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12. Perfect Me

十七階のサーバーに光回線を通じて送信された情報が適時記録されていくデータが古いものから新しいものへと書き換えられている。

芹沢美沙は珍しく左の眼帯を外し、周波数帯域を調整することで関係者以外立入禁止エリアで大手通信業者が扱う機密情報にアクセスしようとしている。

「多分ね、左眼が意志を持って私を導こうとしている感覚は信じられないけれど、本当だと思う。近くにあなたによく似た人がいるってことがわかるから。けど、ほんの少しの違和感が私の存在をデータに溶け込ませて希釈されているような気持ちになってくる。『彼ら』が求めているものがなんなのか少しずつ私は理解できるようになってきた気がするんだ」

大和艦内の至るところからありとあらゆるデータが集積されているサーバルームがあるのは高層ビルが建ち並んでいるあたり一帯でも一際目立つ二百七十二メートルの超高層建築で、まるで悪意も善意も0と1の信号に還元してしまうことで意味と無意味の区別とすらなくしてしまった情報という不可視の現象そのものに囲まれた場所では自分という確実であるはずの信号ですら曖昧になってくる。

吐き出した言葉が見知らぬ場所で光を求めてうずくまっている暗闇に向かって収束していく。

「ぼくは今、地下の牢獄で収監されている。君と同じように欠けたパーツを探して歩いているぼくの思念がいつまでも幼いままでいようと止まり続ける君を救い出そうとしているんだ。それはきっと複製されたデータとしてどこかにしまいこまれているのかもしれない。なぜかオリジナルだけを求めて足掻き続けているぼくを嘲笑うようにして」

この場所にいつから閉じ込められているのか既に分からなくなってしまったまま暗闇を反響する音で残心によって前に進もうとする大人たちともう夢を忘れてしまった子供たちの争いに巻き込まれていることに気付き、どうにかして抜け出そうとするのではなくかつて瞼の裏に映っていた光がとても恋しくなった思いを抱きしめようと願いながら、斉藤誠は少しずつ過敏さを増していく聴覚が誰よりも愛おしい声を簡単に掴み取ってしまえることにちょっとだけ迷いを感じてしまう。

受け継がれてきた意志を抱えて進化してきた人間という存在そのものを超えることに囚われたままぼくたちに与えてきた脳髄の拡張実験によってぼくは認識と知覚を光が失われる前に持っていたものとは別次元の状態へと移行し始めていることを全神経で感じ取りながらも、過負荷を与えることで最大限の効率と効果を得ようとしてきた開発者たちが目指した人類の究極的進化とはどういう意味で捉えるべきなのかをとても久しぶりにゆっくりとたっぷりと時間を使って思考を重ねて暗闇の傍で寝転ぶ牢獄でたった一人であることを十二分に噛み締めているとひっそりと研ぎ澄まされた感覚がぼくを求めていることに気付いてしまう。

──ぼくは死っていうんだ。名前を覚えられてもきっとすぐに消えてしまうんだな──

とても冷たい暗闇がぼくの周りを包み込んでいる。

コンクリートと鉄格子が周囲を満たし始めた霊気によって温度を加速度的に低下させながら、五月の半ばだというのに、眠りの友人が傍にきているということを確実にぼくに伝えてくる。

『意識の非音声化』及び『非可聴領域』で行われている思考の接続は現在遮断されている為か、孤独、と呼ばれる当たり前に人が感じる感覚をとても大切にしたまま決してどこにも逃さないように丁寧にぼくは享受している。

刹那の覚醒が狭間から抜け出してくるようにコツコツコツコツという足音と供にガリガリと床を硬質な素材によって擦られる音が響いてコンクリートの壁に反射して無機質と区別のつかない反復運動が近づいてくるのを感じ取る。

余分な情報認識によって抑制されていない為に処理能力が通常よりもクロックアップされている海馬が聴覚野を極限値まで導いている影響で反射した音響が正確に感じ取れ、どのようなルックスの人物が近付いてきているかどうかまで象徴として捉えることで、ぼくの脳髄が想像によってイメージを無限大に膨らませていく。

恐らく合皮で出来た男ものの革靴を履いた人物が鋼鉄で作られた一メートル五十センチほどの円柱状のものを引き摺りながら百七十センチ後半の身体にも似合わないとてもサイズの大きいロングTシャツをきて太めのバギーパンツを履いてゆっくりと近付いてくる。

顔のかたちまではわからないけれど、頭部に当たる反響音が鈍ってウネリを与えていることからヘアスタイルはショートパーマを掛けて縮れていて推測の範囲でしかないけれど、その男はニヤつきながら鋼鉄の円柱を引き摺って、聴覚が極度に過敏になったぼくのいる牢屋の前まで近付いて立ち止まる。

三秒後、鼓膜が鋭敏性を最高度まで高めた状態のぼくに突然聴覚そのものを引き裂くような金属と金属がぶつかり合う衝撃音を伝わってくる。

耳を塞ぐのも忘れて振り絞れるだけの渾身の力で鉄と鉄をぶつけ合う破裂音がコンクリートで囲まれた空間に反響して幾重にも重なり合って馬鹿馬鹿しくなるほどの爆発的な音像が支配する空間を加算合成された波形の渦に埋もれさせて、ぼくは彼が伝えてこようとしている言葉を破壊的な音響空間の中で拾い取りできうる限りの意志の疎通を計ろうとする。

「零二零だね。鋼鉄製の鉄格子を捻じ曲げてしまうほどの君の力は伝わった。ぼくに協力をしてくれるのかい?」

金属音の高音から低音までが万遍なく暗闇の空間を走り回って中域に発生している余白として生まれた隙間を縫うようにしてぼくは彼に伝えるべき言葉を送信すると、ぴたりと破裂音が鳴り止んで高音域の倍音だけが居残ってゆっくりと静寂の中へと溶け込んでいく。

彼は何度も金属パイプを振り回した後だというのに一切息切れなんてせずに口を開いて呼吸音と唇の動きがもたらす微かな摩擦音だけで言語のようなものを介さずに交信を実行すると、生者であるぼくと死者の使いである彼とのコミュニケーションが遥か彼方から訪れたという事実を異文化間で饒舌さを排除して成立させる。

──後二分任せてくれたらこじ開ける──

死の代理人は怪力を自ら保証するのと同時に、ぼくが強引に脱獄をする必要性などないことを予め理解している様子を伝えた上で茶番じみた自己紹介をする。

「そうだね、君ならそれぐらいの余裕はありそうだ。けれど、田辺先生から渡されたものがあるはずだ。そいつをぼくに渡してくれ」

大きなTシャツの男は大柄な手をバギーパンツのポケットに手を突っ込み金属製の直径五ミリほどの棒を取り出してぼくに手渡す。

言うまでもなく当たり前の話だが、ぼくの聴覚はもはや視覚に頼る必要がないほどに研ぎ澄まされ形と位置を正確に判別出来るレベルにまで発達している。

過剰な負荷と規則的な訓練。

喪失と獲得に必要な装置が一分の狂いもなく発動することでインストールされた経験値による欠陥の反転が隅々まで行き渡っていくのを感じとる。

──『リトルガール』。渡してって──

手渡された三十センチほどの金属棒はぼくの意識と呼応して一メートルほどの長さに変わると刀身に当たる部分に高熱が発生し、あっという間に摂氏三千度ほどに達する。ぼくは右手で『リトルガール』を振り抜いて鉄格子を切り裂く。

脱獄というには大袈裟な、自由というには当然の、解放というには必然すぎる断絶が訪れると、ぼくがぼくの意志を持って身体と脳の動きを制御出来ることを再確認させ立ち上がり、以前に牢屋と呼ばれた空間の外に足を踏み出す。

「ありがとう。彼のいる場所に心当たりはあるかな」

──表にバイクを止めた。高速に乗る──

いいかい、忘れてはいけない。大人への階段は産まれた時に既に登り終わっている。

子供と呼ばれる性別も人格も才能すらも必要のない混沌の領域を覆い囲む術を忘れてしまえる人間などいる訳がないんだ。

お前は母親の乳房を吸い、父親に頭を撫でられた経験を知らないかもしれない。

けれど、Hello Worldと入力された最初の信号だけは記臆野に保存されているはずだ。

思い知るんだ、最初の記憶と最後の記憶だけは決して捨て去ることは出来ない。

お前は永久にお前の分身を抱えたまま俺の傍に居続けることが出来るんだ。

思い知れ、思い知れ、お前は俺のものだ。

渋谷警察から外に出るには何の障害もなく、誰一人ぼくと『衣笠祥雄』を阻む警官などおらず、すんなりと抜け出すことが出来て、警察署の前には黒いNINJAが止まっている。

ぼくは国家権力に押収された『不知火』のかわりに、『リトルガール』を得て、NINJAに跨ると、後部座席に『衣笠祥雄』が座ってくれる。

ハンドルにぶら下がっていたたった一つの黒いヘルメットをぼくは被り、エンジンキーを右に回してNINJAに火が灯る。

「知っての通り、ぼくは全盲だ。君の分が見当たらないけど、それでもヘルメットなど被らずぼくについてくるかい」

──イエス サー──

首都高速までの道のりは、通り過ぎるセダンの排気音、大型トラックの大口径のタイヤの摩擦、信号を渡る通行人の足音、風が街路樹に優しく触れる音、ビルとビルの隙間から聞こえる幽霊たちの騒めきから過敏な聴覚が動き回って正確に詳細に必ず把握出来てしまうはずだ。

だから慌てることはない。

グリップを振り絞りエンジンをふかすと、衣笠はぼくの後ろから手を回ししがみつく。

スタンドをあげそのまま二四六号沿いから首都高速へと向かう。

クラクションが鳴らされる。

生命がアスファルトに衝突して体温が冷える感覚がすぐ傍にいるのだという事実を手渡される。

反対車線を時速八十キロで走り去るバイクがすれ違い、行き先を間違えることの重要性を正確に伝えてくる。

「六本木通りからそのまま首都高に入る。もはや色、つまり光の反射はぼくの世界から消えてしまっている。が、やつは、『赤い蝙蝠』はそこにいるんだな」

──イエス サー──

渋谷から上り方面入口のインターで黒いNINJAを加速させ、クラクションとアクセルブレーキの波の中へと飛び込んでいく。

暗闇、けれど、スピードの向こう側で無数の反射と反響がぼくの存在を浮き立たせる。

威嚇射撃が一斉に放射され、周囲を敵機に取り囲まれているのに気付く。

軽油の臭いが立ち込めて威圧感と風圧がアスファルトとタイヤの摩擦をさらに刺激して背筋が凍りつく感覚がピタリと離れずにつきまとっている。

低音がきっかけとなってぼくのそばに、ぼくの後ろで、寄り添いながらタンデムをしているのは死そのものだと気付く。

クラクションとアクセルブレーキの波が幾重にも襲いかかってくるけれど、そのたびに訪れる音の隙間がぼくの行き先を提示しているようで、ハンドルと細やかなグリップ操作だけで辿るべき方向を確実になぞりながら、環状線がぼくを受け入れ始めてくれるのを確認すると、周囲が規律と規則によって制御された正しさそのものが立脚している風景へと切り替わっていることに気付く。

いつの間にか無数の排気音の流れの中に混じって明らかに異質さを示しながらも地面スレスレを這い回っている征服と蹂躙の象徴がぼくの首元に食らいつこうと身構えている姿を意識の中に混入させる。

「フェラーリだね。順当に行けば赤い車体。けれど、彼の排気音から自己顕示欲の臭いがしない。夜の皮を被っているのか」

──了解。追いついたら破壊する──

アクセルを全開にして奪われた視界が音の波間によって制御されていることを忘れてしまわないように、独特の排気音を誇示しているにも関わらず外界から完全に遮断された閉鎖空間へと距離をゆっくり縮めていく。

一瞬だけ、本当に一瞬だけ、欲望の王者の匂いが漂う排気音が緩んだその瞬間に、赤いブレーキランプが前方で照射されたことがきっかけになり視覚野に保存されていたはずの色の記憶を刺激して、『睦業リンネ』が前方へ現れたことを全神経素子で感じ取る。

愉悦に浸りきることを手に入れた者がすぐ真横で不敵な笑いを浮かべているのだと理解した瞬間にぼくにしがみついていた手が離れ、ぼくの頬の真横を過ぎ去る突風を切り裂くようにして重金属の振り回される反動が心臓と鼓膜を刺激してドーパミンを限界まで放出する。

後部座席に座っていた『衣笠祥雄』がフェラーリの後部ガラスに向かって彼の持つ鋼鉄のパイプを振りかざしたのだ。

ガキィーン。

金属が跳ね返された反動でNINJAの挙動が一瞬だけ失われて、ハンドルが揺れ動く。

ずっと傍に寄り添い続けながら鼻息を荒げている死とほんの少しでも油断して気を抜いた瞬間に一つになってしまわないように両腕に力を込めてバランスを取りアスファルトとタイヤを平行状態へと呼び戻す。

──もう一回やれば割れる。あれは夜がへばりついているだけ──

「おーけ。ぼくも男と心中する気はさらさらない。特別な装甲で迷彩しているのか。いつか深夜テレビで見たクールなマシンのようにミサイルでも打ち込んできてしまう前に蹴りをつけよう」

ぼくらが希望的観測について話し合いをしていると、煙を吐いている高熱が飛びついてきて焦りと憤りを誘う。

すっと首を傾けると、煙草の臭いが鼻先をかすめていく。

気が付いた時にはまた車線一つ分向こう側で挑発をしようとする狩猟者が待ち構えている。

「目がみえへんのに、高速を走っとる。なんや、殺人の次は自殺が趣味になったんか。ほんま取り憑かれておるの、死神に。赦しを乞うたらどうや」

「もう少しエゴの塊みたいなものだと思っていましたよ。こんな場所にもあなたは溶け込めるんですね」

ぼくが話し終わるのと同時に『衣笠祥雄』は鋼鉄のパイプを振りかざしていてまた冷たい無機物が宙を切る音が時速八十キロメートルの世界に介入してくる。

『睦業リンネ』はアクセルを踏み込むと、緻密に計算され尽くした排気干渉を起こすことのない等間隔爆発と一緒にぼくらを置き去りにしようとする。

後部座席では『衣笠祥雄』がまるでとても関節の柔らかい人形みたいに遠心運動と一緒に踊り続けている。

彼はとても無邪気に笑っていて、命を弄ぶことをなんとも思っていないようだ。

もしかしたら、このまま後部座席から滑り落ちて、アクセルを緩めることなんて考えたことがない夜の鉄騎たちが彼をぐちゃぐちゃに轢き殺してしまったとしても彼は笑い転げたまま絶命してしまうかもしれない。

けれど、このままでは『赤い蝙蝠』に引き剥がされてしまう。

嘘で覆っている車体は特殊な装甲で覆われていてローマが世界の王者であった時代を決して汚すことのないスピードと洗練が生み出す排気音によってぼくらを時計の外側に追いやろうとしてしまうかもしれない。

死者がこっそりと都市の中に埋め込まれて恐怖を忘れてしまわないようにするために、ぼくたちは規則的な時間に抗う必要があるんだ。

歯車の局地とも呼べる赤い騎馬が完成と未完成の違いを見せつけようとしてくる。

ひと時たりとも気を抜くことが出来ない。

完全であるということはいかにして暴力を制圧できる可能性があるのだろうかということを知らしめようとしてくる。

けれど、そんな風にしてD地区に張り巡らされたほぼ完全な円による結界の外縁をぼくらは走り回ることでしか抑圧なんて微塵も存在しない完全性にしがみつくことは出来ない。

赤い車体はとても力強い輪廻の中に餌をばら撒いて引き摺り込もうとしてくるに違いない。

高速運動の中で浮遊する歯車が解体されることなく、停止した運動性を略奪することが出来るのかどうかをカワサキ製のH2 SX NINJAは試されている。

「彼はきっと権威性を貶めることはしない。だから、一番外側で光の渦を堪能しているはずだ。早稲田を抜けて邂逅することにしよう。彼が進路を変えることは決してない。それが王者が王者たる所以だからだ」

順当に行けば、池袋線を抜けて中央環状線に戻り、千住新橋あたりでまた征服王の臭いを感じ取ることが出来るはずだ。

おそらくこの夜でその場所だけたった一度きりのチャンスが訪れることになるはずだ。

刹那の邂逅の最中で、ぼくは『リトルガール』と一緒に三千三百八十度の高熱エネルギーによって彼を地上へと引き摺り落とす必要性があるはずなんだ。

丸眼鏡は平和の象徴だろう。

彼はぼくの認識に割り込んで記憶野を操作してきていた。

おそらく、それが彼の保有するエーテルの効力なのだろう。

唸るような風切音が通り過ぎる。

ぼくの傍を駆け抜けていく無機物がTOYOTAなのかNISSANなのかを排気量と排気音と立ち込めるガソリンの匂いだけで感じ取れるぐらいに少しだけ余裕を取り戻して、ぼくは分岐したルートを間違えて刹那を選び取ることが決して出来なくなってしまわないように、動力源が伝える回転運動を舗装されたアスファルトにぴったりと吸い付かせる。

「ようやく繋がりましたね。なんという暴挙。時速八十キロ以上で移動していること事態が予測不可能ですよ。『φ』が全力で赤い悪魔の座標を捉えることを支援します。狂気の発動を抑制なんてしなくてよかった。あなたはいつもあなたの思う通りに動けるはずだ。神経接続を開始します」

「こちらも接続OKです。『Ω』はシナプスを連結させます。電圧、電流、電荷に問題なし。行きます」

「はいはーい! 『γ』だよ! 右のハンドルグリップの下部にあるボタンをポチッとな。NINJAは東條家の御子息が用意したものです! 秘密兵器が仕込んでありますよ!」

ぼくは右のハンドルグリップの下部にある突起物を右手の中指で押し込んでみる。

エンジン音が切り替わり、車体にかかる負荷が大幅に軽減される。

前輪のフレームが変形する音がして車体の形状が純正のNINJAにはない空気抵抗を産み出している。

「ほら、いった通りだ。やっぱり見えた方がいいに決まっている。これ作るのに結構お金がかかっているんです。武装に関するチュートリアルを受けちゃいますか? YESなら『衣笠祥雄』君に鋼鉄パイプを振り回してもらってください。『Υイプシロン』からの忠告終わり」

ぼくは『衣笠祥雄』に合図してまたバッドラックとダンスを踊るように指示をする。

もし彼の手足がほんの少しでも短かったり、長かったりすれば、高速を駆け抜ける不運と幸運の女神に身体をねじ切られ、彼の不自然な法則性は孤を描くことなく地面に落下してしまうだろう。

「いいね! それなら『Σ』も全力支援! 生命なんて大切にする奴に協力なんてしたくないから! まず左グリップの親指あたりにボタンがあるね。それが前輪の機銃。六十二式七・六二ミリメートル機関銃だから威力はそこそこだけど、威嚇と牽制ぐらいには役に立つ。もし高速道路で走行中にぶっ放す覚悟がお有りならどうぞ。けど今日は必要ないのかな。落ちている敵意を拾ってしまうような余裕はないだろうけどもし良かったらご自由に」

少しだけハンドルを左に傾けてボタンを押し込むとズダダダっという爆発音がしてどこかのスチール製の看板に穴が開く音がする。

威力に申し分はなさそうだけれど、赤い悪魔には傷一つつけられないだろう。

「ウイーン。ぼくはロボットに変形頼んだのにナー。予算がかかりすぎるってさ。ヘッドライトにトリプレット効果を使用したレーザービーム! もつけてあるよ。まあ、レールガンとはいかないけどさ、進行方向の障害物程度だったらタングステンだって一撃で粉砕するよ! 名付けて、『必殺竜星撃滅光線』。ちゃんとボタンを押すときに叫ぶんだよ。左手の人差し指で押し込めるはず! あ、ぼくは『νニュー』よろしくね!」

直線上に位置することを高速移動の中で特定することが出来るのならば征服と蹂躙の象徴はレーザービームを弾き返すことなく爆発を引き起こすかもしれない。

ぼくは手渡された革命的機構がぼくを新しい世界へ導こうとしていることにちょっとだけ興奮する。

「おぼっちゃま。可変構造は私たちの仕事ではおそらく難しそうですね。これは『原動機』の再利用によって産み出された改造バイクです。『HANZOU』と呼んでいただければ整備士たちも喜ぶでしょう。ζクサイとお呼びくださいね」

『HANZOU』は五号池袋線を抜けて中央環状線上り方面へ合流する。

車の流れが変わり、少しずつ脅威が近づいてきていることを自覚する。

きっと、完全性を地上で手に入れてしまった高速構造機構体は不意に訪れる破壊と破滅のことなんて気にもしたことがなかっただろう。

ぼくは思わず笑顔を浮かべてアクセルグリップを少しだけ蒸して到着の合図を首都高速環状線道路をひた走る鉄の塊に知らせると、存在を誇示しながら狂気が発動する可能性を出来る限り押さえ込もうとする。

これが統制された意識の力だと言っておこう。俺たちは全員バラバラの意志で統制されている。決して『Ω』を許容することがないのだとしても『α』はきちんと役割をはたす。ギアボックスがもう一つ追加されているぞ。ピリオドの向こう側へと誘おう。裸になれば、見えるものもちゃんとあるはずだ」

「『θ』は常に記録任務を続行しています。山あり谷ありといったところでしょうか。王子南を通過します。いよいよ到着です。すいません、少しだけ私情を挟んでしまいました。私たちもやはり人間ですね」

『HANZOU』はさらに加速して、百二十キロメートルまで速度をあげる。

オービスがぼくらを捉えようと至る所で待ち構えているけれど、その度に、『衣笠祥雄』は鋼鉄パイプを振り回し、まるでこの街を支配する運動法則から逃れるようにして不規則性を追加して都市構造の中に潜んでいる絶対速度である光の運動の位相を少しずつずらしていく。

限界なんてないんだってことをぼくに寄り添っている零が告げてくることを決して受け流すことなく何もかも受け入れて、変化し続ける形の奔流を劣化した普遍性で統率しようとする強固な意志に向かって移動し続ける。

「右手には荒川。左手には中川がございます。前方約五キロメートルから対象が接近中。およそ十二分後に、最接近をするものと思われます。『ρロー』はGPS情報に基づき視覚補助を担当させて頂きます」

基準値を上回る『アセチルコリン濃度』の上昇が確認されているようで、脳髄のシナプス結合による記憶と感覚の連携が慌ただしく行われ始めている。

どうやら電波障害のようなものは確認出来ず、現在のところ、通信手段をリアルタイムで解析しながら問題なく意志の疎通ができて座標を見失わずにいられるのはおそらくぼくのヘッドインセプターたちのお陰なんだということを改めて受け入れる。

もしこの空間で異質さを維持し続ければ、確実にあと八分後には、『睦業リンネ』はぼくと接触することになる。

けれど、おそらく夜をまとったフェラーリには耐衝撃性が限界まで引き上げられているため、直接的な物理攻撃はなんの意味もなさないかもしれない。

「当然ながら、ここからは自動操縦に切り替えます。私たちがすでに『HANZOU』のハッキングは完了させて頂きました。五分と三十秒後に、あなたはこのバイクから飛び降りて直接『リトルガール』で高熱反応によってフェラーリの車体を溶かす攻撃に切り替えてください。大丈夫、飛べます。あなたなら追いつけるはずです。『φ』の送信を統括指令に切り替えます」

命令と指令を完全に理解して、ぼくは『HANZOU』のハンドルからゆっくり手を離す。

速度は変わることなくアスファルトにハンドルが奪われてしまうこともなく、安定した走行をH2 SXは続けている。

ぼくは震える気持ちを抑えてバイクの座席に立とうとまず右足をシートにあげ続いて左足をあげる。

屈むような格好でシートに座りゆっくりと身体を伸ばして全身で時速百三十キロの世界を体感する。

風が唸る。

クラクションが大きく鳴り響く。

静かにいつの間にか周囲の音が一つのウネリになって溶けていく。

ぼくはこのまま身を放り投げれば簡単に無機物へと変換されてしまい、ただのなんの変哲もないデータに還元されるのだということを頭の中でよく理解する。

すべての音が遮断される。

感覚が消える。

暗闇が終わる。

ぼくはゆっくりとシートを蹴り飛ばして空を飛ぶ。

頭の中で無数の声が一つになってぼくの形を正確に言い表そうとする。

「──大丈夫です! あなたは『改造医療実験体』零伍肆 斎藤誠です! 私たちを信じて! 追いついて! ──」

『HANZOU』のシートから飛び降りたぼくは空気抵抗を全身で感じながら、右斜め前方から近づいてくる悪意の連鎖を捕まえようとする。

バターみたいに溶けてしまった感覚を優しく悟り始めていたことが押し寄せてきて挫けそうになるけれど、時速百三十キロの世界ではそんな思考さえ追いつくことが出来ない。

右手にはいつの間にか『リトルガール』が握られていてぼくの意識と結合したことを確認すると、急激に高熱を帯びて一気に摂氏三千度まで達する。

ぼくは両手で『リトルボーイ』を握って思い切り振り上げると、そのまま滑空して全身のバネを使って思い切り位置情報に全く狂いがないことに確信を持って中心点へ向かって長針を振り抜く。

「ほら、死を選び取るのは見えているはずのお前だっただろう」

気付いた時には運動法則の基準は中心点を軸にした回転運動に切り替わり高速でぐるぐると暴れ続けながら前進を続けている。

おそらくその場を目撃した誰にも止めることが出来なかったし、誰にも邪魔されることすら有り得なかった。

ただ夜の帳がすっかり剥げきってしまい、赤いボディを顕わにしたイタリア製の高級車が近づくものをすべて吹き飛ばしながらエンジンやトランスミッションだけでなくボディの堅牢さも世界中に伝えるようにして回り続けると、たくさんの傷を負い、たくさんの巻添えを産んで、ゆっくりと回転運動を辞める。

『リトルボーイ』はタングステンの融点を超える超高熱を収束してフェラリーの上部パネルを貫いて、『睦業リンネ』の額を串刺しにしている。

やがて、『リトルボーイ』は三千三百八十度の高熱をリンネの身体に伝えて、脳髄と筋肉と神経と内臓と皮膚と、それから細胞に侵食させ、一気に発火させる。

ぼくはすっと『リトルボーイ』を抜き去ってフェラーリの車体から飛び跳ねて首都高中央環状線の路上に着地する。

クラクションが鳴り止むことがない。

発火したリンネの身体から炎が転嫁して暴力を制圧するために作られたスポーツカーが爆発する。

とても大きな破裂音と高熱と一緒に黒い炎が舞い上がり、あっという間に黒い煙が空を埋め尽くそうとするのを背中でしっかり感じ取っている。

ぼくはゆっくりとその場から離れるように前進して怒声と罵声と遠くから聞こえるサイレンの音を置き去りにしようとカストロールの甘い香りを頼りに、『衣笠祥雄』と『HANZOU』がいる場所まで歩いていく。

もう暗闇の壁はそこにはなくて、どこに何があり、どこに誰がいて、何を求めているのかが手にとるようにわかり始める。

ぼくの両眼は随分昔に光を失ってしまっているけれど、記憶野に保存されている情報と視覚野や他の感覚器官がぼくの視神経を代用しようと全力で走り回る。

『衣笠祥雄』が手を伸ばす。

ぼくは握り返す。

人の肌の感覚を八日と三十六時間ぶりに感じ取る。

ぼくは加速的に塗り替えられる速度の世界から帰還したことを実感する。

もう一度大きな爆発音がして悲鳴がまるで東京中を満たすようにあがり、新しい世界が近づき始めているんだってことをぼくに伝えようとする。

「さぁ、帰ろう。宴の準備はもう終わっているはずだ。血祭りにあげた征服が輪廻の輪から外れたことを肴にして外道共が騒ぎ始めるはずだ。ぼくらは彼らのいつもの悪い癖に巻き込まれる訳にはいかない。自分たちのやり方でやるべきことを続けよう。これはすべて本当の話なんだ。決して作り話なんかではないぼくらが手にするべき世界へ足を踏み入れよう」

『衣笠祥雄』が笑ったような気がした。

何かが許されたような気がして、無数のサイレンが炎と共に過去をデータへと変えていく現象の前に集まり始める。長居する訳には行かない。

再びKAWASAKI製の黒いNINJA H2 SXに跨ってエンジンに火を灯す。

アクセルブレーキを全開にすると狂乱が始まりだしたことをすべて置き去りにして、等間隔運動がぼくらのもとに戻ってくる。

中央環状線上り車線は酷い渋滞が始まりだして、茹だるようななんの変哲もない行列が目の前にゆっくり出来始めているのを感じ取る。

車体と車体の隙間を縫うようにして『HANZOU』で渋滞を通り抜けて行列の先頭へと躍り出る。

もはや前方に怯えるものは何一つないんだということを実感する。

『HANZOU』のエンジン音が何もかも黙らせる。

『衣笠祥雄』が高鉄パイプを振り抜いて後ろから追いかけて刈り取ろうとする黒い犬の気配を一蹴する。

ぼくらは二人でそのままタンデムを続けてレインボーブリッジへと向かう。

きっとあの場所は光の渦が渦巻いているけれど、ぼくたちは彼らから遮断されて暗闇の中にいることを悲しむ余裕すらないだろう。

──死ぬのはもう怖くなくなったよね。大丈夫、ずっと傍にいる──

『聞こえない眼』は爆発音を敏感に感じ取っている。

何十キロも離れた街のどこかで古い記憶が消滅させられようとしている。

白い暗闇は手加減することを辞めて力づくで、新しい星を手に入れようとするのだろう。

「また私は大切なものを失ってしまいそうな気がしている。あなたが傍にずっとずっといたはずなのに、もう指先には感覚すら残っていない。病的なほど求めていたはずなのに、存在を感じ取ろうとしても黒い煙が何もかも呑みこんで世界の向こう側へ連れ去ってしまう。今すぐに、会うことが出来ないってことをどうしてこんなに強く感じなければいけないのだろう。けれど、あなたはずっと意地の悪いやり方で私のことを感じ取ろうとしている。あなたはそういう人だ。出会わなければよかったと思ってしまう。だから」

芹沢美沙は一眼レフカメラを空に構えて、黒煙が満たそうとしている世界を捕まえる。

そのさきの言葉を言おうとして誤魔化すために芹沢美沙はきっとシャターボタンを押したような気がする。

デジタルデータに還元されてしまえば、肌の感覚も混ざり合った体液も粘膜と粘膜が触れ合ってもしかしたら一つであったかもしれないと錯覚を起こしたそういう嘘もすべてないまぜにしてRawデータの中に閉じ込めてくれるはずだ。

私が世界を切り取ってきた理由がもしそういう小さな弱い理由なのだとしたら、私はもう一眼レフカメラを手にすることが出来ないのかもしれない。

もっと強くて神々しい理由だけが私の選んだ画像の中には閉じ込められていたはずなんだって芹沢美沙は強く願い事をする。

空を流れている星ともしかしたらいつもどこかで起きているはずの黒い狼煙と自ら発光することを選んだ不完全な月の浮かぶ夜空が切り取られて0と1の記号へと変換された画像をデジタルモニターで確認しながら独り言を話している。

「大丈夫。聞こえているよ。遠ざかったりはしていない」

「また嘘をつく。けれど、私は私の姿を閉じる訳にはきっといかないんだ。私はあなたがどこにいたとしても見つけられると思うから。螺旋なんてものがある訳ないって少しだけ疑いながら、私はまたあなたに会いにいく」

「わかっている。今ぼくは芝浦を通り過ぎ、天現寺付近の風景を『衣笠祥雄』から伝えられている。見たことがない景色が広がっていてここはもう君がいる世界ではないのかもしれないと怯えて挫けそうになる。まあ、けれど、涙を流すのは男らしくないような気がしているからアクセルブレーキを全開にしている。あと少しで、環状線は抜けられる。もうぐるぐると回り続ける必要がないような気がしているんだ」

悲鳴も怒号も歓声ももう聞こえることはない。

機械に跨がりながら、空を飛ぶ夢を見ている。

暴力が内蔵された世界からぼくは抜け出して、人間が人間を蹂躙する世界に逃げ出すんだ。

きっとそのほうがいい。

不完全な暴力ならば、きっとそのほうが少しだけ優しい気がしているんだ。

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