見出し画像

『ノルウェイの森』の頃

 2019年9月より音楽ナタリーで連載している「青野賢一のシネマミュージックガイド」は、新作旧作、洋の東西を問わずピックアップした映画を、作中の音楽を軸に論ずるもの。Vol. 11で取り上げたのは『ノルウェイの森』(2010)であった。ご存じのようにこの作品は村上春樹の同名小説を映画化したもので、監督を務めたのはトラン・アン・ユン、音楽をジョニー・グリーンウッドが手がけている。本稿では、連載で触れられなかったこの作品の時代背景––––1960年代の終わりから70年代にかけて––––を述べていこうと思う。
 映画の始まりは1967年。ワタナベ(松山ケンイチ)とキズキ(高良健吾)、そして直子(菊地凛子)は同じ高校の同級生だ。作中、明言されてはいないが、彼らの地元は小説では神戸ということになっている。この年にキズキは自殺。ワタナベは高校卒業後、東京の大学に進学のため上京する。大学入学は1968年である。

映画では見えにくい大学闘争


 1968年で思い出されるのはパリの五月革命や日本でのいわゆる学生運動、学園紛争で、本作でもワタナベが大学構内でヘルメットをかぶりマスクやタオルで口と鼻をおおった学生とすれ違う場面がある。彼、彼女たちのうち、何名かは旗やゲバ棒を手にしている。一方のワタナベはごく普通のいでたちだ。この時代に立ち会っていない人たちからすると、当時の大学生の誰しもが学生運動に参加していたと思ってしまいがちだが、実際のところはワタナベのようにそうではない学生もいた。「1968年の4月には、まだなんでもなかった。キャンパスは平和で、のんきに新入生を迎えていた。それがなんだか慌ただしくなるのは6月で、夏休み前にはストに突入している」とは、この時に東京大学の学生だった橋本治の言葉だが(毎日新聞社『新装版1968年グラフィティ』所収「『とめてくれるなおっ母さん』を描いた男の極私的な1968年」)、橋本はこれに続けてこう記している。「周りはそうだが、私はもちろん関係なかった」。ちなみにワタナベがすれ違った人々のヘルメットは水色、赤、黒の3色なのだが、これは学生運動の各派––––ヘルメットのフロントに団体名が書かれている––––で色が異なるためである。
 先に引いた『新装版1968年グラフィティ』には、やはり橋本治による「年頭言1968年」というテキストがあって、こちらにはこの年になぜ大学闘争が多発したかが簡潔に記されている。曰く、東大のそれはインターン制度を登録医制度に変更せよという医学部内の問題だったが、これに際し教授に暴力をふるったということで学生の何人かが処分された。それは事実誤認だったが、大学側が過ちを認めなかったため、運動は大学全体に広がることとなった。また、日本大学の日大闘争は大学に20億円の使途不明金があったことに端を発したデモ行動で、いずれも「実のところ、『70年安保の接近』とはあまり関係がない」(「年頭言1968年」)。そしてこれらの闘争は、学生から見れば大学の欺瞞を暴く「闘争」だったが、大学側からすれば、学生が騒ぎ立てる「紛争」という認識であり、この齟齬が事態解決に至る前段階で議論となって激化、最終的に武力行使––––学生と大学側である機動隊や警察双方の––––での決着という道をたどったのだった。

学生運動と70年安保、ベトナム反戦運動

 しかし、「あまり関係がなかった」とはいえ、2年後に控えた70年安保やかねてより活発化していたベトナム反戦運動といった事柄が学生運動に少なからず影響を与えていただろうことは想像に難くない。『新装版1968年グラフィティ』の編集長・西井一夫によれば、1960年代後半の学生運動は「一方に慶応––早稲田––明治––中央と続く学費闘争という大学紛争の流れがあり、もう一方には、ベトナム反戦運動や日韓条約反対、ASPAC反対といった国際情勢のからむ闘争課題があり、それらは、例えば米軍基地闘争(砂川闘争・沖縄闘争等)や米軍燃料補給・輸送阻止闘争となり、タンク車の通るのを阻止する新宿米タン阻止闘争となった」(『新装版1968年グラフィティ』所収「学生運動の雰囲気」)。ASPACとはいわゆる西側陣営に属する日本、韓国、台湾、フィリピン、南ベトナム、タイ、マレーシア、オーストラリア、ニュージーランドが開いた閣僚会議=アジア太平洋評議会のことである。こうしてみると、当たり前だが人によって学園闘争や学生運動の捉え方や理解は多少の温度差があることがわかるのだが、とはいえこれらの運動や闘争が「実際の行動」をともなって展開されてきたことは紛れもない事実である。

共闘できない登場人物たちの孤独


 学生運動における「実際の行動」とは、暴力や破壊行為をともなうことも多かったデモや、ストライキなどが挙げられるだろう。一方、映画『ノルウェイの森』の主要な登場人物たちは、そうした行動とは一線を画している、というか学生運動的な意味での行動とは無縁といっていい。では、ワタナベはどんな行動をとっていたかといえば、アルバイトや、先輩の永沢(玉山鉄二)とガールハントに出かけ、そこで知り合った女性と一夜をともにしたりといったところだ。日本どころか世界規模で巻き起こっていた「革命」の機運にまったく乗れなかったワタナベ。映画では大学闘争は学内の風景よろしく後景に退いているのでわかりにくいかもしれないが、共闘できないワタナベには、疎外感や孤独が常にまとわりついているようだ。その点ではほかの登場人物たちもワタナベと大差ない。皆、自分とそのまわりのことで手一杯なのである。
 さて、先ほどワタナベと永沢のガールハントの話題を出したが、作中の女性登場人物たちの性に対する態度にも触れておきたい。水原希子が演じる緑は何の衒いもなく性にまつわる話題を会話に放り込んでくる。これについても、時代の影響という部分は少なからずあるだろう。この頃は、学生運動やベトナム反戦運動とも関連して、女性解放運動も盛んになっていたのだ。

性にまつわる発言から見える時代の運動


 1970年前後には「ウーマンリブ」運動の第二波(第一波は19世紀後半から20世紀初頭といわれている)が生じる。欧米を中心に、女性の労働条件の改善、男女平等を掲げる団体が登場。男性より劣り、それゆえ男性に従属するのが当然という女性についてのそれまでの考えを真っ向から否定し、女性の権利を確固たるものとするこの運動においては、性に関する事柄も重要なトピックスであった。経口避妊薬の開発やヒッピー・ムーブメントにおけるフリー・セックス、フリー・ラブといった思想などを背景とした「性革命」と称される性への意識の変化がこれに関与していただろうことは想像にたやすい。要は、あらゆる局面において女性が抑圧から解放されることが求められたのだ。性に関するトピックスへの積極的な関わりは、旧式の価値観への反抗であり先進性の表れであって、この点において緑は新しい時代の女性ということになろうか。また同様に直子も性についての考え方は保守的ではない。この時代の東京における性についての態度は、たとえば大島渚の『新宿泥棒日記』(1969)や『東京戦争戦後秘話』(1970)といった作品からある程度うかがい知ることができるのだが、そうした時代背景がわかると、緑や直子の言動、行動も納得できる部分があるように思う。彼女たちは色欲魔ではないのだ。

セックスと生死の関係


 性に関する態度ということでいえば、この映画は人の生死とセックスがわかりやすく関連づけられている。セックスする/できる人間は生き続け、できなかった人間は死んでゆくのである。主要登場人物を振り分けると、前者はワタナベ、永沢、レイコ(霧島れいか)、後者はキズキ、直子となる。緑はワタナベと出会った頃には恋人がいたが、その彼と旅行に行った際に生理のためセックスできなかった。しかしのちに恋人と別れ、(映画では明確に表現されてはいないが)おそらくはワタナベと結ばれたはずであり、前者と考えていいだろう。永沢の恋人ハツミ(初音映莉子)は永沢から離れて別の男性と結婚後に自殺してしまう。想像の域を出ないが、夫となった人物とはセックスレスだったのかもしれない。このように、セックスという行為を生命力の発露として描いており、このことは緑がみずみずしい肌である一方、直子が次第にくすんで見えてくるようなディテールにも及んでいるように思われるのだが、いかがだろうか。

1987年の大学の景色


 ここまで映画の時代背景を早足で述べてきたが、原作となった小説の『ノルウェイの森』が出版されたのは1987年。これは私が大学に入学した年なのだが、当時を振り返ってみると、私が通っていた明治学院大学では、左翼的な立て看板が学内にまだあるにはあったが、それは「残滓」という表現がぴったりなほど前時代的で小さな存在であった(60年代の学生運動の中心だった大学ではどうだったのだろう?)。権威や体制への異議申し立てを行った学生運動ははるか後景となり––––とはいえ完全に見えなくなっていたわけではない––––、バブル経済による奇妙な高揚感が世の中を覆ってゆこうとするこの年にあって、小説版『ノルウェイの森』は、なくなりつつあった1968年の記憶や風景を残しておく最良かつ最後のタイミングで執筆、出版されたといえそうだ。60年代の空気のかけらは、1987年には注意深く見ればまだギリギリその存在を確認できたのである。
 1968年を追想して1987年に出版された小説『ノルウェイの森』が映画化されたのは2010年。作中に描かれている時代からはずいぶんと時間が経過し、また映画の演出からかストーリーを追ってゆくと時代設定が見えにくいため、本稿にまとめてみた次第である。加えていうなら、本作の主な舞台である1968年は私の生まれた年で、前述の通り小説出版が大学入学の年。そんなこともこのテキストを書こうと思った動機の一つだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?