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違いがあるから認識できる

だれもが一度は、自分には特別なことがないという風に考えることがあるかもしれない。

自分には特別な才能も特技も何もない。

普通で何も優れたことがない、何も面白みがないという事。

一人で考え続けると、この思考に陥ることがあるかもしれない。

ただそれは、自分にとってその素晴らしさや違いが見えていないだけ。

つまり、他の人と比較して違いがあることによって初めて認識が可能になるものであるということ。

そもそも全てが同じであったら、すべての物事に対して疑問にも思わないし、そもそも認識が出来ない。



海外旅行に行って日本との違いを知って、その結果日本というものを認識できる。

転職をして元の会社との違いを知って、その結果元の会社もしくは新しい会社のすばらしさを認識できる。

結婚して独身との違いを知って、その結果両方のすばらしさや大変さを認識できる。

空気の存在も、水の中や宇宙空間という空気がない場所を知ることで初めて認識できる。

マスクが当たり前の社会をについては、していない社会を経験して初めてこの状態が特別なことであると認識できる。

戦争がないことが当たり前の現代の日本社会では、ウクライナなどの現場を体験することで初めて知ることが出来る。

教科書が正しいとしていることについては、教科書とは違うことが発見されることで初めて教科書にも違いがあることを認識できる。

「常識という枠組み」を認識するためには「常識」を超えた状態や環境を経験しない限り、「常識という枠組み」を認識することはできない。



ここから何が言えるか。

それは比較することによる違いがあるおかげで、自分が認識することが出来るようになるということ。

だからこそ、違いはあっていいことだし、それに感謝出来ることがとても幸せであるということ。

もっともその違いを認識することが出来るのは、画面を通して知ることではなく、実際に普段とは異なる現場を経験することが一番。

そして自分自身が当たり前ということは、他の人にとっては当たり前ではないという事。

例えば自分が毎日している仕事や学び、とことんはまっている趣味の分野については、他の人に話して初めて特別なことであるということに気が付く。

他者は自分の写し鏡は、まさに言葉通りそのものである。

だからこそ、違いを認識させてくれるすべてのヒトやモノに感謝することがとても大切。

「他者」がいないと、そもそも「自分」が存在しない。

人間として生きていて各個人が分離を経験出来ているからこそ、その分離状態をより楽しむことが出来るのが一番大切なこと。




違いを排除することや、同じことであることを強要するのではなく、その違いこそ自分自身を認識させてくれる素晴らしいもの、認めて尊重することこそが今求められていること。

人と違う事が異常と感じさせるような社会と、人と同じことが異常と感じさせるような社会についても、どちらも強みと弱みがある。

両方を経験し十分に知ったうえで最も自分に合った選択を、誰もが自由に行使できることが必要。

常識という空気で強要させられることなく、だれもが自由に自分の意思を「表現・創造」できる社会でありたい。








ありがとうございました。

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