相手に考え方を強制しない、そして相手に考え方を強制させない
物事は何々であるべき。
その考え方は正しくない。
こうでなければならない。
その意見は認められない。
様々な形で否定が飛び交う世界。
とても窮屈で、枠にはめられているような気がする。
ほとんどの世界が、このように強制という枠に当てはめられることによって成り立っている。
そして自由に考えることを許さないようにも感じる。
確かに自分自身が事実に対して明らかに異なっている状態というものは、正しいものに考え方を改めたりアップデートするのはいいかもしれない。
そうすることによって、より事実に対して忠実にいられるようになるのだから。
だからといって、誰かから解釈の部分に対して色々と強制されたりするのは、気分が良いものではない。
自分自身が思っている解釈で十分良いものであるように感じる。
もちろん、考え方を変化させた方がより自分の望むところにたどり着く可能性があるのなら、変えてもいいかもしれない。
時には素直であることの方が、より良いこともあるに違いない。
ただ、解釈が自由のはずのものに対して考え方を無理やり変えさせられるということについては、あまり納得がいかない。
だからこそ、考え方そのものは誰かに強制されるべきでは無い。
同じように、考え方を誰かに強制するべきでもない。
考え方を強制させる世界にいる限り、窮屈であることからは逃れられないのだから。
考えを強制させる世界から離れるにはどうすればいいのか。
それは先に、自分自身が絶対に相手に考え方を強制しないということがとても大切。
自分の考え方が合っていて、相手が間違っているように感じても、考え方を強制しない。
意見を求められたのならば、自分自身が考えるものとして述べておけばよい。
ただ考え方が異なるということのみで、相手にその考えの変更を要求する必要は無い。
その結果としてどのような場所に相手がたどり着くことがあろうが、気にする必要は無い。
あくまでもその人の考え方に自由があるのだから、それに任せておけばよい。
あの時に何でもっと強く言ってくれなかったのという事に対しても、気にする必要はない。
その考え方に責任があるのは、あくまでもその考えを採用したその人自身であるのだから。
そして相手から考え方の変更を要求される場合であっても、自分自身の考え方と相いれなければ受け入れなければいい。
受け入れても受け入れなくても、採用した考えはすべて自分自身の責任になるのだから。
もちろん相手側の意見がより良いなと思うのならばそれを受け入れてもいいし、その部分はいつでも自由。
ただ求めていないのに相手が意見を強制してこようとするのならば、その相手から離れればいいだけ。
あくまでも自分自身が考える最適解を選べば、それで何も問題ない。
その結果として何か不利益に見舞われたり、良くない状態に追い込まれるのならば、その環境から離れればいいだけ。
物理的に難しければ、意識という面から離れればいいだけの話。
そうすることによって影響を断ち切ることが出来る。
物事を相手に強制させない。
そして相手に強制しない。
自分の選択権を相手にゆだねない。
相手の選択権を自分にゆだねさせない。
この二つを常に意識する在り方。
それこそが、自立している在り方。
そしてそれが常に成立している世界こそが、和の世界。
本来あるべき和の世界に、そろそろ戻ったほうがいいような気がする。
ありがとうございました。
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