形骸化されたルールが神格化されている企業の悲劇について
企業は様々なルールとともに存在する。
社会人としてあるべきルール、就業規則などもルール。
法律をベースに、規格などを作り上げて、さらに重要なものをルール化する。
過去に起きてしまった悲劇を繰り返さないために、出来るだけ網羅的に安全を守ることが出来るルールも存在する。
他にも細かいルールを決めて、出来るだけ迷うことがないようにする。
ルールを守り、ルールを守らせることによって、秩序を保つ。
そして、そのルールを疑ってはならないし、帰ることもまかりならない。
それはまるで神格化されたルール。
そのような多くのルールについて、たまにとても悲しい悲劇が起きたりする。
現在工場におけるルールとして、作業中には「作業中」であることを周囲に示す「札」を操作盤につけるというものがある。
その目的は、作業中であるにもかかわらず他の人にその機械を動かされてしまうことによるリスクがあるから。
勝手に機械を動かされてしまったことによる事故や機械に挟まれるなどの悲劇というものも、様々な事故事例として世の中に存在している。
このルールそのものはとても大切であり、その人の命を守るものとして機能している。
しかしながら、明らかにその人しか操作盤に触れない場所で作業をする場合でも、札をつけることがルールになっていることによる悲劇が発生した。
ある時に、操作盤と作業をする場所が全く同じであることがあった。
機械の可動範囲も狭く、その人の手に届く範囲のみであった。
ルールに従って作業するときは、操作盤に札をつける、微調整する、札を外す、機械を動かす、札をつける…が繰り返されるのが実際のところ。
ただ、ある人がその作業を実施したときに、札をつけずに作業してしまったという。
もちろんそのほうが機械を少し操作しながら微調整をするということで、効率的に行えるはずであった。
しかしながら、ルールに従っていないため部内で大問題となり、始末書を書いて報告書含めて上位職に報告することに。
報告の会議ではルールを守らなかったことに対して、かなり紛糾したらしい。
第三者から見たら明らかにその人しか動かせない範囲の機械であればそもそも問題が起こりようもないし、そのルールが適用されていることに疑問を感じるもの。
しかしながら当事者やその部署の人たちは誰一人そのおかしさに気が付かない。
もしくは気付いたとしても、そのルールに対しておかしさを言い出せない。
それはルールが神格化されているから。
「実」を取ることがなく、「ルールだから」の一言ですべてが決まってしまう事。
これは健全な状態といえるのだろうか。
もちろんここで示したルールに関しては、形骸化されたものではなく立派な機能しているルールであることは間違いない。
しかしながら場面や場所、状況を考えてルールの適用有無をもう少し考えることが出来たのならば、このようなことはおこらなかった。
他にも、現状は機能していないにもかかわらず形骸化したルールはごまんと溢れている。
そして形骸化した神格化したルールによって縛られることによって、思考が縛られている。
本質部分としてのルールが機能するのであれば意味があるが、本質部分が放置されたままはりぼてルール状態になっている。
そのようなルールが溢れている企業は果たしてどれくらいあるのだろうか。
無思考でルールが運用されていること、それが原因で起こる無駄な仕事という悲劇、それはどうすれば止められるのだろうか。
形骸化された状態のルールが神格化されて、絶対視されている組織。
滑稽に思えるかもしれないが、令和の現代でも多く存在している。
「なんでこんなことになっているんだろう」ということすら疑うことが許されない状態。
これは本当に健全と言えるのだろうか。
状況に応じてフレキシブルに実を取った状態でのルール運用。
それが出来れば、もう少し労働生産性は上がるに違いない。
そしてこのカチカチに固まったルールがフレキシブルになり、実がしっかりと機能するようになる時、真の意味での労働災害がゼロになるに違いない。
ただ、そのような日はまだしばらく来ないかもしれない。
ハリボテ化したルールが神格化されているかぎりでは。
ありがとうございました。
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