使っている言葉の種類と表現から、その人が住む世界を見極める
毎日言葉を使わずに過ごす日はない。
誰とでもコミュニケーションを取るためには、文字・音声など複数の種類があるものの、言葉をつかうことが基本的な伝達手段になっている。
メッセージの種類や伝え方・表現にはいろいろあるかもしれないが、物質社会を生きる私たちには形として認識できる言葉が道具として必要不可欠。
もちろんより高度な情報、いわゆる「ハイコンテクスト」なメッセージのように雰囲気で伝わる種類もないわけではないが、今の段階ではあくまでもお互いの空気の読み合いから抽象的・想像物として作られているもの。
なので具体性を帯びるメッセージは、言葉として伝えられるのが望ましい。
世の中に対する思い、それを形として伝えたいという思いは、おそらく誰にでも存在する。
個人に向けたメッセージ、組織に向けたメッセージ、社会全体に向けたメッセージ。
規模や範囲はそれぞれ異なるが、色々なメッセージが世の中には飛び交っている。
誰でも自由にメッセージを発信することが出来て、双方向に対して不特定多数の誰でも自由に受け取ることが出来る状態になっている世の中は、過去の歴史から見るととても珍しい。
そして思いをもって発信することはとても素晴らしいことでもあると同時に、客観的に注意をした方がよいことがある。
というのもこれらの言葉は最終的には「自分自身」に向いているから。
優しい・柔らかな言葉を使い続けている人は、世の中に対する見え方や表現方法がとても穏やかなエネルギーに溢れている。
そしてその人が囲まれている言葉・過ごしているコミュニティー・世界の見え方は、ストレスがかかりにくい状態で愛に満ち溢れている。
一方で厳しい・鋭いで言葉で発信されている場合は、世の中に対する見え方や意識が尖っているエネルギーのように感じる。
そしてその人が囲まれている言葉・過ごしているコミュニティー・世界の見え方は、ストレスがかかりやすく不安に満ち溢れている。
これは世界の捉え方そのものでもあり、言葉が人格を形成していること、言霊の不思議というものでもある。
そしてもちろんどちらの世界にも優劣はない。
自分自身がどちらの環境が過ごしやすいのか好むのかという事は自由であるし、そこには制限はない。
過酷環境でしか生きられない生きものがいるように、言葉が客観的に過酷とされる環境でしか生きられない人もいるのだから。
その逆もまたしかり。
ただ、自分自身が扱っている言葉とその影響は客観的に見ることが出来たほうが望ましい。
ネガティブな内容の発信・言葉の種類が、世の中には溢れている。
特にSNS界隈では、対立する相手への言語表現は容赦ない。
それは意見を超えて、誹謗中傷の域を超えて、もはや暴力のように感じるものすら多く見かける。
ある時に自分の意見や思いを効果的にに伝えるために「手段」としてわざととげとげしい表現をするというのもあるかもしれない。
そこには相手をコントロールしたいという意図が見え隠れする。
ただそこ対して何らかの痛みを感じる人がいることを、その結果がさらなる恐怖・不安を引き起こしていることは間違いない。
その言葉の種類や表現が発信者そのものをより不安のある未来に導くことは、あまり自覚されていない。
なので一度自分が普段使っている言葉の種類全般を客観的に評価してみるのも、場合によっては面白いかもしれない。
それにより、自分が相手がどのような世界に住んでいるか、ある程度つかむことが出来るのだから。
波長の合う同じ思考を持つ人は、同じような言葉を使うことが多い。
それが集い合って、新しいコミュニティーが生まれる。
その空間は、発信する表現や思考が似ていて、とても過ごしやすいもの。
過去は決してつながることのなかった時間的・空間的制約があったことに対して、現在はそれを飛び越えて自由に同じ表現を好む個人同士がつながることができるようになった。
今だからこそ、自分自身の言葉と表現を磨き上げて、新しい未知の素晴らしい仲間を求めていくのも、今の時代ならではの人生の良い冒険になるかもしれない。
ありがとうございました。
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