはまだいられるはずだ、中央のテーブルの『牡丹』と『咲耶姫』は限られた時間が終わりを告げることを恐れてひとひらだけ白いテーブルクロスの上に花弁を落とす。

「癌細胞というのを知っていますか。私たちの一部が劣化することで別の可能性を提示しようとする進化の可能性を有する化学反応と私は呼ぶことにしています」

「強烈な負荷をかけると正常性を維持する為にランダムな配列から恣意的な部位が私たちから切り離される。乖離した人格が位相をずらして世界を分岐させる」

「薄い膜が幾重にも重なり、向こう側の私は私と同じ形をしながら憎しみをばら撒いている。劣化した細胞の行き先を知ることが出来たら私たちは救われるでしょうか」

「いや、快楽と苦痛に本質的な違いは存在しないはずだ。涙が乾いてしまう前に快楽によって蹂躙される。祈りが筋繊維や神経組織と接続された形態を取るのであれば幽体は永遠に層状の膜の隙間を誰にも会えないまま彷徨い続けるだけだろうな。けれど、確かに、それでは、私の素顔は」

『紫峰鳴海』に追い詰められるように『カミブクロ』は正体を暴かれることを恐れ始める。

デセールに選ばれたのはチーズケーキだけれど、『カミブクロ』は一口も口につけようとせず、クククッと茶色い紙袋と皮膚の隙間から笑い声を漏らして記憶が飛びかけて苦悩に本性が歪められようとしていることをどうにかして隠そうとする。

「珍しく困惑しているようですね。あなたが顔を隠したきっかけを思い出す必要性はないかもしれませんが、火傷は火ではなく風が引き起こす病なのですよ、べっとりとあなたを追いかけてきている」

「喉が焼けつく。葡萄酒で潤しても、淫らに過去を求める。私の傷痕はそれぐらいのものだよ。困惑というほどではないんだ」

とにかく京都でのあなたの功績は今後『フリープレイ』の戦局を大きく左右させるでしょう。だからこそ、私たちは科学技術特援隊の弱体化を進めるべきです」

「彼女がいるというにも関わらず君は遠慮なくそんな話をする。『赤を征圧するもの=チルドレンオブチルドレン 西田死織』」

「彼女ならば、他の出演者たちと同じで優しさを抱き続けています。心配する必要がないのでは」

「不安の種は撒かれることがないまま終わる。私はその心が休まる瞬間を手に入れたい」

「あなたにはきっと『トト』"だけでは不十分。『ルナハイム」に『グラビトロンカノン』を奪われるわけにはいかない。大人がハンドルを握り、社会を運営する、子供の戯言を許容することは私たちの敗北を意味します」

「また君は恋を忘れようとするのだな。師元を愛そうとするのか。少しだけ同情する。彼は──喰らうもの──だ、確実にナ」

『カミブクロ』と『紫峰鳴海』に提供されたコースが幕を閉じようとする。

『紫峰鳴海』がジャコウネズミの香りを黒い液体から感じ取ろうとする。

赤いドレスが封鎖された日常を演出する。

灰色の髪が決してもう元には戻れない事実を伝えようとする。

何もかもを数値に置き換えていた『スタンドプレイ』が、たった一つだけミスをすることを願われる。

「鮎のコンフィには寂しさとも劣情とも違う束縛を感じてしまうわね」

「女性に騙されることを悦に感じて騙すことを罪悪だと思いもしない『Loveless』はさすがにこんな所まではやって来たりはしませんよ。とても流行っている。すぐに通り過ぎるこの街で」

「流行り廃りのことは私には分からないわ。いつもと同じ風景が形を変えているようにしか思えないもの」

「素直に鼻で笑えないのは聖者が街にやってくるからでしょうか。嵐でもやって来る。そんな気がしてしまいますね。こんな季節に」

中央のテーブルの『牡丹』と『咲耶姫』は足りないものを教えてくださいという空の上に最後の時間を告げている。

夜が深まる。

青髭の食事はとうとう彼らをアップデートさせる。

「鮎の形を崩さずに食べ尽くすなんてあなたは贅沢すぎるんじゃないかしらって意地悪なことでも言ってしまいたくなるわね」

表裏一体という言葉がある。

表でとても複雑な様相を示そうとする形はとてもシンプルに暴力を求めている。

冷たい場所で抑えられた怒りは熱さに耐えきれず噴出し爆発する。

あれだけ強く求めていたのに素直さは消えてしまい包丁の刃先の血の色に迷いを乗せてしまう。

私が私であるという事実は、私自身を定義し続けた後に運動法則の中へと回帰してしまう。

「正義にも悪にもなりきれないと私の分身たちはあなたのことを罵ると思うよ」

「だから、ウチはこの場所を譲るわけにはいけへん。ウチがこうして産まれたことを恨んでいる訳ではないと言いたいけれど、お前がやっぱりそれを許さないようにして現れ続ける。あってはいけないものを見つけにやって来て仲間になれと媚を売るンヤ」

「私は自分の能力や地位に関わらずやるべき果たすべき役割を常に選択しているだけに過ぎない。それを『絶望』と呼ぶ大衆が愚かだと断言することしか出来ないのでは」

「西田新天流が全てを覆す。待ち侘びた瞬間を、革命の時を、何かが変わるその時を、掴み取る。ウチにはその役割が重たくてしゃーない。けど、ウチには出来てしまう」

「まさか神と邂逅して尚、恋をしようとする超人がいるなんて誰も夢にも思わない」

緑色のスープはパンで拭い取られる。

『Cogito ergo sum』から少しずつ聖性が失われていく。

食事によって達成されるべき目的が提供され尽くそうとしている。

けれど、まだ終わらない。

青髭は最後の仕上げに取り掛からなければならない。

「お前のハ見え透いた希望や。うちらが粉々に淡い夢を砕いてやらんとあかんときもある。ちゃんとうちのことまっすぐミロや。ほなら、伝わるやロ」

「でも三つ目の目を持っている女になんて欲情するかしら。私は興奮しても唇が灰色だわ」

「私は確実に未来を与える『マンドラゴラ』を栽培し採集し流通させ購入させる。永遠に呪縛から解き放つ救いを与えることすら考えていない」

丁寧に何か特別な『スタンドプレイ』で二百六十一等分された鮎の形が細かく裁断され過ぎて味覚に刺激を与えようとするのを辞めようとする。

けれど、手塚崇人が数値化したかったのは『黄泉比良坂』の首の後ろで大きく口を開けている彼女の言葉だったのかもしれない。

「あなたに同情は似合わない。帰り道で後ろを振り返っただけで呪い殺そうとするんだ。二つ先の円環で踊っているあなたにこのまま会えなくなったとしても」

鮎が満たした誘惑を忘れて欲しいとテーブルの上にはミントが添えられた夏蜜柑のソルベが置かれる。

距離が感じられないほどに冷たくてけれどどこか懐かしくて、このまま残しておくと離れるのが怖くなりそうなそんな甘酸っぱさが口の中に拡がってどちらを選べば優しい答えだったのかわからないと終えたばかりのポワレが語りかけてきたことを静かに馴染んで今まで考えていたことがクリアに掻き消されていく。

「私は今、とても不幸なのよ。分かるかしら。もし、この先にあなたしかいないのだとしたら、会うことが出来ないあなたが待っているだけなんだとしたら、私は進むべき道を失ってしまうわ」

「そうやって、師元乖次の恋人であった──田上梨園──は鐘のなる校舎で自殺を選んだ。永久にこの世界から姿を消してしまった」

「魂の問題を簡単に解釈するのであればそう答えるのが理想的ね。幻をないものだとすることは歯車の動きを乱さない為にも必要な行為だわ」

「とはいえ、いつも狂信的な連中は基本的な原則の外側を大切にする。見えないものの存在を信じようとする。到達点はまだずっと先にあるんだって疑うことがない。その身が焼け焦げてしまおうとも」

ふふと小さく笑って『黄泉比良坂』は赤ワインに口をつける。

少しだけペースを調整して欲しいってキュイジーヌから弱音が捨てられて、カジキマグロがマッシュポテトの上に乗せられる。

ソースにはバルサミコ酢をベースにいくつかの野菜が彩りを加えてもう一つのテーブルに向かうべき皿の準備が整えられる。

消えてしまいそうだった道筋が青髭の絶え間ない集中力によって呼び戻されて綾辻冬里はほっと一息をつき、最高難度の迷路を抜け出すことが出来た喜びを添えて、店内右奥の白いテーブルクロスに規則性が不規則性を凌駕した瞬間が訪れる。

「赤いドレスを着るときは嘘をツカナあかん。とても基本的なルールやけど、女はそれを知っているンヤ」

「ほら。君は怪物なんかじゃなかっただろう。何もかもひっくり返せるなんて戯言を信じているのは君のほうだ」

「そや。忘れそうになってマウ。たぶん天使みたいな答えを。『白い閃光』には会うことが出来なかったンヤ」

「チルドレ☆ンになる必要がないと告げられただけさ。殉教することを選ぶほど君は地上からかけ離れた存在ではなかったんだ」

キュイジーヌでは仔牛と──田上梨園──の冷凍された思い出の一部が丁寧に混ぜ合わせられ小麦と少量の水で不確かな結合をグルテンによって繋ぎ合わせられていく。

ソースパンの上ではとても弱々しい火力でホワイトソースが温められていて怖がらなくていいんだってことを告げる瞬間を待ち詫びている。

金色の縁取りがなされた真っ白な皿の上には、ブロッコリーと人参が添えられたまま主役の登場の為の儀式を既に終えている。

「ならばうちは未来を選び取ろう。当たり前やけど、いつも一番難しい選択になるンヤナ」

『カミブクロ』は大きく溜息をついて、席を立とうとする前に『紫峰鳴海』に大切な言伝をする。

「『トト』の原型は四十番代だったな。理由はどうあれ、会いにいくつもりか、君は。私は必ずノアを打ち砕くぞ」

「ええ、いずれそうなるでしょう。『執務室』開発室の最も逸脱した醜悪さの極み。人間であることを放棄したものたちへと極論。だからこそ、欠番となった四十九番には佐々木和人が選ばれた」

「ふふ。おしゃべりはこれでおしまいだな。私たちは私たちの仕事を成すことにしよう。今日はとても楽しい時間だった、ありがとう。礼を言う」

こちらこそと手を差し出して握手をして二人は立ち上がる。

クロークには綾辻冬里が待ち構えていて二人に手渡すべき荷物を返すと、出口まで案内をし、適切な姿勢で二人を見送る。

「ありがとうございました。シェフ共々お二人の前途を祝福させて頂きたい。特別な夜に特別な食事を提供出来たことを光栄に思います」

右手を心臓の上に添えて会釈をする綾辻冬里に軽く手を振って『紫峰鳴海』と『カミブクロ』は腕を組んで渋谷の明るさがまだ残っている場所へと消えていく。

綾辻冬里はまるで軍人のように規則正しく礼儀正しく姿勢を崩さず『Cogito ergo sum』へ舞い戻る。

最後の戦いがまだ青髭を待ち構えている。

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